【連載小説⑤】1979年初夏、ドーの話。/ DOE DEER, WHAT’S THE MATTER??
前作はコチラ。↑
作:結友
イラスト:橙怠惰
7. ベールを剥がせ
その日は熱帯夜になった。
スターウッドに到着したコズモとAJは、活気ある空気に熱く皮膚を焼かれるのを感じていた。煙たさから息継ぎをしようと上を向くと、暗闇に1920年代風のネオンサインがギラギラと映えているのが見える。会場のドアが開き、人々と蒸気がさらに入り口へ流れ込んできた。前座がちょうど終わった後らしい。
二人は会場を見渡した。もしかしたらドーがいるかもしれないと思ったからだ。
すれ違う大勢の頭を見て、大勢と目があったが、彼はいなかった。その代わりちらほらと知り合いを見つけた。そのうちの何人かはAJとコズモに気がつくと、歩いて話しかけてきた。
1人目。
やっと元気になったのか。知り合いがコズモの肩に手をかける。
ああ。コズモが肩を叩かれながら言う。
よかったな。
どうも。
ドーは?
あいつは来てないよ。コズモが答える。
2人目。
タルーラ・バルバを観にきたの?
ああそうだよ、AJが答える。
あなたそんな趣味してたっけ。パンク聴かないと思ってた。
偵察だよというと、知り合いは首を傾げた。
……あれ、ドーは?
あいつは来れないんだ。AJが答えた。
3人目。
聞いたか、メラニー・グラスが今どうしてるか。
AJは心配そうにコズモを見た。コズモは顔をこわばらせて首を振る。
刑務所で看守と暴力沙汰を起こして、出所が伸びたとか。するともう一人が言う。
違うよ。あの子は看守を丸め込んで、自分の王国を作ってるんだってば。
そうだっけ、話が違うな。そっちはなんか知ってるか?
AJは、これ以上話が進まないように事実を伝えた。
メラニーは来年に出所だよ。期間は伸びてもないし、短くもなってない。
知り合いの二人はふうんと声をもらした。
「そいえば、ドーはいないの?」
AJとコズモは顔を見合わせ、ため息をついた。
「あいつは来てない。来れないんだよ…」
*
窓は開いていた。
ドーはよじのぼって枠に足をかけ、泥だらけのスニーカーでストンと床に着地した。
住宅地の庭から一軒家に侵入したドーは、自分が着地したベッドルームを慎重に観察した。
外の薄明かりだけが部屋をぼんやりと照らしている。入ってきた窓から風が入り込み、カーテンが静かにはためいていた。壁からひんやりとした空気が漂ってくる。長いこと物を動かしていない部屋特有の、ほこりっぽい匂いもした。奥では部屋のドアが中途半端に閉まり、すき間からうっすらと光が漏れている。遠くからテレビの音が小さく聞こえてくるが、この部屋は遠く隔てられた別世界のようだった。冷たく止まったまま、静まりかえっている。
ドーはカーペットが泥で汚れていくのをお構いなしに、一歩、二歩とゆっくりすすんでいった。
ベッドのそばの壁には、車とザ・フーのポスターが貼ってある。どちらも端がめくれて、すきま風に合わせて小さく揺れていた。横のタンスの上には、ほこりの被ったトロフィーや写真が無造作にかたまって置かれている。ドーは立ち止まって目を凝らした。「カリフォルニア州数学コンテスト: 1963年」と書かれている。ドーは小さく鼻を鳴らして、うっすらと笑みを浮かべた。
薄汚れた勉強机の前で立ち止まると、しゃがみ込んだ。角に手を添えて、音を立てないように引き出しをゆっくりと開ける。
引き出しの中にはドーが求めていたものがあった。ビンゴ。ドーは小さくガッツポーズをした。
アルプラゾラム、リチウム、ロフラゼプ酸エチル、ラモトリギン。
ドーは薄明かりを頼りにしながら、オレンジの錠剤入れに一つずつ触れ、ラベルを確認していった。そのうちの一つを手にとり、蓋を開ける。すこし手が震えていた。2錠を手のひらにのせ、口へ放り込んで目を閉じて飲み込む。
ひとつ乾いた咳をした。そして何度か深呼吸をしたあと、満足そうにため息をつく。これでもう安心だ。
呼吸を整えると、ドーは持っていた錠剤入れに再び目を落とした。薄れたラベルには「使用期限:1966年11月10日」と書かれている。ドーは鳥肌が立ち、目を見開いた。やばい、めっちゃ過ぎてる。でもまあ、いいか。死にはしないだろう。
そのままラベルを読んでいくと、名前の部分がうっすらと見えにくくなっているのに気がついた。
ドーは窓の下まで持っていき、光に当てて文字を読んだ。
「処方箋: ミセス・マリ・オルテガ」
ドーはしばらく放心状態で名前を見つめた。背筋に冷たい風が通る。
書かれていた処方箋は、兄ではなく、母親のものだった。
目を見開き、文字を一つずつ認識しようとする。しだいに文字が目の前でバラバラと砕けていった。この部屋ごと宇宙に吹っ飛ばされたような真空を感じる。自分の中で糸がプツンと切れる。狂ったように机のほうに駆け戻ると、荒々しく引き出しを開け、錠剤入れを一つ一つ引っ張り上げていった。処方箋:マリ・オルテガ。1963年、1964年、マリ・オルテガ、1965年。ヴィンセントの名前はひとつもなかった。どういうことだよ。また息ができなくなってきた。引き出しの奥に入っている空のケースも取り出してみる。何個かぶつかって床に落ち、乾いた音をたてた。ドーは全く気にしなかった。ラベルには同じ名前があった。ここにも、あそこにも。一段目を急いで閉じ、二段目の引き出しを開けて手を突っ込んだ。ここにも、
「ジェシー」
ドーは固まった。
彼女はドアの奥に立っていた。廊下の光を浴びて立ち、部屋に大きな影を作っている。
ドーは振り返らなかった。ただ動きをとめて、しゃがみ込んだまま声の続きを待った。
「ジェシー……こっち向いて」
ドーは歯を食いしばると、無理やり柔らかい表情を作り、振り向いた。気まずそうに笑ってみる。母はドーの目を見ると、ゆっくりと口を開いた。読唇術の練習みたいに大きく口を動かしてささやく。
「5年」
ドーは母と目線を合わせられない。
「そんなにだっけ」
母はドーをしばらく見つめたあと、眉をひそめた。
「その顔どうしたの」
ドーは言葉の意味がわからず、焦って自分の顔を触った。
「あ、え、男は歳取ると多少はエラが張ってくるもんなんじゃないかな」
母は答えに拍子抜けしたように、少し笑った。
「へえ、歳取ると顔に殴られたようなあざができるんだ。人間って不思議だね」
ドーは目をぱちくりさせた。あ、そっか、今朝殴られたんだっけ。忘れていた。
ドーの母は白い部屋着に身を包み、長い髪を下の方でくくっていた。お腹の前で組んだ手を気まずそうに動かしている。長いこと連絡をよこさなかった息子に理由を問いただそうとする余裕の表情が、ドーが手に持っている処方箋を見て一気に固まった。
これからの反応を慎重に選ぶかのように、母は目線を必死に泳がせた。しばらくして母は諦めたようにため息を漏らし、部屋を見渡す。
「一度も片付けたいとは思えなくて」
ドーは心ここにあらずな様子のまま、頷いた。
「……私には、問題を抱えてた時期があった。父さんのこととか、いろいろ」
母は口をつぐみ、ドーの顔色を伺った。ドーは黙って聞いていた。
「気づかなかったでしょ?父さんがうまいこと隠してくれてたからね」
ドーは情報を処理しようと、ただ瞬きを繰り返した。なんで隠していたことを、そんなに自慢げに話すんだ?
「同じ時期に、ヴィンセントも成績のことで問題を抱えてて」
「へえ」
「ジェシー、あなたも相当問題を抱えてたけど、あなたのは外へ外へ飛び出すような問題だったじゃない」
「健全だね」
「あの子は若くて、とても疲れていて、やるべきことがたくさんあった」
ドーはまた歯を食いしばった。
「どうにかしないといけなかった。じゃないと支障が…」
「シショウ」
ドーはぽつりと繰り返すと、頭を振った。自分を棚に上げて人の罪を指摘するのは好きじゃないはずだった。しかし今はどうしても、鋭い言葉しかでてこない。
「そのシショウ、ってのが健全な反応だったとしたら?」
母はこれに対しては答えずに、話を続けた。
「高2のテスト後、ヴィンセントは父さんと大喧嘩した。成績に関して。些細なことのはずだった。あの子は何も言わずに部屋に戻って、無言で部屋中のものをめちゃくちゃに壊し始めたの。覚えてる?」
ドーは持っていた錠剤入れをくるくると手の中で回してみた。
記憶をたどってみたが、見つからなかった。
ドーが知っているのは、無口で、大きくて、冷たい背中の静止画だけだ。
「どうしたらいいかわからなかった。あの子の頭に何が浮かんでいるのか、あの子を落ち着かせるにはどうしたらいいのか、わからなかったのよ」
ドーは手元のラベルに目を落とした。双極性障害の治療薬だった。
「だから母さんの薬を渡したってこと?」
ドーの感情が読めない声を聞き、母は手を組んだ。
「それで気が紛れるならって」
「うまくいったの」
「一時的には」
「支障は取り除けた?」
「わからない。何も話さなかったから」
「何も聞かなかったからだろ」
「力になりたかった、それだけ」
「とっても手っ取り早い方法でね」
ドーはもう一度勉強机を見た。私立高校のかっちりした黄土色のブレザーを着て、机に向かうヴィンセントの姿を想像してみた。
目の前ばかり見ているのが辛くなって、無気力に机に突っ伏した兄の背中だ。何かにすがりたい気持ちになって、机に頬をべったりつけたまま、母を見上げる。しかし母は手の差し伸べ方を知らない。一丁前にそんなことしなくても、耳だけで十分だったかもしれないのに。母は手じゃないモノを差し伸べることにする。ヴィンセントは硬いイスに座って考える。今まで自分がどうやって目の前をまっすぐ見てきたか、わからない。もう元に戻れない。横を見て、ただ与えられたものに手を伸ばす。とってもシンプル。
そうして16歳で、「抜け道」を見つけたんだ。
だれだっていつかは自分の毒を選ばないといけない。それが成長するってことだ。ドーは考えた。兄には選択肢がなかった。母親の面を被った「抜け道」と「近道」が一緒に取引を持ちかけてきたら、頷くことしかできないじゃないか。俺だってそうする。
「これがああいうことの始まりになるなんて。本当に大変だった。あの子のことは私のせいだってわかってる……」
「誰のせいでもないよ」
ドーは母を遮った。
「たまたまそうなっただけってことだろ」
母が口をゆっくりと閉じる。
「俺も兄貴のことはよくわからないけどさ、とりあえず作られた悪役の被害者なんかにだけはなりたくないと思うよ」
ドーは言葉を失う母をまっすぐ見つめると、ゆっくり立ち上がった。薬をポケットへ無造作に突っ込んで、窓へとぼとぼと歩みを進める。
「ディナーに来てちょうだい」
ドーが立ち止まる。
「明日、ヴィヴが戻ってくるのよ。何か作って待ってるから、戻ってきて」
ドーは答えず、窓枠に足をかけた。
「正面玄関からね、ちゃんと」
母が強く付け加えると、ドーは黙って窓枠から足を離した。
振り返り、無表情でゆっくりドアのほうへ歩き、母に近づいていく。そして驚いて後退りする母と目を合わさずにすれ違う。
母を置いてけぼりにしたまま、ドーは足早に部屋を後にした。
ペタペタと床に泥をつけながら廊下を抜け、明るいリビングへと進んでいく。
リビングには、花柄のソファにどっしりと座る父の姿があった。眼鏡をかけ、ローブを羽織り、テレビをぼうっと見ている。陽気なケチャップのCMが流れていた。
「家族の陽気なひとときを彩る、とっておきの……」
ドーは何食わぬ顔でソファとテレビの間をスタスタと歩いていった。
父親が驚いて二度見をした。な!は!と言葉にならない声を上げると、慌てて立ちあがろうとする。ドーは父親が自分の名前を疑り深く叫び出す前に、玄関を開け、外へと飛び出していった。
ドアがばたりと音をたてて閉まった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?