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【連載小説⑦】1979年初夏、ドーの話。/ DOE DEER, WHAT’S THE MATTER??

前作はコチラ。↑
作:結友
イラスト:橙怠惰

9. ドーのドア

ドーたちはその後、24時間営業のダイナーに行った。

AJとコズモは小さなワッフルを注文し、向かいに座ったドーはチーズバーガー、ポテト、チキンリブ、シナモンロール、コーラを詩の朗読のようにわざとらしい深い声で読み上げていった。
AJは腕時計を見る。もう夜中の12時半過ぎだ。こんな時間に……。

食べ物が届けられた瞬間、ドーは何も言わずに包みを乱暴にあけ、バーガーにがっついた。そして飲み込む前にポテトへと手を伸ばす。血だらけの片手でまた器用に包みを持ち上げて、さらに一口。
こうして黙々とひたすら食べ続けるのを、AJとコズモは黙って眺めていた。

ドーがバーガーを口にたっぷり入れたまま、ふと顔を上げて二人を見た。

二人とも深刻な表情をしてドーを見ていた。ドーはいてもたってもいられなくなり、もう一度バーガーのほうへ逃げるように顔をうずめた。バーガーとポテトに逃げ場がなくなると、チキン、シナモンロールへ。ついにコーラも飲み干してしまった。

空っぽになった机をただ眺めていた。
自分が話し始めないと、二人は虚空を見るような顔をやめてくれそうにない。ドーは大きくゲップをした。斜め横に座っている年老いたトラックの運転手がドーを睨みつける。

「ごめんあそばせ」
ドーが力なく言うと運転手は、若い胃袋クソ羨まし…とかなんとかブツブツ言いながら席を立った。ドーは口をグーで押さえてまた抑え気味のゲップをしたが、まだ二人はなにも言わなかった。ツッコミも、リアクションもなしだ。ドーはナプキンで口を拭くと、構わずニコニコ顔を作って話しかけた。
「今日は楽しかったか?」
AJがゆっくりと前かがみになり、手を組んだ。尋問官みたいに重い一言を発する。
「ああ」
終わり。AJは「欲しい答えが聞けるまで、もうこの口は一生開きません」と言わんばかりに口を固く結んでいた。
沈黙がまたやってきた。
ドーは肩に重い力がかかるのを感じる。ドーは軽い言葉で気まずさを振り落とそうとした。口をわざとスマイル顔の反対にする。
「そりゃ、よかったですねぇ」
次にコズモの方を向き、人差し指で皿の上の空気をくるくると回してみせた。
「なあ、これ奢ってくれるか?」
コズモはしかめっ面でドーの腕の傷を見つめていたが、ハッとして目線を上げるとぼんやりと答えた。
「え?ああ、いいけど」
そしてまたすぐに目線を落とす。再び沈黙。ドーはふいにあっ、と声を上げ、首を振った。
「いやいや、やっぱり忘れてくれ。求職中のヤツにこんなお願いするだなんてそんなのクズがやることだ。あ、でも俺も無職か。まあいいやもう一品頼も」
「ドー」コズモがつぶやいた。
「ん?」
「おれたち、何してるんだよ。ここで」

ドーは目をぱちくりさせた。え、飯食ってるんじゃん、みたいな当たり前の解答をしようと息を吸ったが、もう言葉が出てこなかった。アドレナリンが底をついてしまったみたいだった。ドーは椅子にもたれかかり、窓の外を見る。さっきの運転手が外でタバコを吸っていた。店のネオンが反射して、トラックとタバコの煙が赤く染まっている。ドーは諦めたような表情で首をゆっくりと振った。
「全部話せる気がしないし。中途半端なのも嫌だ。だからいい、もういいんだよ別に」
コズモは腕を組み、空になったお皿に目を落とした。
「本当に、お前は演技がうまいよな」
「へ」
AJが前のめりになり、机にお腹をくっつけたまま言った。
「じゃあ、僕らに何かできることは?」

こんな言葉をかけられたことは人生で一度もない、とドーは思った。というより、こんな言葉をかけられるシチュエーションに今まで身を置いたことがなかった。どんなに近い人間にも、貸しだけは作りたくなかったからだ。嬉しさと切ない感覚に渦巻かれて、初めてサンタにプレゼントを頼んで良いよ、と言われた子供みたいな高揚感が押し寄せてくるのを感じた。ものすごくバカで、突拍子もない考えが頭をよぎる。まあいっか。言っちゃお。

「じゃあ会ってきてくれたりして。俺の親に」
二人のどちらかが答える前に、ドーは急いで付け加えた。
「俺には兄貴がいたんだけど4年前に死んだ、それから家族には一度も会ってない、葬式に行かなかったからタイミング逃しちゃってさ」
ドーは溶けはじめた氷だけのコーラを飲むふりをした。
「夕食に誘われたんだ。なんか行かないといけない気がするんだけど、明日の俺に必要なのはちゃんとした睡眠だけなんだと思うし」
弱々しくテーブルを見つめ、リアクションを待つ。

「おれたちが行ったら困惑するだろうな」
コズモがしばらくしてつぶやいた。
「おう、願ったり叶ったりだ。あいつらはきっとお前らを入れるさ。入れたあとで、とことん微笑みながら批判の眼差しで質問を飛ばしてくるだろうから、気をつけろ」
「なるほどそういうタイプか。分かったから、もういいよ。ここのお勘定は全部ドー、お前が払えよ」
AJも肩をすくめて言った。もう口を固く結んではいなかった。
「へい」
「僕とコズモのワッフルの分もだ」
ドーはわざとらしく嫌そうな顔をして見せたが、声に安堵の色は隠せなかった。
「ほい」

ドーがくしゃくしゃになったお札をテーブルに置き、三人は店を後にした。

次の日、ドーは睡眠薬を飲み、自分の部屋で死んだように眠った。数週間ぶりの熟睡だった。閉まったままのカーテンから漏れた光が、床だけをぼんやりと照らしていた。

途中で一度だけ目が覚めたので、ラジオをつけてみたりもした。時差ボケのような感覚で、世界から置き去りにされたような虚しさが頭を支配していたからだ。夕方の番組がちょうど始まったらしく、「マペット・ショー」のイントロが強烈な音割れと共に流れはじめた。トランペットと歌声、観客の歓声がしんとした部屋に響き渡る。

ドーは物をあまり持っていなかったので、寝室の家具も最低限しか置いていなかった。シンプルなベッドと服を入れるタンス、ラジオぐらいだ。
部屋を見渡すと、大勢のマペットたちの大合唱がこだまして響き渡り、ポカンと空いた空間が逆にさみしく際立ってしまった。
ドーは焦点を合わせずに部屋の空気をじっと見つめたあと、我慢できずにタンスへと振り返り、棚を開けた。昔の彼女が置いていった小さな陶器の小物入れを開ける。粉の入った小さな袋をつまみあげると、リビングへと出て行った。

しばらくするとドーは、鼻を擦りながらとぼとぼと寝室へ戻ってきた。カーテンの隙間から落ちかけた太陽を覗き見る。今ごろあいつらはどうしてるんだろうなあと考えると、なんだか笑えてくる。ニンマリと外へ挨拶すると、もう一度カーテンをぴしゃりと閉めた。ベッドへ向かい、力なく横になる。目と腕、蹴られた腹の怪我がまだ痛んでいた。痛い方をかばって寝ないといけなかったので、なにもない壁をひたすら眺め続けるはめになってしまった。

ドーはラジオを聴きながら、もう一度眠りにつこうとした。しかし頭の中が、新しい化学の電気刺激のせいで騒がしくなってきたことを感じとった。ドーは壁をしっかりと見つめたまま笑う。消えてしまいそうな最悪な気分とは、これからしばらくおさらばだ。

*<<ドーの夢>>

暗闇から光がつく。ステージだった。でも同時に、コズモの寝室だった。舞台には毛布と、ノートの切れ端が散らばっている。中央には後ろ向きでコズモが立ったまま人形のように動かないでいる。
しばらくして、AJが壮大なファンファーレとともに堂々と司会者のように登場する。

「どうも!あ、どうも」
AJは観客に拍手をやめるように、謙遜のジェスチャーをしてみせた。あたりが少し静かになっていく。

「僕の名前はAJ。そしてあそこにいるのが相方で幼馴染の…」
舞台の奥にいたコズモがゆっくり振り返り、猫背のまま中央へやってくる。
まぶしそうに客席を見つめると、小さくぎこちないおじぎをした。
「コズモです」
あたりは歓声に包まれた。AJは満足そうに微笑む。コズモは自分の存在をここから抹消したい、とでもいうような顔をしている。AJが息を吸った。

「さて、突然ですが、皆さんは『パッシブ・アグレッシブ(受動攻撃型)』と言う言葉をご存知でしょうか。あ、何人か手が挙がった。素晴らしい。そう、皆さんも何回か体験したことがあるはず」

コズモが横からホワイトボードをゴロゴロと引きずって来た。ボードには、会話をしている人間の横顔がデフォルメで描かれていた。二人とも笑っているが、吹き出しには大きく<嘘っぱちのクソ嘘>と書かれている。AJがプレゼン用の棒をすばやく取り出し、にこやかにボードを指した。

「『本音を言わないで、見せていく』スタイルのことですね。そこに相手への敵意が加わった場合、それはそれは立派な攻撃になります」

舞台袖から、若い頃のヴィンセントとタルーラ(タイソン)が歩いて出てきた。ヴィンセントは灰色の作業服を着て、タルーラは仕事用のスーツを着ている。

「以前の章でも何度かそういう場面がありましたよね。ドーの奴がめちゃくちゃうまいんですよ、これ。僕も悩まされていたことがありました。あと昔職場にいた先輩がものすごい使い手でして…」
コズモが横から咳払いをした。AJが瞬きをしてひきつった笑みを浮かべる。
「ああすみません。おしゃべりが過ぎたようです。…まあどうせ僕らは主人公じゃないので話す時間なんかありませんよ」
AJがわざとらしく驚き、自分自身を指差した。
「ほら今の、聞きました?これが良い例です」

観客の一人が『再起動しろや~!』とだるそうに叫んだ。

「いえ。恐れ入りますが僕らはそんなマネはもう二度としません」

コズモが一歩前に出た。照明にあたりながら静かに言う。
「再起動ができるのはマシーンだけで、マシーンはそこらへんの向日葵と違ってつながりなんかなくても電気刺激だけでやっていけるんだ。おれたちはまだ、違う、向日葵のほう。今は」
「そういうことです。友達の詩が理解できないなら出口はあちらです。そうでなければ、この流れを切らずに信じることにしましょう」

AJが機敏な動きで後ろへ振り向いた。ヴィンセントとタルーラがボードの下で向かい合って座っている。
舞台奥にあるスクリーンがついた。映写機から、二人が代わりばんこに睨み合う様子がアップで映されていく。

AJが口を開いた。

「ドーの兄、ヴィンセント・オルテガは医学部を退学した後、歯磨き粉メーカーの工場へ就職します。作業着に身を包み、毎日商品を組み立てる毎日。普通の人間にとって、この環境は最悪でした。無機質なコンクリの壁に、無言の流れ作業を強いられるんですからね。ここで一生を終えると考えただけで、みんな発狂します」

ヴィンセントは無言のまま瞬きをした。AJが続ける。

「ヴィンセントはレアケースで、その環境が気に入っていた。決められたことをすれば、他は何も強いられない。多くを求めず、労働と自由の皮肉な関係を保ちたいタイプだったんでしょうね。しかし同僚たちは同じようにいきません。みんな発狂していきました。しかし発狂なんて毎日あからさまに表現していたら、トライアスロンの選手でさえも体力が底をついてしまいます。その代わり彼らは、適応していったのです。日頃の鬱憤を切り刻んでミンチにして投げていく、『受動攻撃』を使って。外側からは分かりにくく、内側からは目を見張るほど明確に」

映写機の映像が変わり、工場の再現映像になった。

「ビューラは作業員の中で数少ない女性の一人で、おとなしい性格から、同僚からよくいじめられていました。ヴィンセント・オルテガは見て見ぬ振りなんかできません。ヒーローなんですから。無口でかっこいい俺の兄貴です」

AJが急にあれ、という顔をした。自分の口から出た言葉が信じられないと言わんばかりに眉をひそめる。自分の頬をパチンとたたき、姿勢を正した。

「ある時、ヴィンセントは主犯格を特定します。同じフロアの一見陽気な男でした。ビューラの肩を執拗に触りながら話したり、陰で『流産した時、バッグに子供を入れて南の故郷へ郵送した』などの呆れる噂話を流したりしていたのです」

観客の、嫌悪のどよめきが聞こえてきた。

奥にいたヴィンセントがむくりと立ち上がり、椅子の横に置いてあるバットを手に取った。そして舞台正面にのしのしと歩いてくる。横のコズモが低い声で、重々しくつぶやいた。

「選んだ行動は『代替』」

ヴィンセントは表情を変えることなく素早く3回、舞台の真ん中で狂ったように床にバットを振り下ろした。袖幕から悲鳴が聞こえる。ステージの木の台は割れて、底が抜けていた。AJは床に目を落とし、やれやれと首を振った。

「ヴィンセントは、男を殺る代わりに、男の車をめったうちにした。車からはガソリンがどくどく漏れ出てくる。ひどい音と匂いに驚いてみんなが外へ出てきたんだ」

コズモが続ける。

「男もその一人で、信じられないという目で立ち尽くしていた。ビューラだけは笑っていたけれど。ヴィンセントは素知らぬ顔でタバコに火をつけ2、3回吸うと、男の顔がみるみる赤くなる中、ポトリとガソリンにタバコを落とした」
AJが口を挟む。
「ポイ捨てはいけませんね。火事になっちゃうでしょ」
コズモがAJのほうを向いて棒読みで言った。
「いかにも。芝生にまで燃え広がりました……これも受動攻撃ですか?」
「二人にとっては、イエス。車とはいえ、男に直接攻撃していないので。しかし事情を知らない奴らにとっては、ヴィンセントが直接車を攻撃したとしか見えないでしょうね」
「へぇなるほど」
「その後、男はもちろん怒り狂いました。ヴィンセントに一発パンチを食らわします。しかし男は人生で一度も喧嘩をしたことがなかったので、ヴィンセントには全くダメージがありませんでした。上長が見に来た時、そこには『無傷』の男が二人。そのうち一人はバットを持っている。そしてここが理不尽なところで……」

コズモが客席のほうを向き、観客をじっと見つめて言った。

「車のほうは誰が見てもボロボロだった、ってこと」

AJが申し訳なさそうに頷いた。

*<<現実世界>>

そのころAJとコズモは、ドーの実家へ到着していた。
家はオレンジ・カウンティの海から一番遠い団地に位置していて、白く存在感のある造りだった。やや力の弱くなった太陽がぼんやりと外観を照らし出していた。

AJとコズモはこの状況がおかしいことを十分理解していた。友人の実家(しかも5年近く音信不通)に連絡なしで乗り込んで、本人抜きでいきなりディナーだなんて……馬鹿げている。しかし二人は不思議な使命感に燃えていた。人に頼りたがらないドーが自分達を刺客のように送り込んだのだから。これは意味のある奇行だ。人生でそう何度もあるわけじゃないと、二人は心を躍らせていた。

AJがドアを叩いた。コズモは後ろで、小綺麗に掘られたドア枠の模様をじっと睨みつけていた。

ドアを開けたのはドーの妹、ヴィヴだった。顔は丸く、普段は愛嬌の良さそうな顔をめいっぱいしかめてAJを見上げていた。頬が盛り上がり、自然と口を尖らせているようにも見える。真っ黒の巻き毛は真上できっちりとくくられ、ボリューミーなポニーテールにしてあった。AJは目の前の子がドーの妹だという憶測を立てると、状況をうまくまとめて簡潔に説明した。ヴィヴはしばらく二人をジロジロと眺めてから、わかった、お母さんを呼んでくるから、と言い残してドアを閉めた。

しばらくして再びドアが開くと、ドーの母が怪訝な顔をして立っていた。

「この人たち、兄さんの友達なんだって」
ヴィヴが言うと、母は腕を組んだ。
AJは無害そうなスマイルを作る。母が少しガードを弱めたのを感じ取った。
少しの隙を見計らって、進行する。
「訳があって、息子さんはディナーに来れないんです。彼に頼まれて僕たちが代わりに来ることになりました」
母は疑り深い顔つきで二人を交互に見つめた。
「ねぇ、ほんとうにジェシーの友達なの?」
AJは小さく一歩前に出た。
「ジェシーは昨日の夜、お兄さんの部屋に侵入してあなたに会いましたよね……そして家に来てほしいと誘った……このことは誰にも話してないでしょう?」

コズモは手持ち無沙汰で後ろに立ちすくんだままだったが、友達が仕事のスキルを変なところで発揮するのは見ていて楽しいと思った。AJが肩をすくめて一歩下がる。
「まあ、これが十分でないなら、仕方ありませんが」

母は組んだ腕をほどき、好きにすればと言わんばかりに首を振った。
腕を伸ばしてドアをさらに大きく開ける。

「……いらっしゃい、歓迎するわ」

*<<再びドーの家>>

次にドーが見た光景は、殺風景なオフィスだった。木製のドアには白色の文字で「製造管理部門」と書かれていて、無機質な机と椅子が寂しく並んで置かれている。

グレーの作業着を着たヴィンセントがドサリと椅子に座り、向かいにいるスーツ姿で立っているタルーラをぽかんと見つめていた。自分がなぜそこにいるのか、まったくわかっていない子供のようにも見える。

感情の読めない真っ直ぐな目線に居心地を悪くしながら、タルーラが椅子の横から資料を取り出した。机にもたれかかり、つまらなそうに短いため息をつく。ほとんどヴィンセントのほうは見ていなかった。
「ヴィンセント・オルテガさん。あなたは当社規約の5条三項『社員およびその所有物に損害を加えないこと』に違反したと、本部から通達が来た」
タルーラがちらりとヴィンセントのほうを見た。ヴィンセントは何も言わず、ただタルーラと目を合わせた。タルーラは気まずさに微笑みそうになったが、必死でこらえた。気まずさに屈すのは弱い証拠を見せることで、すなわち負けだ。当時のタルーラは、威厳を保つには壁をたくさん建てないといけないと思っていた。
しばらくしてヴィンセントがぼそぼそと言った。
「クビですか」
タルーラが首を振った。
ヴィンセントがほっとしたように息を吐くと、ゆっくり立ち上がって出て行こうとした。タルーラがあの!?と言って慌てて引き止める。
「何」
「座って」
「減給ですか」
「いや、何も変わらないけど。現場監督として報告をしないといけないからね」
ヴィンセントが諦めた表情で腕を組み、タルーラの話を聞く態度をとった。
「今回は事故ということで事が収まった。新聞なんかに取り上げられるのは避けたいってことで、注意喚起だけ。あんたは隠蔽されるんだ」タルーラが資料に目を落とすと、ため息をついた。
「それはよかった」ヴィンセントが他人事のように言う。
「よかった?ほんとに?自分の存在を隠すような会社に守られてる気分はどう?」

テレビ番組のように、客席からどよめきの声が上がった。コズモのくぐもったコメントが聞こえてくる。
「最高のパッシブ・アグレッシブだ」

ヴィンセントはあくびをした後、真面目にうーんと考える顔をした。
「……少なくとも、何かが変わったとは思うから」
タルーラはヴィンセントの顔を覗き込んだ。
「いや手っ取り早く車を燃やしただけじゃ、何も変わらない。ここは高校じゃない。ビューラの件は黙認、これからも同じ人間が、同じ場所で働き続けるんだよ」
「なんか怒ってるみたいな口ぶりだな、あんたには直接関係ないのに」
しまった。タルーラは思った。心を入れ込みすぎた。
ヴィンセントはのそのそと立ち上がると、今度は止められることなく出口へと向かい始めた。
「あんたが正しいと思うよ。でももう一度現場に行って、彼女が働いてるのを見てからおんなじ質問をして」
ヴィンセントはドアの前で振りかえり、一言言い添えた。
「あと、人は高校ん時からそんなに変わってないと思う。みんなバカで、自分のことでいっぱいいっぱいなままだよ」

場面が暗くなり、AJとコズモが解説者のように登場した。
AJが芝居がかった様子で話しはじめる。
「タルーラは一人残された。ただの仕事上の会話だと思っていたのに、その日からなぜか、隠れていた日頃の不満がいたるところで目につくようになった。人生の内部にある違和感にも」
コズモが続く。
「二人がどこで再会するかは、またの機会に」

テレビが切れるように、場面が変わった。

次はまた、コズモの寝室だった。コズモはベッドに横になり、メラニーが仁王立ちでコズモの間に立っていた。コズモが目を覚ますと、メラニーが柔らかい声で語りかける。
「おはよう。よく眠れた?」
「……お前は、本物じゃない」
体を起こしたコズモの横にメラニーが座る。
「ふふふ……だからなんだって言うの?」
「無視だ。むしむし」
「ねえ、お腹空かない?」
「……すかない」
「昨日食べすぎた?」
「ああ」
「何食べたの?」
「覚えてない」
「忘れたって胃の中にある本物の食べ物は無くなってくれないよ」
コズモはうなりながら枕を顔に引っ付け、うずくまった。メラニーがコズモの耳に近づく。
「ピザ?」
コズモが首を振る。
「ステーキね」
コズモがくぐもった声でノーと言った。
「ハンバーガー、サルシッチャ、パテ・ドゥ・カンパーニュ……」
メラニーが指を折って名前を挙げていく。
コズモが呪文にかかったように、鼻をひくひくさせながら起き上がり、つぶやいた。
「チキン」
メラニーが嬉しそうにコズモを見る。
「チキン!」
「チキン……」

コズモが虚空に手を伸ばす。

「チキン……」

「チキン……」

「チキン……」

*<<現実世界へ>>

「チキン!まあ!ほんと!」
ドーの母がにこやかに言った。
「素手でニワトリを?」
「ええ。抱え込むように触るんですよ、こう」
向かいに座っていたAJは微笑みながら、ドーの母に向かって頷く。
AJとコズモは一緒になってニワトリを抱える仕草をしてみせた。

オルテガ一家と二人はディナーのテーブルについていた。楕円形のテーブルの上には小綺麗なクロスが敷かれ、ろうそくの灯りが料理に光沢を与えている。ふっくらしたレースカーテンのついたベランダに背を向けてヴィヴと父が、そして隣に母が座って料理をつついていた。
ドーの父は、60歳前後に見える割には全ての動きが機敏で、ナイフとフォークを人一倍すばやく動かして口に運んでいた。顔には常に険しい表情が浮かんでいて、AJとコズモがなぜここにいるのか全く分からないという意思表示のようにも見えた。

「私、生きてるチキン見たことないかも」ヴィヴがワインに手を伸ばしながら言う。
母は目をまん丸にして笑った。
「そうね、都会で育ったら機会がないものね」
「コネチカットの農場で生まれたので、一応」AJが言った。
「それで、いつロサンゼルスに?」
AJはチキンをもう一口食べてから言った。
「60年の夏です。小学生の時に転校して、その時こいつにも会ったんです」
静かに聞いていたドーの父は、歯に挟まったものを取り終わると口を開いた。
「それで、お仕事は?」
「ウィルシェア法律事務所の方で働いています」
父が片眉を上げた。
「ほう、弁護士なのか」
「なにかあれば割引しますよ、困っていることがありましたらいつでも」
そう言ってAJも片眉を上げてみたが、ドーの父は顔色ひとつ変えずにコズモの方を向いた。
「それで、こちらの友人は?」
コズモは何度かまばたきをしてから、低い声で言った。
「小説を」
「すごいじゃないか。どこから出版を?」
コズモはフォークでぎこちなくプチトマトをつついた。トマトは刺さらずに逃げていくだけだった。
「独立系の会社から一冊」
「なんて会社だい?知っているかもしれない」
「フォート・アングレアです」
「知らないな」
「ですよね」
「どのくらいで売れるんだい?」
「原稿は売らないんです。原稿料はもらうんですけど、権利はずっと著者にあります」
父親は眉をひそめ、ゆっくりと身を乗り出した。
「そうなんだよ。俺は昔から気になってるんだけどね、そういう芸術家タイプの人たちって、どうやって食っていっているんだろうって。……悪気はないんだけどね、これはただの好奇心で聞いてるやつなんだが」
コズモは肩をすくめた。あえて真剣そうな口調で言う。
「食べる量を極力減らすんです。そしたら、食っていけますよ」
「ほう、ダイエットか」
「ただの我慢比べ、ですね」
父親は学者が新しい数式でも考えだそうとするかのように、あごをさすった。
「おもしろい。どのくらい節約できるんだね?」
コズモはうんざりした気分を隠すことを諦めた。虚な目でドーの父を見つめて言う。
「日頃どんなものを買っているかによります」

*<<ドーの夢>>

次のビジョンは、ドーの実家だった。
現実とはすこし違う世界の、夢の中でパーソナライズされた実家だ。
目の前に車が停まっている。ラジオからは、小さくビーチ・ボーイズの「ヘルプ・ミー・ロンダ」が流れていた。

白く、大きな横長の長方形で、平べったく伸びたような形をした家が揺れ動いていた。青い空の色と太陽が不気味なモダンアートのようにうねっている。景色全体にモヤがかかり、蜃気楼に包み込まれたようなイメージを沸き起こしていた。

家の前でタバコを吸いながら立っているのは、大学のために家を出る直前のヴィンセントだった。髪も短く、体格も最後に見た時よりふっくらしている。父親がせっせと車に荷物を運んでいくのを背景に、ヴィンセントは自分の生まれ育った家を静かに、目を細めてただ睨み続けていた。煙を吐ききってから、もう一度吸い込む。何度もそれを続けていく。
玄関先では、小さなドーとヴィヴが母親と一緒に様子を見ていた。

肺に溜まった息を吐ききったヴィンセントが、ふとドーへと顔を向けた。目が合った瞬間、ドーはなんともいえない恐怖に心臓が止まりそうになった。

心のどこかで、この兄にはもう二度と会わないような予感がしたからだ。

小さなドーは心臓を凍り付かせたまま、無意識に家の中へと走って逃げていた。薄暗い階段を急いで登ろうとして段差に足をかけたとたん、チョコレート色にすすれた床が柔らかく溶け出し、ドーは足を取られた。何度もこけそうになりながら、ドロドロになった階段を必死に登っていく。ようやく自分の部屋にたどりつき、後ろ手で激しくドアを閉めた。ドアにもたれかかる。肩で息をしようと大きく息を吸う。
そして空気を極限まで肺に入れたところで、ドーの体はピタリと固まってしまった。
えっと、あれ。このあと、どうやってたっけ。
必死に普段の自然な動きを思い出そうとしたが、何ひとつ浮かんでこなかった。

ドーはこれ以上息を吸うことも吐くこともできず、苦しくなってその場にドサリと倒れ込んだ。焦点の合わない目を見開き、気絶しないように必死に一点を見つめようとする。意識が遠くなっていく感覚が訪れると、知らない男の足が見えた。妙に清潔感のある薄手の靴下が、ペタペタとゆっくり近づいてくる。男はドーの目の前でしゃがみ込んだ。さっきラジオで聞いた、ビーチ・ボーイズのシンガー、ブライアン・ウィルソンだった。ひげ面のむっちりした顔がこちらを心配そうに覗き込み、失望した様子で首を振っている。
ブライアンはつぶらな瞳をドーに向けながら口を開いた。
「オープンでいることは、恐ろしいことなんだ。そして君は特にそれが下手みたいだね」
彼が天使のように手を差し伸べたところで、ドーは少し息ができるようになったことに気がついた。
「…歌がひどく下手な理由もそれかな?声帯はドアなんだ、閉まってたら歌えない」ブライアンが続ける。ドーは笑いをこらえきれなくなった。ひらひらと手を動かしながら、かすれた声を絞り出す。
「あの、悪いけど、幻想と話すのは俺の仕事じゃないんで」

ドーがそう言うと、ブライアンは歩いてどこかへいってしまった。

気持ちを落ち着かせてようやく細い息が吐けるようになると、ドーはゆっくりと身を起こした。もう一度ドアノブに手をかける。ドアを開けようとしたドーの背中の画が急にストロボのように点滅し、コズモの背中と入れ替わった。コズモは精神病棟の出口にいた。重い、白いドアを両手にうんと力を入れ、自分の力で外へ脱出した。そしてコズモは光の中へ走っていった。また画面が点滅し、ドーへと戻ってくる。ドアが開いた。

ドアはいきなり外に繋がっていた。こもった夏の空気が一瞬で体を覆う。

さっきと全く同じビジョンが目の前に広がった。隣には母と小さなヴィヴがいて、毒々しい青さの空に背を向ける兄をただ見つめていた。しかし今度は、兄の姿が変わっていた。髪が無造作に伸び、シワのついた安物のスーツが痩せた肩を覆っている。ドーが最後に見た兄の姿だった。
それでも兄は構わず、同じように家を見上げながらそこに立っていた。
黒いネクタイを緩めながら、蜃気楼で揺れる家を眩しそうに睨みつけている。
ドーは兄から目を逸らし、隣にいる母を見た。母はドーが14歳の時に見た時と同じく、ただ誇らしげに兄へ微笑みを向けているだけだった。

また同じタイミングがやってくると、兄はもう一度ドーの方へ目を向けた。
しかしドーの心臓は、今度は止まらなかった。
興味津々のまなざしをむけているヴィヴの肩をゆっくりと押し、家の中へと逃げさせる。
ヴィヴが階段を駆けあがって暗闇の中に消えていくのを見届けると、ドーは一歩ずつ、兄の方へと歩みを進めていった。一歩進むたびに自分が歳をとっていき、兄と似たようなスーツを着ていることにも気がついた。ドーが近づいていくと、兄もドーの方に向きなおった。
ドーは兄が、なにか言葉をかけてくれるのを期待した。なにか、尊敬できるなにかを。真似できる要素を。心にお守りのように留めておける、なにかをくれ。お願いだから。
兄はドーを見つめると、低くゆっくりした声で言った。

「ドアを閉めたまま俺を作るな」

ドーは期待はずれの言葉に固まった。テレビ放送終了の電気信号の音が頭の中で響きわたる。続きを待ったが、兄はまた家のほうに目を向けて黙りこくってしまった。ドーは欲しくもなかった言葉を脳まで送り届けてしまうと、突然供給を切られたヤク中みたいに叫び出したい気持ちに駆られた。兄を指差して騒ぎ立てたくなった。おい、それだけかよ。黙ってんじゃねえよ。兄なら兄らしく、人生の先輩としてのちゃんとした指標ぐらい見せてくれよ。タルーラには言葉をかけて心を開いたらしいじゃん、なんで俺には何もくれないんだ?なんでクソみたいな嘘くさい言葉を吐いて、終わりだったんだ?自分の頭が空っぽだから、自分で作り上げた兄の言葉さえも思い通りにならないっていうのか。

いつもそうだ。人はだいたい、必要な時には欲しい言葉をかけてくれない。予想通りに答えてくれない。生活そのものだってそうだ。こっちから人生に真剣な声色で話しかけてみても、真っ当な受け答えが返ってきたことなんて今までにあったか?
それなら最初から真剣に聞かなきゃいい。かけられる言葉も、差し伸べられる手も、わかったふりをして、ありがたいふりをして、心の中には絶対に侵入させなければいいのだ。窓がない幸せの部屋で暇を潰して、死を待てばいい。楽しそうに生きる別の誰かになってしまえば、誰にも発見されることはない。いい人だったなあとかいう感想だけを残して、みんな忘れる。それで十分じゃないか。

ドーは重いまばたきをして思考を飲み込んだ。これ以上考えても終わりはない、少なくとも、ろくな結論は出ない。気を取り直して再びまぶたを持ち上げると、兄の目線の先に目を凝らしてみた。子供のころから夢によく出てくる、白く、ぼんやりうねっている実家の外観だ。そこには兄の部屋がある。窓はしっかりと開いていて、カーテンが風で激しくはためいている。

兄がこっちを見た。
「俺はリアルだった。お前は違う」
ドーは急に悲しくてたまらなくなった。
「嫌だ」ドーは首を振った。
「俺はいつもそこにいた。お前はなにしてた」
「覚えてない」ドーはまた首を横に振った。
「お前は、どこにいた?」
「覚えてない」
「どこにいる?」
「わからない」
「嘘だね。わかるだろ、全部」
兄の落ち着いた声が次第に大きくなる。
「嘘だ。また嘘だ。そしてまた、嘘」
兄が言葉を吐くたび、ドーは消えたくてたまらない気分になった。でもこれは自分の夢なので、消えることはできない。兄はドーの顔を横目で見ると、初めて心から笑ったかのような、力の抜けた微笑みを浮かべてみせた。

「お前は、歌も演技もほんとうに下手なんだな」

ドーは目を覚ました。強く脈打つ心臓を感じる。ベッドの上で冷や汗をかきながら小さくうずくまっている自分を確認した。
力なく手をついて、ゆっくりと起き上がる。部屋の中はすでに真っ暗になっていた。外からパトカーのサイレンが聞こえてきて、家の前を通りすぎるのが音でわかった。カーテンの下の隙間から、赤と青の光が反射して床を照らし始めた。

パトカーの灯りが部屋中をうっすらと2原色に染め上げていく。閉められたカーテンをぼんやりと見つめていると、どこからともなくコズモの暗い声が聞こえてきた。
「赤です」
コズモはあのとき人生で初めて、他人を自分の船から追い出した。お見事だ。人生のクソなものから身を守るため、ドアを閉めることに成功した。ドーが子供の頃から実践していたことを、コズモは27歳でようやくやってのけたんだと感じた。今までどうやって生きのびてたんだ?
次にステージで光を浴びて叫ぶメラニーとタルーラが同時に思い浮かんだ。二人の激しさが重なって輝く。次はダイナーで自分の顔をじっと見つめたAJがいた。AJの透き通った目を思い出して、今度は記憶の中で、しっかりと見つめ返してみる。周りの人間……特に苦しんでるやつら。あいつらはみんな、いつも壊れかけの船みたいな生き方をするんだ。誰でも彼でも避難民を受け入れて、ハッチを開けたまま、重い荷物を持った他人を招き入れようとする。自分は横で、いつか重量オーバーで彼らが沈んでいくのを見ることしかできない。

次に、ドーとコズモが笑いながら木の板をドーの家の玄関に打ち付けていくビジョンを浮かんだ。ドーは釘を口にくわえて、呑気な鼻歌を歌いながらハンマー片手に玄関にフタをしている。

思えば、自分はいつも閉めることが得意だった。

ドーはもう一度固く目を閉じて昔の記憶をたどった。父の声が響く。
「…ヴィンセントは今忙しいんだ」
あのとき、ドアは閉まっていたか?いや、違う。兄の背中は見えていた。部屋に入らなかったのは自分自身のちっぽけな選択だ。つぎに昨日聞いた母の声が響く。

「私は問題を抱えていて……」

ドーは目を固く閉じたまま、眼球を動かして記憶の端っこを睨んだ。母親の横顔が見えてくる。リビング横のベランダの段差に座り、昼間から泣き腫らした目で酒を飲んでいる。ちっぽけなドーは冷蔵庫から取り出した牛乳を飲みながら、見たことのないグロテスクな観葉植物を眺めるように母を見つめていた。母が振り返り、悲しそうに笑いかける。目が合うと、ドーはたまらなくなって踵を返し、階段を駆け上がった。
自分の部屋に戻り、ドアをばたりと閉めた。布団を頭からかぶり、小さな兵隊のフィギュアを無表情でもてあそび始める。

「……あの子は何も言わずに部屋に戻って、無言で部屋中のものをめちゃくちゃに壊し始めたの。覚えてる?」

ドーはそのころ、名前も覚えていない友達の家に泊まりに行っていたんだろう。自分の部屋をしっかり閉めて、誰も入れないようにして、逃げるように出て行ったまま。

そしてドーは大学生になった。5年ぶりに兄に会いに行ったあと、その足で友達とバーへ出かけた。いつもより気分がずば抜けて良かった。テキーラを流し込み、今はもう顔も覚えていない友達たちと腹がよじれるほどくだらないジョークで笑い、踊った。次に目を開けた時、ドーは古臭い煙の匂いのする床にぶっ倒れ、薄っぺらい心配の顔を浮かべた人々をぼんやりと見上げていた。

胃の痛みに耐えかねて乱暴に寝返りをうった。身体が一回転すると、ドーは病室のベッドにいた。しばらく真っ白な天井を意味なく見つめ続ける。上を向くのに飽きてくると、重い頭に力を入れて、足元に目線を移してみた。
足元のちょうど延長線上にあったドアは、完全に開け放たれていた。永遠に続いているような細い廊下から、金属の車輪がカラカラとこっちまでやってくるような音が近づいてくる。心拍数の電気音がだんだんと速くなった。

開いたままのドアは自殺観念のしるしだ。怖い、怖くてたまらない。開けたままにして何もいいことがない。誰かが入ってきていつか、自分をひっかき回して殺すかもしれない。兄貴はそれを分かっていて、わざと開けっぱなしにしていた。そして与えられたものを全て飲み込んだ。そのせいで兄貴の人生はいびつで、不幸せなものに出来あがってしまった。何も成し遂げられないまま。

……ドーは別の思考が入ってくるのを感じた。最新のものだ。タルーラがドアの前で自分の逃げ道を塞いだのを思い出す。そうする必要なんてなかったのに、タルーラは俺をあそこに留めた。椅子に座って向き合い、タルーラが鋭い目でドーを見透かすように見上げていたのを思い出す。
想像の世界で兄貴とタルーラが部屋で見つめ合い、キスをする。タルーラとの会話が、16歳の兄のイメージと重なった。
兄貴はゴーストでいることを拒んだ。ちゃんとシーツを脱いで、俺の方に助けに来たんだよな。俺は?俺はゴーストのままなのかも。ゴーストは家族の葬式になんて行こうとしない。ろくに前も見えてない、シーツを被ったままで人をもて遊ぶ、惨めなやつだ。
それでも楽しい。その通り。それでいいのか、さあね。

ドーは人生で初めて自分自身が何を「したい」のか、海底の砂をかき分けるように考え始めていた。27年間のクソが降り積もっていたせいで捜索は難航した。
何も見つからない。決まってる、どうせ何もないって。ううん、よく見てみろ。
ドーはしばらく固く目を閉じていた。
……てかさ、ドアが怖いだって?まったく、成長しろよ。どっちみちどんな奴もいつかは侵入されて傷ついて、運が悪ければ殺される。要するにドアをどう扱うか。タイミングの問題なんだ。

自分はなぜタルーラに会いに行ったのか。なぜあそこにいたのか。分からないけれど、自分が自分を連れて行ったのは事実だ。無意識の方が自分のちっぽけな考えより、多くのことをわかっていたんじゃないか。

ドーはぱっちりと目を開けた。暗くなった部屋の中では出口がよく見えない。それでも現実のドアに焦点を合わせようとして、えぐれるくらい強く目を擦った。暗闇に慣れてくると、もう一度ドアに目を凝らしてみる。金属の取手がぼんやりと光って見えてきた。
当たり前だけどドアのいいところは、開けても、もう一度閉めることができるところだ。ドーは茶化すように肩をすくめた。

兄貴は俺を勝手に作るなと言ったけどさ、俺はやっぱり想像してみたいんだよ。兄貴みたいなヒーローになってみたいんだよ。いつでも作り替えることはできる。だから今は……。

ドーはよろける足でドアへと走り、勢いよくドアノブを回そうとした。しかし手に力が入らずドアに肩からぶつかり、派手な音をたてて転んだ。ドーはしばらく自分の惨めさに額をゆらゆらとドアにこすりつけて項垂れると、友達の肩を叩くみたいにドアにやさしく手をあてた。それからやけになって、腹の奥底から短い雄叫びをあげた。アキレス腱に力を入れ、慎重に足の裏を床に置き直す。よろよろと立ち上がり、ゆっくりと後ずさる。首を左右に曲げ、反撃の準備をするボクサーのように、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
そして大きな掛け声とともに、自己流の空手キックでドアを乱暴に蹴り開ける。

外へ出ると、AJから返してもらった車が家の前に停まっていた。ドーは玄関の鍵をかけずに車の方へと走っていく。隣でゴミを出していたおばあちゃんが不思議そうな様子でドーに話しかけた。

「あら、ドーちゃん。何をそんなに急いでるの?」
ドーは振り返ると、無駄に大きな声で答えた。
「友達をきっしょいディナーから救い出すんだよ!」

ドーは車に乗ると、悪態をつきながらシートベルトを閉めた。あれれぇシートの位置がおかしい、あの野郎勝手にカスタマイズしやがって、とかなんとか言うこもった声が外まで聞こえてきた。

乱暴にエンジンがかかると、スリップしながら車が出ていった。

おばあちゃんは首を傾げてつぶやいた。

「あら、牛乳でも買い忘れちゃったのかねえ」


つづく。

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