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誰もがマイノリティ性を秘めている。障害学研究者・星加良司が「障害の社会モデル」を語る

目が見えないから、耳が聴こえないから、「障害者」になるわけではない。多数派に合わせた社会こそが「障害」を生み出している──「障害の社会モデル」という考え方を体感してもらうため、2020年2月、私たち「チーム誰とも」が期間限定で開催したバリアフルレストラン。「二足歩行者が少数派で、車いす利用者が多数派」という仮想世界を演出し、SNSでも賛否両論、大きな反響がありました。

新型コロナウイルス感染症の影響によって社会不安が高まり、マイノリティに対する寛容性が低くなりつつある昨今。私たちは、どうすれば多様性を包摂した共生社会を構築できるのでしょうか。チーム誰ともの監修を務める障害学研究者の星加良司准教授(東京大学)に、あらためて「障害の社会モデル」とバリアフルレストランに込められた意図、そして私たち一人ひとりにできることを聞きました。

星加良司さん
東京大学大学院教育学研究科附属バリアフリー教育開発研究センター准教授。内閣官房「心のバリアフリー」に向けた汎用性のある研修プログラム検討委員会他歴任。専門は社会学、障害学。著書に『障害とは何か』(生活書院)など。自身も全盲という障害を持つ当事者。チーム誰とも、バリアフルレストランの監修を務める。

身体はいつもどおり。でも「障害」が生じるのはなぜ?

──バリアフルレストランは、星加先生の研究でも扱っている「障害の社会モデル」の理解を深めてもらう意図で企画されました。

はい。多くの人は障害というと、「目が見えない」「耳が聞こえない」といった個人の心身機能に由来するものと思っているでしょう。一方で障害の社会モデルは、心身機能に障害を抱えた人にとって暮らしやすい環境を築けていない、社会の側が「障害」を生み出していると考えます。

この考え方を体感してもらえるよう、バリアフルレストランが企画されました。内装、店員のコミュニケーション、店内で流れている映像……あらゆる観点で工夫を凝らし、「車いすユーザーが多数派(マジョリティ)で、二足歩行者が少数派(マイノリティ)」の世界を演出したんです。

──「車いすユーザーが多数派」というコンセプト、かなり攻めていますよね。どのように考案されたのでしょうか?

実はこのアイデア、私のオリジナルではありません。1980年代に、イギリスの著名な障害学論者であるヴィック・フィンケルシュタインが提示した寓話「障害者の村」から着想しました。障害の社会モデルを直感的に理解してもらうために提示された寓話で、車いすユーザーがマジョリティを占める村が描かれています。

──バリアフルレストランのように、障害の社会モデルを体感できるコンテンツは他にはないのでしょうか?

私が把握している限りでは、ないと思います。車いす乗車体験、アイマスクをして街を歩いてみるプログラム、暗闇の中で視覚障害者の世界を体験するイベントなど……世の中の障害者理解プログラムは、身体機能を追体験するものが主流です。

こうしたプログラムは、「目が見えないと大変」「車いす生活は厳しい」といった理解に終始してしまいがちです。英米の障害社会学でも、個人の側に障害の原因があるとみなす「障害の個人モデル」を強化してしまうおそれがあると批判されてきました。

ですから、バリアフルレストランには、障害者の身体の疑似体験ではなく、環境側の変化“だけ”で困難/障害が生じる仕掛けを施しました。あえて参加者の身体への制限を加えないことで、「自分たちに不向きな環境が困難を生み出しているんだ」と感じてほしかったのです。

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2020年2月にオープンしたバリアフルレストランの会場

トランプは「左利き」を排除している

──体験してくださった方のなかには、店員さんが来店者である二足歩行者に過剰に気を遣うので、「来ちゃってごめんなさい」という気持ちになったとおっしゃっていた方もいました。

あからさまな差別や排除だけが、マイノリティにとっての生きづらさや困難を生み出すわけではありませんからね。マジョリティ側は受け入れているつもりでも、対応やコミュニケーションの節々に、マイノリティ側に「自分はここにいるべきではない」と思わせてしまうニュアンスが現れてしまうことはよくあります。その点に気づいてもらうことも、企画で気をつけたポイントの一つです。

バリアフルレストランは「二足歩行者」を基準とした偏りを表現していますが、現実社会には、それ以外にもさまざまな「偏り」が潜んでいます。電話しか置かれていなくて、耳が聴こえない人への配慮がなされていない建物のエントランス。右利きの人向けのデザインになっていて、左利きの人は使いづらいトランプなど。そうした困難に気づけるようになってもらうために、バリアフルレストランでは、現実に存在する偏りをデフォルメした架空の世界をつくり出したんです。

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バリアフルレストランでも「多数派の偏り」として紹介されたエントランス

──メディアに掲載されたバリアフルレストランの記事をみたネットユーザーの一部からは、ネガティブなコメントもあがっていました。

私は想定の範囲内だと考えています。主に「車いす体験のほうが疑似体験として意味があるのでは?」「健常者に対する当てつけではないか?」といった声が挙がっていました。これらは、まさに障害の個人モデルで考えているからこそ出てくる意見です。

マジョリティにとって、障害の社会モデルを受け入れるのは非常にしんどいです。これまで当たり前だと思っていた環境が、実は自分にとって有利に構築されていた、すなわち下駄を履かされていたと気づかされるのですから。場合によっては、自己肯定感も傷つくでしょう。

バリアフルレストランにネガティブな反応が来るのは、自然なことなんです。これまでに築き上げてきた足元が崩れてしまうリスクを回避すべく、ある種の防衛反応が働いてしまう。自分の特権に気づきたくない、ということです。

──それでも、無自覚な偏りに気づいてほしいから、バリアフルレストランを企画されたのですよね?

もちろんです。あらためて、障害の社会モデルをもっと広めていかなければ、と認識させられました。将来的には、障害の社会モデルを浸透させ、こうしたプログラムへのネガティブな反応をなくしていきたい。

今回の企画も、その第一歩にはなっているはずです。参加者のなかには、障害の社会モデルを理解してくれた人が確実にいる。このプログラムを皮切りに、より一層、障害の社会モデルを前提としたムーブメントが増えていくことを期待しています。

──とはいえ、マジョリティを変えていくのは簡単ではありません。

いきなり全員に変わってもらう必要もないと思っています。まずは、障害の個人モデルに完全に振り切れているわけではない、良い意味で“どっちつかず”な人びとにアプローチしていきます。

世の中は、一気には変わりません。たとえば政治的なスタンスについて、極端な右派や左派は一握りで、状況に応じて立場が変わりうる中間層がボリュームゾーンだと言われています。障害者のような社会的マイノリティに対する認識についても、同じことがいえると思います。

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誰もがマイノリティ性を秘めている

──でも、そんなにうまくいくのでしょうか?先ほどおっしゃっていたように、マジョリティにとって、社会モデルを受け入れるのはしんどいことです。それを乗り越えてまで、偏りを自覚しようとは思わないのではないでしょうか。

実は、誰もが自分の中にマイノリティ性を秘めています。ジェンダー、国籍、年齢……ある属性をとればマジョリティだった人が、ある属性や環境においてはマイノリティに容易になり得ます

そして、そのあらゆる側面で、マジョリティとマイノリティの間での力の不均衡は発生します。そうした不均衡は個人ではなく社会が生み出すものだと知ることで、それまで感じていた生きづらさやコンプレックスを相対化できるかもしれません。

──健常者であっても、障害の社会モデルについて学ぶことで、自らを抑圧している別の偏りの気づけると。

おっしゃる通りです。私が研究している障害学は、ジェンダー研究やカルチュラル・スタディーズといったマイノリティ研究と、基本的なモチーフを共有しています。社会的マイノリティの問題が生じる構造やメカニズムは似ているんです。

バリアフルレストランでも、車いすは一つの素材にすぎません。本当に表現したかったのは、マジョリティとマイノリティの関係性。「多数派」「少数派」と訳されますが、本質的な問題は数ではなく、力関係です。マジョリティの都合で社会ができあがっていくため、マイノリティが不利な立場に追い込まれる。この構造が、世の中の至るところに潜んでいます

──世の中から不均衡がなくなることはありえない、ということですか?

もちろん、たとえば差別禁止法のように、できるだけ偏りを生まないような社会的枠組みを築き上げることも必要です。でも、どんなに社会制度を整備しても、不均衡性はゼロにはならないでしょう。非対称性が一切ない社会は、ユートピアにすぎないと思っています。

問題なのは、マジョリティ性・マイノリティ性があるにもかかわらず、それがないかのように振る舞うことです。自分と相手の間に、有利・不利の関係があるかもしれないと認識し続けること、マイノリティが直面している不都合から目をそらさず、対話やコミュニケーションを重ね、関係性を築いていくこと。そうして初めて、社会に多様性を包摂することができると思うんです。これが、私がいま暫定的に描いている、共生社会のイメージです。

──差別や偏見を無くそうとする取り組みのなかで、マジョリティ側とマイノリティ側が攻撃しあう構図に陥ってしまうのは、そうした対話が足りていないからなのかもしれません。

現状は、マイノリティが好戦的に声をあげないと、聞いてもらえない社会になっていますからね。マイノリティ側に対話の責任を課すのではなく、マジョリティ側が自ら進んで話を聞くようにしなければいけません。マイノリティ側が声を挙げ、それに対してマジョリティ側が対応するだけでは不十分です。

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危機を乗り切るための“秩序”にご用心

──世界を見渡すと、昨今はさまざまな領域で、マジョリティ側からの揺り戻しが起きているようにも見えます。そんな状況下で障害の社会モデルをより深く理解し、広めていくために、私たち一人ひとりには何ができるのでしょうか?

おっしゃる通り、20世紀から21世紀にかけてマイノリティの権利が認められていった反動で、現代は不寛容さが強まりつつあると思います。さらに先ほどもお話ししたように、自らが持っているマジョリティ性に対して、社会モデル的な認識を持ち続けるのはものすごく難しいことです。バリアフルレストランに参加して目から鱗が落ちても、数日も経てばその感覚を忘れてしまうのが普通でしょう。

ですから、まずは社会モデル的な視点を内面化するためのトレーニングをしてみてください。通勤途中の街並みでも、職場でも、家族でもいいです。1日3分でもいいから、身の回りに潜むマジョリティ性やマイノリティ性を探す時間を取ってみてください。

チーム誰ともは「当たり前ってなんだろう?」というキーワードを掲げていますよね。「当たり前」にしてほしいことを、「当たり前」にしてもらえない人たちがいる。そのことをよく認識し、日常に潜む「偏り」への感度を高めていきましょう。そのうえで、自分が関われる部分、関わらずにはいられない部分が見えてきたら、行動してみるといいと思います。

──昨今は、新型コロナウイルス感染症の影響で、社会の不確実性や不安がどんどん高まっています。

東日本大震災のときもそうでしたが、こうした危機的状況では、人びとは「秩序が最も大事」と考えるようになります。マジョリティの人たちですら安全が脅かされる状況ですから、不均衡性を見つめる「余裕」が失われてしまう。すると、他の人に対して攻撃的になったり、分断を助長するような考え方が広まったりと、異質なものに対してどんどん不寛容になっていく。

危機を乗り切るためには、一定の方向性に社会を集約していくことも、一時的には必要なのかもしれません。でも、その思考が常態化してしまう怖さも自覚しなくてはなりません。「切り捨てられるものがあっても仕方ない」といった感覚が広がり、危機が去った後も残ってしまうリスクがある。だからこそ、より一層危機感を持って、社会モデルを広めていかなければいけないと考えています。

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・2020年4月7日、東京大学本郷地区キャンパスにて収録。構成:小池真幸編集:原光樹(Story Design house)

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