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深作ヘスス 10才、移民した親族と初めてのアメリカで感じたこと

深作ヘススです。
前回のボーイスカウトについての記事に少し書きましたが、10才のときにアメリカに行った話です。

アメリカに移民した親族

私のペルー人の母のきょうだいや親族たちは、ほとんどがアメリカに移民しています。

ペルーで起きた日本大使公邸占拠事件をご存知の方も多いと思いますが、当時のペルーはテロリストがまだまだ多い時代でした。
そんな中、私の母のきょうだいや親族たちは、命からがら、危険やリスクを承知の上でアメリカに移民として渡っています。

国を捨てる、安全でないから国から出なければいけない、ということを体現してアメリカに渡った人たちが母の親族にいることから
「日本がいかに平和で安全な国か」
ということを母からずっと聞かされて育ちました。

日本人の勤勉さであったり、日本で育つことがいかに恵まれているか、というようなことを母は毎日のように私に話していたのです。

アメリカにいるペルー人のおばあちゃんと

10才の夏、初めてのアメリカへ

小学校4年生(10才)のときに、私は初めてアメリカに行きました。
母が私を空港に送り込んでくれ、ひとりで飛行機に乗って、CA さんに手を引かれながら現地の空港に着きました。
初めて出会う自分の叔母(母の妹)の家で、夏休みの2ヶ月間、預かってもらうことになったのです。

叔母の家にも同い年の従兄弟がいて、初めて出会う人たちと10才のひと夏を過ごしました。
それが初めてのアメリカの経験です。

10才、初めてのアメリカで感じたこと

当たり前のように自分の親族が外国にいて、別の言語を話していること。
この夏の経験を通じて、まず自分自身にとって、海外というものがそんなに遠い場所ではないということを改めて感じたと思っています。

私がステイした叔母の家は、ペルーからアメリカに移民した叔母、エジプトからアメリカに移民した叔父の家だったので、子どもたちは「英語」と「スペイン語」と「アラビア語」を話していました。
そんな環境で2ヶ月間育ててもらって、私自身、10才でありながら、アメリカという国には多文化が共生していることを理解しました。

アメリカ国内でスペイン語が当たり前に使われていたり、その家庭内ではアラビア語が使われていたり、それを目の当たりに見て、アメリカは多文化の移民国家であるということを肌感覚として理解したのがこの10才の夏の経験だと思っています。

ホワイトハウスとアメリカ連邦議会

私がステイしていた叔母の家はニュージャージー州(ニューヨーク州の南)だったのですが、私に色々な地域を見せてあげたいということで叔父と叔母が2ヶ月の間に車でワシントンD.C.に連れて行ってくれました。
当時は9.11の前だったのでホワイトハウスの中に入ったり、連邦議会の前のナショナル・モール(フォレスト・ガンプで有名なロケ地ですね)でピクニックをしたり、そんな経験をさせてもらいました。

将来の自分が在アメリカ日本国大使館で働くようになり、そのホワイトハウスに入る日本の総理のロジスティックス(多岐にわたるサポート)を担当したり、そこで働くシークレットサービスと調整をしたりするようになることは、もちろん全く想定していませんでした。

この写真はアメリカ連邦議会の前で写真を撮ったものですが、将来、そこが自分の職場になる、ということも当時は全く思っていませんでした。

アメリカ連邦議会前で(ヘスス10才)

しかしながら、間違いなくその10才の時にアメリカに行ったことがきっかけで、アメリカであったり海外というものが本当に身近になって、自分自身の未来のキャリアにも大きく影響したと思っています。

在アメリカ日本国大使館で働くことになった話や、その後にアメリカ連邦議会で働いた話については、また今度書きますね!

アメリカ連邦議会で働いたのは、アメリカ側の視点で日本を見ておきたかったから。これについてはまた今度書きます!


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