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【連載小説⑧】1979年初夏、ドーの話。/ DOE DEER, WHAT’S THE MATTER??

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作:結友
イラスト:橙怠惰

10. 玄関

AJのネタが切れてしまい、コズモが完全に壁を作ってしまってから、ディナーは耐えられないくらいの沈黙に突入していた。食器の音だけが聞こえる中、気まずい笑顔を全員で交換しあうだけだった。

沈黙に耐えられなくなったAJが、乾いた口を開く。
「それにしても、素敵な家ですね……」
母が気まずそうに頷き、微笑んだ。
「ありがとう。近所もいいお家ばかりでね」
ヴィヴが僅かに眉をつりあげたのにコズモが気づいた。
父は微笑みながらドーの母の方に目をやり、今までとは違う柔らかい声で言った。
「本当に、ここに家を持ててよかったと思ってる。私は満ち足りてるんだ」

ヴィヴがますますわかりやすい皮肉の表情を浮かべて、正面のコズモに目をやった。コズモは気まずそうに目を合わせる。ヴィヴが目を一瞬だけ見開かせて、皮肉をこめて小さく口パクした。
「(ガチで言ってる)」
コズモはほんの少しだけ笑顔をつくって応えた。

父は気づく様子もなく続ける。
「私は貧乏な家に生まれてね。何も与えられずに育ったんだよ」
語尾と同時にたまたまAJと目が合ったため、AJが代表して相槌をうつことになった。
「そうなんですね」
「自分自身で金を貯めて、逃げるようにフランスへ行ったんだ。新しい出会いを求めて…自分でも馬鹿げていたと思うけど、思えば若さゆえの行動力かもしれないなあ」
「私とこの人はフランスで出会ったのよ」
母は父のほうを見ていたが、2人の目は合わなかった。父が続ける。
「……思い返せば、『偶然』なんてなかったように思うんだ。私はすべて自分から歩き、動いて、勝ち取っていった。出会いも自分から引き起こした。たまたま救われたとか、人に恵まれたなんて、甘ったれたことを言える時代じゃなかったからな」

AJは軽く頷きながらも思った。こういう部類の精神論はたいていの場合、「正しい」。真理はどうせ切り口の問題だから、精神論はたいがいは正論に聞こえてくるものだ。そしてひとつの正論を浴びると、自分が今まで持っていた精神論は正しくないんじゃないかという気持ちになる。この揺れ動きのせいで世の中が動き、人が苦しむのをAJは学んでいた。
ひとつの正論が全人類の精神と適合するとは限らない。だからやっかいなのだ。

AJがしばらく黙っていると、ヴィヴがわざとらしく咳き込んだ。重苦しくならないよう、冗談めかしく言葉を発する。
「あのさ。父さんのいう『満ち足りてる』って、なんかみちみちに詰められてて、息がしづらい感じだね」
父親はやれやれ、と首を振った。フォークを忙しそうに宙で揺らす。娘に話しかけられて、少し嬉しそうな様子でもある。
「ほら、まさにそういうところだよ。私が理解できないのは、なぜ私たちが苦労して手に入れたものを素直に受け取らず、こうやって皮肉で跳ね除けるんだろう、ということだ」
ヴィヴが笑った。さっきより真剣な声色に引っ張られている。
「へえ。私たちは与えられてるから、ありがたく受け取れ、みたいなことを言いたいわけだ?」
「少なくとも子供たちには自分が得た最高をできる限り受け渡したつもりだ」
「へーそれで?子育ては上手くいったんだったっけ?」
「また始めないでくれ」
「わたしは何も始めてない」
「あいつのことはけじめがついたはずだ」
「わたしにとってはなにもおわってないんだけど」
「これだけ時間が経ってもまだそんなに聞きたいのか、無駄話を」
「…うん。その通り。だって兄さんたちがなんでここにいないのか知りたいもん。父さんは幸せを注いだんでしょ。じゃあなんでここにいないわけ?なんでわたしはなにも知れなかったの?なんで今も何も知らないの?」
母がテーブルクロスを人差し指と親指でせわしなくつまみながら、あえて落ち着いた声をひねり出した。
「ヴィヴ、久しぶりに帰ってきてそれはないでしょ。一体どうしたっていうの」
ヴィヴもわざと落ち着いた声でパチパチと瞬きをしながら応えた。
「離れてみてよーくわかることもあるんだよ」
父がフォークをガチャリと置いた。もうたくさんだとでも言うように。
「単純にお前が小さかったからだ」
「今は?わたしもうおばさんなんですけど」
それを聞いた母がわざとらしく笑った。
「24歳がおばさんだなんて、やめてよ」
「母さん話を逸らさないでって。わたしには聞く権利があるんだから」
父が諦めたような、しかし鋭い声色で続けた。
「なんでもかんでも権利ということばを軽くふりかざすなよ。権利の主張というのはな、もっと重い行動が伴うものであるべきで……」

「私のせいだから」

母が突然真剣な声で口を開いた。ヴィヴをじっと見つめる。ヴィヴは唾を飲み込んだ。

「どう、これでいい?ヴィヴィアン」
「…どういう意味?」
母がこめかみに手を当てた。
「ヴィンセントが高校生の時、私がね…」
父が遮った。
「あいつは弱かったんだ。よく考える力が足りなかった。賢さが足りなかった。それだけだ。もういいだろ」
「そうね、それもあるわね…」
母は遮られたイライラを鎮めるように、ゆっくりと椅子に座り直した。
「……ヴィンセントは高校生の時、進路のことで父さんと揉めてね。精神的に問題を抱えてた時期があった。その時に私の処方箋を飲ませたの。助けになると思って……」
話を静かに聞いていたAJが、我慢できず口を開いた。
「ちょっと待って。病院に連れて行かなかったんですか」
「部外者が口を出すなよ」
母は父の強い声を無視し、AJに向かって首を横に振った。
「今はまだマシだけど、10年くらい前は精神科に行くだけで町中で噂が広がるような状況だったのよ。私がそれで苦しんだから、同じ思いをさせたくなくて」
コズモが落ち着きなく身体を動かした。父が付け加える。
「あの時の状況を見て、マリが判断したことだ。家族を持つようになると、考慮することがたくさん出てくるんだ。お前たちにはわからないだろうが」
「本人の評判とか?いや家族の評判か」
コズモがつぶやいた。
「そうだよ。芸術家さんはそういうの嫌いなんだろうが、人とうまく生きていくためには必要な要素だぞ。ジェシーはその点でうまく育たなかったと思ってる」
AJがため息をついて続ける。
「あなたたちは、子供の人生をコントロールできると思ってるんですね。すごい」
「さっきから聞いてりゃ、お前たちは一体何様なんだ?」
コズモが父親を睨めつけた。
「おれたちは彼の友達ですけど。……で、あなたは?」
「父親だ」
コズモが声にならないほどの小ささで「へえ」と答えた。
無表情のヴィヴが静かに立ち上がった。

「ちょっと外の空気吸ってくる」

そう言い残し、部屋から出ていった。

父がまたため息をつき、母の方へ目を向けた。
「マリ……こういう話を今、ここですることなかったろうに」
そして父も立ち上がり、スタスタと歩いて行ってしまった。

残された母親は、ディナーがはじまった時よりも肩幅が狭くなったように見えた。テーブルに肘をつき、タバコに火をつける。そして同じライターで、テーブルの上の消えた蝋燭に再び火をつけた。
煙を吐きながら呟く。
「……なんであなたたちを入れたのかしらね」

コズモはテーブルクロスをいじりながら肩をすくめた。
「……何かを間違えたからって、残りの人生を罪滅ぼしのために生きる必要ないと思います。もしそういう意識があるなら、ですけど」

母はしばらくコズモの言葉について考えこんでいた。しかし何も答えずタバコをもう一服吸うと、立ち上がった。
「ちょっと二人の様子を見てくる」

部屋にはAJとコズモだけになった。二人はしばらく静かに座ったままでいた。

すると突然、ドォンという鈍い衝突音とともに家が揺れた。その後、ヴィヴの甲高い叫び声が聞こえてきた。

*

最初に目撃したのはヴィヴだった。

ヴィヴはその時、一階のバルコニーにいた。爆音と共に地面が揺れると、すぐに音がした方へ駆け寄った。すると玄関のポールを薙ぎ倒して家に思いっきり追突した車と、潰れた車の横で頭を抱える男の姿があった。ヴィヴは考えるより先に思わず叫んだ。そして見覚えのある顔を見て吹き出してしまった。
「驚いた、兄さんじゃん、やらかしてんじゃん」

ドーはクマの目立つ目をごしごしと擦り、気まずそうに頭をかいた。
しばらくして母親と父親が順番に焦った様子で走ってきた。
ドーは久しぶりに見る顔たちに、体がこわばるのを感じた。ドーは心臓の鼓動が速くなるのを無視しながら、笑顔を作って声を張り上げる。

「あのー、お金の件は心配しないでね、弁償できるから」

誰も返事をしなかった。皆呆れきった目をして壊れた車と壁、ドーを交互に見つめるだけだった。ドーは語尾に向かうにつれて、腹に力の入らない声になっていった。

「お金についてのコメントを省いたうえで俺になにか言葉をかけてくれませんか……」

ドーが後退りすると、ポールの横に弾け飛んでいた謎の鉄板に当たった。板は大きな音を立てて倒れた。母がハァっと息を飲む音が響く。

ドーは外側では途方に暮れた、パニック状態になった人物を演じていた。しかし内心は安心していた。事故ったのは意図してのことでは(たぶん)絶対ないはずだが、この状況をありがたいとさえ思っていた。正常にベルを鳴らし、扉を開けた家族と面と向かって言葉を交わすぐらいなら、家に衝突して病院に連れていかれる展開の方が天国に感じられたからだ。

ただ、運の悪いことに、ドーは無傷だったので病院には連れて行かれなかった。

代わりに玄関から入り直すことになった。

*

ヴィヴが玄関のドアを開け、廊下を歩きながら言った。
「兄さん、これ、私悔しくて絶対言いたかなかったんだけどさ、兄さんは無意識に世界を変えちゃう力があると思う。戦争とかもうっかりミスで起こしちゃいそうな勢い」
「それ嫌味だよな?」
「何で?もちろん」
ドーが上着を脱ぎながら肩をすくめた。
「言っとくけど、処方箋が多すぎるだけだから」
「なるほど」
「あと平和的な睡眠が根本的に足りてないだけ。お前この頃オーディションは?」
ヴィヴは質問に答えなかった。ドーがわざとらしく神妙な様子で呟く。
「そっか、受かってたらここにはいないもんな、ごめんよ…思い出させて」
ヴィヴは言葉にならないようなイライラの音を歯の隙間から出した。

ドーは家に入ると、両親とヴィヴと共に廊下を歩いた。奥へ向かうに連れて、聞き慣れた声がうっすらと聞こえてきた。

次第に言葉が聞き取れてきた。主に「うわっ」と「くそ」と「コノヤロウ」だった。

ドーたちがダイニングルームに入ると、そこにはメラメラと炎があがったテーブルと、焦った様子で飛び跳ねているAJとコズモの姿があった。

コズモが倒れた蝋燭に必死にコップの水をかけようとする。AJがテーブルクロスを派手に引っぺがし、食器から何から何までが大きな音を立てて落ちる。AJが火の上がったテーブルクロスを畳むようにして押さえつけ、火のついていない部分で何度も布を叩いた。

ドーはその光景に、不思議と安心感を覚えてしまった。AJとコズモが自分の生まれ育った家で飛び回っている。こいつら本当に来たんだな。堪えきれずニヤニヤ顔を浮かべる。ドーはこの状況が愛おしくてたまらなかった。

AJは目を血走らせ、呑気に笑っているドーを睨めつけた。
「ちょっとそれ!ジャケットか!」
「へ?」
「それをここに!早く!!」
ドーはAJの言っている意味がわかると、テーブルへ駆け寄り、手に持っていた自分のジャケットを炎に被せた。火が徐々に沈静し、だんだんと弱まっていった。

火が完全に消えたことがわかると、AJはテーブルに向かって大きな声でよっしゃ!見たか!と叫び、鼻息を荒くした。その後、自分達を静かに見つめているドーの家族の存在に気がつくと、気まずそうに振り返って咳払いをした。テーブルにもたれながら息をゆっくりと吐く。

「もう心配いりません。大丈夫ですよ」

コズモは1,000個くらいの質問や文句、皮肉と慰めの感情を混ぜ込んで、ゆっくりと頷いた。

*

ヴィヴとコズモは割れた食器を片付けることにし、AJとドーの母親は車の様子を見に出ていくことになった。ドーがAJと一緒に行こうとすると、父親に引き止められた。

「このまま逃げるつもりじゃないだろうな」
ドーは仕方なく父親の背中を追い、リビングに入った。父は向かい側に回り込み、ドーを睨みつけた。片手にワイングラスを持ち、睨みつけたままグラスを傾けて口へ運ぼうとする。しかしワインが口に入らないうちにグラスを戻し、テーブルへ音を立てて置いた。
ドーはただその様子をぽかんと見つめていた。

ドーが見ない間に、父親はさらに老けたように見えた。特に眉間の皺がひどい。ずっとしかめっ面をしているからだろうなとドーは思った。
父親の歳を思い出そうとしたが、怒りに満ち溢れた父の声に邪魔された。

「……お前なあ」
「こんばんは」
「一体どこから始めたらいいんだろうな」
「さあね、背が伸びたねぇ、あたりが標準的かな?」
父が無視する。
「昨日ここへ来てただろう」
「おお、最高に重要な話題から入ったね」
父はさらに無視した。
「理由は聞かない。お前のことを気にしてると疲れるってことに気づいてから十数年、かなり楽になったからな」
ドーは真剣な顔で何度も頷いた。
「確かに、シワは同世代のじいちゃんたちよりも少ないもんね」
父親の疲れ切った顔に、影が映ったように見えた。
「…なあ、お前が普通の言語で喋ってくれる日は来るんだろうか?」

ドーはなんだか惨めな気持ちになり、ゆっくりと姿勢を正した。テーブル越しの父親の目を見て言う。
「……わかんねえ」

父は下を向き、ポケットに手を突っ込んで一枚のカードを取り出した。几帳面にテーブルの上に置くと、ドーが見える向きへとカードを回す。

「お前が来たときに渡そうと思ってたんだが」
ドーは訳がわからず、テーブルを覗きこみながら言った。
「ファンタジー小説に出てくる長老みたいな台詞だな。なに」
父が無視して続ける。
「この歳でこんなに大事なものを親が預かってるだなんて、信じられん」

そこには、むすっとしたドーの顔写真と、本名、生年月日が載っている。
紛れもなく、ドーの免許証だった。

ドーは、ああっと声をあげた。よかった、失くしてたやつ。でも何で親父が持ってるんだ?

「……ダグラスさんを覚えてるか?」
「は?」
ドーは自分が思ったより大きな声で答えてしまったのがわかった。鋭い父親の目が光る。
「は、だって?その目はやっぱり覚えてるな。さては知っててやったんだな」
ドーは目をぱちくりさせたまま、なにも答えなかった。意味がわからない。父が続ける。さっきより元気を取り戻したようだった。
「俺が『どこから始めればいいか』と言った理由がわかるか。この家の外壁だけじゃない。お前は一つの家庭をぶち壊しにしたんだぞ」
ドーは眉をひそめた。
「ちょっと待って、ダグラスさんってほんと誰」
「今更しらばっくれるんじゃない!」
「いや本当に知らないんだって!」
父親はドーの驚いた顔を吟味した。自分をからかっているのではなく、幾分かは真剣だとわかると、ため息をついて続けた。
「お前が幼稚園の時にお世話になった小児科の先生じゃないか。たまたま私の取引先で、家も近かったから仲良くしていただいていたあのダグラスさんだ」
「はあ」
「そして先週、『お宅のクソ息子に人生を狂わされた』ってすごい剣幕で電話がかかってきたんだぞ。私は嗜めてゆっくりと話を聞いてやらないといけなかった」
ドーは眼球を左右にギョロギョロと動かした。
「……せんしゅう?」
「確か月曜日だ」
月曜日。突然ドーにひらめきが落ちて来た。父親に目線を戻す。
「あ、やっちゃったかも」

絶妙なタイミングで母親とAJがリビングに入って来た。
「何をやっちゃったって?ジェシー」
母がぽかんとした声を上げた。ドーは思った。やっぱり、この3日間は、呪われてやがる。

ドーは周りの視線を感じながら口を開いた。

「ちょっとごめん。一回何が起きたか親父が知ってる話をしてくれるかな。俺も心当たりがあるんだけどさ、たぶん俺の話とは違ってる気がするんだよね。違ってるなってところで俺が止めるから、それまで話してくれるか?」

父親はドーに勝手に指示されて、明らかに不服そうな様子だった。
「違ってるも何も、長い話をする必要なんかない。お前がダグラス夫人を誘惑してその気にさせたと言っていたぞ。夫人が家を出たきり戻ってこない。しばらく経ってから、離婚を主張する手紙が届いたそうだ」
部屋の中の人々は、静かにドーのリアクションをじっと待っていた。ドーは父親の真剣な表情に、笑いが込み上げてきた。
「へへ……続けて」
「なんだと?」父が声を張り上げた。
「で?ダグラス夫人はなんて?」
「ジェシー、お前が匿っていると」
「それ本当?」
ヴィヴが不敵なニヤニヤ顔を浮かべながらヤジを飛ばした。
「で?」
「それからダグラスさんは、私にお前の居場所を聞いてきた。私はわからないと答えた。そいつはもうこの家と繋がりはないと言ってやった」
ドーはようし、わかったとでも言うようにゆっくりと何度も頷いた。わざとらしく腕を組み、口を尖らせる。
「なるほど。じゃあ厳密には、やっちゃったというより『やられた』の方が正しいかな。訂正しとくよ」
「どういう意味だ」
「要するにダグラス夫人は、すごく、すごく上手くやったってこと」
父親は息子に遊ばれているような気がして、ますます顔を赤くした。ドーは天を仰ぐように首をかくんと曲げて顔を上げると、もごもごと独り言を言って遊び続ける。
「いいさいいさ。俺を使ってくれればいいさ。それで誰かが自由になれるんなら、使われるのも悪くないね、やっと存在意義が見出せたもの」
「だからどういう意味か、話しなさいって言っているんだ」
「どういう意味かって?」
ドーは右目のあざを指差した。
「『この傷は、俺が人間の自由を手助けしたことによる代償である』」
焦らされた父親がドーに詰め寄ろうとしたが、ドーは父親が何もできないことをわかっていた。ドーが父親に顔を向ける。
「とにかく、ひとりの人間がひとりの人生をそんなにめちゃくちゃに出来るかなぁ、と思うんだよね」
父親は困惑の表情で言葉を詰まらせたのを確認すると、ドーは安心した様子でドサリと椅子に腰を下ろした。父の顔色をじっと吟味しながら免許証に手を伸ばし、微笑む。

「ありがとうね、これ。めちゃくちゃ探してたんだ」

11. フラッシュバックのお時間です(2回目)

先週の月曜日。

ドーは時計を眺めながら、早くシフトが終わらないかな、と思っていた。
今日の仕事は治験の補助だった。認可前の薬の実験台になると、大金がもらえる。それを目当てに応募する人々が一定数いるのだ。治験の参加者は3日間泊まり込みで参加していたが、最終日のみ人員が確保できなかったらしく、ドーが代理でシフトに入ることになった。

白い壁に囲まれた殺風景な部屋に、20人ほどの男女が集められていた。
ドーは治験者たちの退屈そうな様子を見ながら、この人たちはこれからもらえる大金を何に使うんだろうなと考えていた。ぼーっと皆が夕食を食べるのをじっと見つめていると、一人だけ全く食事に手をつけていない様子の治験者がいた。ぐったりとテーブルに上半身を乗せて、全く動かない。ドーはゆっくりと歩き、治験者の顔がわかるように回り込んだ。髪の毛が前にだらりとかかってよく見えない顔を、じっと覗く。するとそこには、女の子の真っ白に怯えきった顔があった。

*

「これはまずいって……超超まずいって……」
ドーは担当医の部屋を訪ねていた。担当医はペン先でせわしなく名簿を叩きながら細い声を出し、頭をかきむしっている。
「偽物のIDに騙されるとはな……21歳以下の子を治験にパスさせちゃったと知れたら……」
「そもそもなんであの子を弾かなかったんですか?明らかに10代じゃないすか」
ドーがため息をつきながら言った。
「検査のバイトの奴がバカだったんだろ。君もバイトだからわかるだろ、ロクでもないやつばかりだ」
ドーは無表情で受け流すと、担当医がまたドラマチックにああ~と言い、頭を掻き出した。ドーをキッと睨め付ける。
「で?症状は軽いんだろうな?」
「はい。精神的な要因による脳貧血ですね。今ベッドで休んでます」
「フェイ・ダグラス……」
担当医が名簿をペンで叩きながらつぶやいた。
「どっかで聞いたことがあるんだよなあ……」
担当医はそう言うと、ドアの横を通り過ぎそうになったもう一人の医師に話しかけた。
「なあ、フェイ・ダグラスって聞いたことあるか?」
呼び止められた医師は、その場で止まってしばらく考えたあと、自信のなさそうな表情を浮かべて答えた。
「ダグラスって言えば、この辺で有名な小児科の院長が浮かぶけどな。でも同じ苗字の奴は他にいっぱいいるだろ」
それを聞いた担当医がペン先をすばやく医師に向けた。
「お前、ちょっと聞いてきてくれやしないか」
「何を?」
「ダグラス先生の娘さんですか?ってさ。あの子に。それだけ」

しばらくして、帰ってきた医師がドアをノックした。
「大当たりだ。『あの』ダグラスの娘だってさ」
担当医が間髪入れずに、ドーにペン先を向けた。まるで銃を突きつけているかのように目を血走らせ、ドーを睨みつける。
「おいお前、バイト」
「はい」
「あの子を帰してやれ。あの子を家まで無事に帰せば、全部なかったことになる。だろ?」

*

ドーは運転中、今日の給料がちゃんと満額で支払われるのかどうかばかり考えていた。しかししばらく心配した後、結論に達した。今回は大丈夫だ。満額支払われなかったら、この事実を公にしてやると担当医を脅せばいい話だ。ドーはほっと胸を撫で下ろし、この雑用をきちんとやってのけようと気持ちを切り替えた。助手席では変わらずぐったりした少女が悲しそうな表情を浮かべ、窓の外を見ている。ドーは横目で少女をチラチラと見ながら話しかけた。
「えっと、IDに書いてある住所は偽物じゃないんだよな?」
少女は頬にべったりとくっついた髪の毛を耳にかけると、わずかに頷いた。
「……なんで治験をやろうと思ったんだよ?」
「……話せば、長くなる」
そう言って少女は黙ると、お腹にゆっくり手を当てた。ドーは信号に目線を戻し、ウインカーを出した。まっすぐ見つめたまま呟く。
「そっか、それは残念だな。この角曲がったらもう着いちゃうや」

ドーはフラつく少女の手をとって、玄関まで歩いた。ドアをドンドンと叩く。
しばらくしてドアが開いた。母親らしき女性が出てくると、少女の姿を見てみるみる険しい表情になった。
「あのー、お母様ですよね?娘さんが……」
「フェイ!!!!!」
母親がさえぎって叫ぶと、ドーの方を憎悪に満ちた顔をして睨みつけた。
「このっ、フェイに何してくれるの!!!気持ち悪い、害悪な……この……この野郎!!!」
母親がドーの顔めがけてビンタをしようとしたところで、フェイが静かに口を開いた。

「この人はジェレミーじゃない」

母親が動きを止めた。手が震えている。声もわずかに震えていた。
「この人はジェレミーじゃないの!?」
「この人はジェレミーじゃない」フェイが静かに繰り返した。
「俺はジェレミーじゃないですね」ドーが言った。

*

「ちょっと、フェイ、あんた。こういう大事なことは最初に言ってちょうだいよ!」

ドーはダグラス家のリビングにいた。ダグラス夫人が大きな声でフェイに話しかけたが、フェイは力なく肩をすくめただけで、廊下を抜けて奥へ行ってしまった。ダグラス夫人とドーはその様子を眺めると、気まずそうに目を合わせた。
ダグラス夫人は40代前半くらいだった。80年代の突入を迎え入れるのに相応しい、鮮やかなメイクが際立っている。しかし顔はずっとこわばっていて、ドーを怒鳴りつけた罪悪感からか、落ち着きなく手足を動かしていた。

「本当にごめんね……あまり喋らない子で」
ドーは特に気にしていないかのように、軽く頷いてみせた。
「まさかお医者さんがここまで来てくれるなんて思わなかったんだもん。とにかく娘を送ってくれてありがとう……最近は一層塞ぎ込んでるように見えて、何考えてるかわからなくて」
奥からシャワーの音が聞こえてきた。ダグラス夫人は奥の部屋に向かって、なるほどねと呟いた。
ドーも肩をすくめてみせる。
「夜遅くに帰ってきて、『どこ行ってたの!?』って聞いても、『ジェレミー』とだけ。ジェレミーって一体誰なのよ?そもそも夜遅くに連れ回すなんてろくな奴じゃないわこの間なんか学校から娘さんが来ていませんがって電話が来たのよ私は本当にどうしたらいいのよわかんないわ」
ダグラス夫人は早口でまくし立てると、何かを閃いたのか、ドーに向かって首を傾げた。
「ねえ、『ジェレミー』って、もしかして店の名前とかだったりしない?」
ドーは申し訳なさそうに首を横に振った。ダグラス夫人は即座にガッカリした表情になった。
「やっぱり人か。ふん。じゃあジェレミーっていったい誰なの!」
「それは俺も知りたいですね」
ダグラス夫人はハッとして、目を見開いた。
「……あ、ごめんなさい!!ずっと立たせたままで。どうぞ座って。で、娘はどこにいたの?何をしてたの?」
ドーは手で示されたソファに腰を下ろした。ドーは立ったままで貧乏ゆすりをするダグラス夫人を見上げて、彼女の不規則に速いリズムに飲まれないように息をふうっと吐いた。
「まあ、娘さんと二人でゆっくり話したほうがいいんじゃないですか……って俺が言うのもなんなんだけど」
ダグラス夫人は目をしっかりと見開いたまま、ドーに向かって小刻みに頷いた。
「そう、そうよね……わかってる、わかってるんだけど。ゆっくりね……頑張るわ」
そう言いながら、ダグラス夫人の息が少しずつ浅くなるのに気がついた。ドーが言う。
「普段からずっとこうなんですか?」
「こうって?」
「ずっと張り詰めてる感じ。自分の家にいるのに」
「そうかしら」
「何か怖いものでも?」
夫人は自分の肩にそっと手を置くと、はじめて肩が上がっていたことに気がついたかのように、驚きの表情を浮かべた。息を吐いて意図的に肩の力を抜くと、虚しそうにドーに向かってふっと笑う。
「そうね……最近は全部が怖いわね」
「たとえば一つ挙げるとしたら?」
「そうね……娘がレールから外れること、とか」
こういう話は、赤の他人にぶちまけてしまったほうが簡単な時がある。ドーは片眉を上げた。
「それから?」
「それから……そうね、毎日同じことばかりやって人生が終わること」
「そっか。俺は毎日違うことやってふらふらしてるけど、結構楽しいですよ」
「本当に?それはそれでしんどくない?」
「全然。楽しい楽しい、とても楽しい」ドーは無表情で繰り返した。
「そう、羨ましいわね。私にはもうできないことだわ。子供もいるし、一人じゃ何もできないまま、あまりにも歳を取りすぎちゃったから」
「誰がそんなこと言うんですか?」
夫人が肩をすくめた。
「別に、誰も。ただ夫とずっと一緒にいると、自分がすごくちっぽけで劣ってるなあって感じることがあるから」
シャワーの音が止んだ。あたりが静かになった。夫人がため息をつく。
「夫はもう私にとっくに興味をなくしてる。私がずっとここにいるから、他に私を置く場所がなくて仕方なく一緒に暮らしてるって感じなの。娘に対してもそう」
ドーは笑った。
「へえ。是非とも旦那さんにお目にかかってみたいもんだな。きっとろくでもないやつだ」
「いや、違うの。私がつまんないからよ。周りの奥さんたちはみんな自分を磨いて、買い物をして、常に家族の興味をひいてるの。素敵な人たちよ。でも私にはそれができない。なんでかわからないけど、できないの」
「で、あなたはどうなんですか?」
「え?」
「向こうがあなたに興味ないことはわかった。じゃああなたは?旦那さんに興味あります?」
ダグラス夫人は目をぱちくりさせた。
「面白い質問ね……そんなこと、全く考えたことがなかった……ちょっと待って」
夫人はそう言うと、腕を組んで下の方をじっと見つめて考え込んだ。しばらくして、ぷっと吹っ切れたように笑った。
「ない」
「ない?」
「ええ、まったくないわね。1ミリも」
「おあいこじゃん」

夫人は屈託のない笑顔で笑い出した。ドーもつられてあははと笑うと、2人はどんどん笑いの渦に巻き込まれていった。

シャワーを浴び終わったフェイがリビングに戻ってきて見つけた光景は、異様なものだった。見知らぬ男と、母親が一緒になって大笑いしていたからだ。
フェイが困惑した顔で黙っていると、2人がフェイに気づき、妙に真剣な表情を見てさらに大きな声で笑い出した。

ドーが笑いながら言う。
「じゃあ決まりだ。ここにいる意味ないじゃん」
ダグラス夫人は落ち着きを取り戻すと、目の際の涙を拭きながら、首を横に振った。
「そう簡単にはいかないわよ。私には思い切りがないし」
「きっかけさえ掴んじゃえば、勢いに任せてなんとかなるって」
「そうかしら」
ドーはにっこり笑ったまま頷いた。
「力を抜いちまえばいい。副交感神経は嘘をつかないよ」

「ねえ、まずいんじゃない?」
フェイが髪の毛を拭きながら言った。
ダグラス夫人が首を傾げる。
「何がまずいの?」

夫人が口を閉じ、あたりが静かになると、外から車のエンジン音が聞こえてきた。
車が玄関の前で停まるのが分かった。

フェイはだるそうに目をぐるりと回すと、踵を返してとぼとぼと奥の部屋に戻ってしまった。
ダグラス夫人は一瞬でパニックになった。また肩の力がぐっと入っている。
「あの人が!帰ってきた!むり!悪いけど裏口から出てって!」

ドーは急かされるままにキッチンの裏口から外へ出た。途中で上着を置いてきたことに気づいたが、玄関からすでにダグラスさんらしき人の声が聞こえてきたので、諦めた。なんで家の前に車が停まってるんだ?と遠くから聞こえる声に背を向けて、裏口から回り込んで車に乗った。ドーは何もやましいことをしていないのに、コソコソしている自分がおかしくてたまらなかった。

ダグラスは、遅かれ早かれドーの上着を見つけるだろう。
上着に、玄関の謎の車。

夫人は一体どういう言い訳をするんだろうな。ドーはそんなことを考えながら、車を走らせて家へと向かった。

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