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あそびとはケアである:日常の大変!を撹乱する「家族のあそび」とは?

前回、家族の対話の前にセルフケアが必要で、そこには「個人のセルフケア」と「家族としてのセルフケア」の両方が必要なのでは?というお話をしました。

ただ、日々家事や育児や仕事など、全てに追われる生活を送っていると、一人でリフレッシュする時間も家族でゆっくり過ごす時間もない!というのが現状かと思います。そこで、何か特別なことではなく、日常に溶け込んだ家族の「あそび」が家族としてのセルフケアになるのでは?ということで考えてみました。

日常の「大変!」を撹乱させる「あそび」とは?

ここで言う「あそび」とは、遊園地に遊びに行く、家族で旅行に行くのように、何かの家族イベントを企画してやりましょうということではありません。どちらかというと、「ふざける」「面白がる」「あそび心」のような意味合いです。

何気ない日常の中に面白いことがいろいろあるのに、気持ち的にも時間的にも余裕がないと、そこにある面白さをスルーしてしまいがちです。でも、その面白さに光を当てて、立ちどまって眺めてみることで、肩の力がふっと抜けて、さっきまで重くのしかかっていた「大変」がちょっと軽くなったりします。

そこに「あそび」があることで日常の大変が撹乱されて思わず笑ってしまう、そんなイメージです。

三兄弟の子育ての大変さを撹乱させてくれたあべこべ靴下

例えば、わが家の三男はいつも左右違う靴下を履いていました。家族が多いわが家では洗濯物の靴下を揃えてしまうのが一苦労。いつも、別の靴下をセットにしてしまってしまいます。ところが、三男はそれが面白かったらしく、そのままいつもあべこべの靴下を履いていました。

三男の一番あべこべだった「あべこべ靴下」(笑)

どうせあべこべに靴下を履くので、靴下を揃えるという作業も不要となり、あえて変な組み合わせで靴下をしまうことに。そのお陰で、洗濯物を片付けると言う作業がなんだか「あそび」に変わりました。上の二人はあべこべにされるのが嫌なので、靴下を一種類しか買わなくなりました(笑)

いつもあべこべに靴下を履いている三男を見るだけで、なんだか「ちゃんとすること」がだんだんどうでもよくなって。「あべこべ靴下」のお陰で、大変さに埋もれていた、子育ての楽しさを再発見したような感覚でした。

あそびとは快を与えるもの

ミゲル・シーカルは著書『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』で、遊びについて以下のように述べています。

遊ぶことは世界のうちに存在することだ。それは自分を取り巻いているものを。そして自分が何者であるかを理解する形式であり、他者と関わり合う方法だ。遊びは、人間であることのひとつのモードなのだ。
・・・(中略)・・・
遊びは、それがわたしたちを傷つけたり、いら立たせたり、悩ませたり、わたしたちに課題を与えたりするときにも、あるいは場合によっては私たちが遊んでいないときにすら、快を与えるもの(pleasurable) になり得る。そういうわけで、遊びを楽しいものとして語るよりも、快を与えるものとして語ったほうがよい。

ミゲル・シーカル, 2019『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』

遊びは日常の中や私たち自身の中に存在していて、それはたとえ私たちが楽しくない時にも「快」を与え得るもの。
ここに家族のケアの鍵、いや本質がある気がします。

「楽しくするためにあそぼう!」と言ったとたん「あそび」ではなくなる

あべこべ靴下は狙って生まれたものではなく、日常のおふざけから生まれたものでした。これが「日常を楽しくするためにあべこべに靴下を履きましょう!」と言った途端、あべこべ靴下はつまらないものになってしまいます。

楽しさも可愛さも面白さも半減です。

あそびは「あそべ!」と言われると途端にあそびではなくなってしまいます。
家族のセルフケアには「あそび」が有効!だから「あそびましょう!」
最悪です。

そういうことではないわけです。

では、どうした良いか。
チームわが家の問い直しを伴走くださっているMIMIGURI臼井さんの提案で、日常を面白く遊んでいそうな人たちの力を借りることに。ということで、実現したのが、アーティストのみなさんと家族のあそびについて考えるワークショップでした。

次回よりイベントレポートをお送りします。

イラスト画像:さのはるか @USANET

参考文献
ミゲル・シーカル, 2019『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』松永伸司訳 フィルムアート社