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心のしこりの昇華:子どものころの自分との対話

物心ついた時から中学生までを住んでいた町で過ごした数日間。期せずして、子どもの頃の自分との対話を通して、心のしこりを昇華する時間となった。備忘録として自分のために書き残すと共に、もし誰かの役に立てばという思いで共有したい。

私は中学2年まで北海道の上富良野町で育った。大雪山連峰に囲まれた、自然豊かな小さな町で、友達も幼稚園から中学校まではほぼみんな一緒。そんな温かい町で育った。

いい思い出も沢山ある。でも、どちらかというと辛い思い出の方が多い。
それは、母と私の関係性にある。

母は私が物心ついた時から病気だった。それでも一時は回復し、私の小学生時代には仕事をしたりPTAの役員もやっていた。人付き合いが上手く、その母のおかげで、わが家にはいつも色々な大人達が遊びに来たり、家族ぐるみで付き合う家族も沢山あった。おそらく、あの町で母を知る多くの人は母のことを「とてもいい人だった」と言うと思う。

そんな母は私にはとても厳しかった。おそらく、私の世代の人たちは親に厳しく怒られたり、時には叩かれて育った人も少なからずいると思う。もちろん、いつも怒られていた訳ではなし、楽しく過ごした時間もあったように思う。

でも、怒られている時もいない時も、私の心にはいつも大きくてシンプルな問いがあった。

「母は私のことを好きなのだろうか」

私が思い出す母の顔は笑顔ではない。遺影も笑顔だし一緒に笑顔で写っている写真も何枚もある。けれど、私に向けられた笑顔を思い出せない。
そして、母から「あなたのことが大好きだよ」と言われた記憶がない。言われたことはあるのかもしれないけれど、記憶にないし、もちろん、母に直接聞いたこともない。

確かめることができないまま、母は私が中学生の時に病気が再発し、闘病生活の末に亡くなった。そして、いつしかこの問いのことも忘れてしまった。

ところが、私自身が三人の息子達の親になってからこの問いは再び姿を現した。

「母は私のことを好きだったのだろうか」

私は親になった時に私は子ども達を愛せるかどうかに全く自信がなかった。でも、大変なこともたくさんあったけれど、息子達は私のことを愛してくれ、私も息子達を愛することに何の努力も必要がなかった。

「私がこの子達を自分の命より愛おしいと思うように、母も私のことを思っていたのだろうか」

自分の息子達が私と同じ問いを抱えなくてもいいように、何度も何度も言葉で「大好き」を伝えた。息子達は私の口癖ぐらいにしか思っていないと思う。お陰で息子達からはそのうち「うん、知ってる〜」と答えが返ってくるようになり、それが私を安心させた。

一方で、私の母への問いは「しこり」のように心に留まったままだった。そして、家族に大変なことが起きる度にその「しこり」は大きくなっていた。特にこの数年は本当に色々なことがあり、毎日しこりの存在を感じるようになった。

「母は私のことを愛していたのだろうか」

これまで色々な本を読み漁った。どうやら「母親に気持ちを伝える」と言うのが一番良いらしが、母が亡くなった今はそれはできない。

父に聞くと言う選択肢もあったが、母のことが大好きだった父に聞くことで、母との美しい思い出を汚してしまうようで聞けなかった。私のせいで、父に嫌な思いをさせることは私が望むことではなかった。

今も時々電話する母の姉にあたる伯母がいる。その伯母に聞いてみようと何度も何度も思ったが、聞く勇気がなかった。
「あんたは大変な子だっていつも言ってたよ」
そんな答えが返ってきたら心のガラスのような部分が壊れてしまいそうな気がして怖かった。

どうすることもできないまましこりは大きくなり続けたけれど、もう一生このしこりと生きていくしかないと半ば諦めていた。

今回、仕事の一環で北海道に来ることになった。繁忙期の真っ只中だけれど、せっかくだから少しゆっくり過ごそうと思った。

最初は子どもの頃にキャンプで行った観光地を巡ってみようかと思って観光地のホテルを予約した。でも、なぜか上富良野に数日間、予定を立てずに滞在してみたくなった。全ての予約をキャンセルし、上富良野のホテルを予約した。

レンタカーを借りて、千歳から占冠経由で上富良野に入った。富良野あたりから子どもの頃に見慣れた景色になった。上富良野についてそのままホテルには向かわず、暗くなるまで車で町をぐるぐる回った。

住んでいた家、小学校、中学校、神社、通園路、通学路、子どもの頃に遊んだ公園。今でも残っている建物や家もあった。

気になったところにはもう一度戻り、車をとめて降りてみた。
空気を感じ、匂いを嗅いで、子どもの頃に見ていた景色と重ねてみると、その頃の気持ちも蘇った。
まるで、小さな自分と対話しているような不思議な感覚だった。

翌日も同じことを繰り返した。
正直、もっと悲しくて辛い気持ちになるかと思ったけれど、そうでもなかった。
気持ちは非常にフラットで、感情を切り離して自分のことを客観的に確認していく、そんなある意味とてもドライなプロセスだった。

今でも繋がっている友人数人に連絡をして、夕食を共にした。
別に誰かに聞いてほしいという訳ではなかったのだけれど、友人達と子どもの頃のことを話しているうちに、自然と私の母に抱いていた気持ちとそれが辛かったと言うことが口から出た。

「そうだったんだね。全然知らなかった。自分達が知らないところで本当は大変だったんだね。」

そんなふうに友人達はその気持ちをさらっと受け止めてくれた。
ほんの数分の出来事だった。でもその瞬間、心のしこりがしこりではなくなっていた。

「母が私を好きだったかどうか」
と言う問いはまだあるけれど、その答えがもう必要ではなくなった。
そんな感覚だった。

父と電話で話した。昔住んでいた家の写真を送った。
父はとても嬉しそうだった。その声を聞いて、なんだかとても嬉しかった。

「心のしこり」との付き合い方は人ぞれぞれだと思う。
専門家の力を借りることも必要だと思う。
向き合った方がいい場合もあるし、塩漬けにしておいた方がいい場合もあると思うし、蓋を開けるタイミングもきっとその人にしかわからない。

今回、上富良野での経験も、「さあ、心のしこりと向き合うぞ!」と計画したものではない。「期せずしてそうなった」と言う結果でしかない。

でも、「なぜ、期せずしてそうなったのか?」をあえて問うてみると、
この半年間、自分の仕事の一環で「家族」について様々なことを学び、考え、整理したことが、結局自分にとっての家族の問い直しにもなったのだと思う。

さらに言うなら、実はこの数年間、今の家族においても危機的なことが色々起こっていた。でも、「チームわが家の問い直し」を行っていたことで、過去の自分のことも、今の家族のことも感情を切り離して客観的に捉え直すことができたのだと思う。

問いの答えを持っているであろう人がもうこの世にはいなくて、
もしかしたら問いの答えを持っているかもしれない人を傷つけることが本意ではない場合、どうしたら良いのか。

私の経験はその答えではない。
「リフレクション」と言うカタカナはあえて使いたくない営みだった。
でも、同じように心のしこりを抱えている誰かの何かの参考になれば嬉しい。