エッセイストというゴール

「エッセイは、いわば人に見せるために書いた日記のようなもの」

先日、ラジオでふかわりょうさんが言っていた。「エッセイとはなんぞや」と、漠然とした理解のなかで悶々としていた私のなかに、その言葉はストンと落ち込んだ、気がする。

ハライチ・岩井さんの「僕の人生に事件は起きない」も、何てことのない日常を、面白おかしく、そして腹黒く綴ったものだった記憶だ。彼の文才によって、事件の起きない人生も多くの人の興味をそそるエピソードになるし、さくらももこさんがたびたび出していたエッセイも然りだ。
彼らの着眼点は素晴らしいし、その表現力にも脱帽する。

私の人生にも、当然事件は起きない。著名人でもなければ秀でた才能もない。至って平々凡々な30数年のなかで、人に語れる面白エピソードなど、いくつ存在するだろうか。
どこまでいっても「あのときああだったね」と親しい友人と盛り上がれる程度の、内輪ネタに過ぎないだろう。

それでもライターという文章に関わる仕事をするなかで、ぼんやりと設置したゴールの1つに、「エッセイスト」がある。専門知識なし、想像力なし。「0を1」にする能力が壊滅的な私だが、「0.1を3」にするぐらいの技量はあると自負しているので、多分、恐らくという希望的観測でしかないが、取るに足らない出来事をそこそこ楽しめるエンタメに変える力があるのではと信じている。

私は決して、根拠のない自信があるタイプの人間ではない。むしろネガティブだし、いい年をこいて「自分の長所…なんっすかね」とヘラヘラとごまかすような奴だ。
しかし、私にはそこそこの「ツキ」があるはずだ。願っていればなんとなくその方向に進めている気がするし、自己啓発やスピリチュアルではないが、まぁ、なんとなくそんな感じだ。

心の内に秘めていた夢や希望を、口にするのは恥ずかしい。幼い頃は「アイドルになりたい!」などと、アイドルが何かもよくわからないまま発することができたが、いまは「いくら稼げるようになりたい」「この先の人生どういう目標を持っていきたい」というささやかな願望ですら、人に公表するのははばかられるものだ。
それでもやはり、心の奥底にある変わらない気持ちは吐き出したいし、誰かに宣言したからこそ、より努力ができるものなのかもしれない、とも思う。

一般人がエッセイストになるのは難しいだろう。芸能人、漫画家、名編集者など、ある程度の「肩書き」がなければ、その人の私生活の切り取りに興味を持ってもらえる可能性すら薄いのはわかっている。
それでも私は、世が令和になろうと私がオバサンになろうと、自分で自分に見切りをつけたくはないのだ。

有名になりたいわけではない。だけどいつか誰かが、1人でも多くの知らない誰かが、私の書いた「人に読まれるための日記」を読んで、クスっと笑ってくれたらいい。
その日が来るまで、私は思いのままに、人に読まれるための言葉を発信し続けよう。公共の電波に乗せて。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?