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洗脳された子どもを助けるには

社会史、政治、歴史、教育と幅広い分野で活躍されている、経済学者のトーマス・ソウェル博士。
もしタイムトラベルできるのならば、彼の授業を受けて育ちたかった、そんな時間差で出会えた先生です。

今回は”How to Help a Brainwashed Child" (洗脳された子どもを助けるには)という動画の内容です。

親からの手紙より
「自分の子どもと議論するのが無駄なことに思えます。」
「小学校から大学まで”特定の思想を植え付けられるような授業”を受け続けた子どもを論破するのは無駄な努力で、反論さえも通じない。」
「若者の『私は全て知っている』という知ったかぶりな態度に歯止めをかけるような、おすすめの本はないでしょうか。」
といった悩みや要望が多く寄せられます。

ある一定数の若者は、教室でずっと一方的な意見の話しか聞いていません

若者を洗脳から解放するための一つの方法として読書が挙げられます。
例えば、地球温暖化防止運動の何が問題なのか、あるいは収入や職業における男性女性の違いがなぜ自動的に差別とならないのかを示す良い本がいくつもあります。
様々な問題に関して、現在信じられていることや学生に教えられていることを覆すような良い本が、様々な作家たちによりたくさん書かれているのです。
(これらの本のいくつかは、私のホームページの推薦図書に掲載されています。www.teasol.com

しかし、多くの学校で教育という大義名分で行われているプロパガンダを
一つずつ解決することは、必ずしも最良の戦略ではないかもしれません。”正しい政党”の方針が物事を見る唯一の指針であると教え込まれている問題があまりにも多く存在してしまっています。
生徒が教育されるのではなく、洗脳されて思考を植え付けられた膨大な数の問題全てを元に戻そうとすると、本棚いっぱいに本を並べ、何とかしてその膨大な数の本を生徒たちに読ませることが必要となってしまいます。


読書から正しい知識を得ることの他に、ある種の確信的な意見に疑問を投げかけていくことも大切です。
独断的な確信を持っている若者(自分の子供かもしれません)に、次のように尋ねることです。

「その問題に対して反対意見の本を一冊でも読んだことがあるかい?」


と質問するのです。

すると、おそらく高額な学費を払っている学校や大学で何年も教育を受けた若者でも読んでいないでしょう。

この質問の答えが「いいえ」だと分かれば、片方の意見しか聞いたことがないのに確信しているその考えがいかに非論理的かを指摘すればいいのです。

裁判において、陪審員が検察側の言い分だけ、あるいは弁護側の言い分だけを聞いて評決を下すのは理にかなっていますか?
片方だけの主張を聞いて評決を下すことに意味があるのでしょうか?


話題となる特定の問題の詳細を論じる必要はありません。

自分の固執した意見を過信している若い学生には、「『反対側の意見もきちんと聞く』という初歩的なステップを踏んだ後であれば、喜んでその特定の問題について議論しますよ。」と伝えてみましょう。

両者の意見を聞いてからであれば、今日学校や大学で話題になっているようなポリコレ問題(politically correct:意味exhibiting political cerrectness= 政治的正論を示すこと *現在は問題が複雑化していますので詳細は割愛。)はめったに起こらないはずです。

左派の最大の主張は、その問題が地球温暖化防止法であろうが、オープンスペース法であろうが何であれ、議論がありません

こう言うと学生たちの中には、「自分たちはもう反対側の意見をすでに聞いている。」と言う者がいます。教師が他の人の意見主張を話してくれたりするからです。(でもその『反対意見』とされる主張も結局は、都合良く解釈できるような論法になっている場合がほとんどです。)
ほとんどの学生は、地球温暖化を食い止めないと大惨事が起こるということを何度も見聞きしています。しかし、その意見に反対を表明している世界中の何百人もの気候科学者の本や論文を読んだことがありません。
生徒たちは、アル・ゴア監督の映画『不都合な真実』を見たことがあると言ってくるかもしれません。
『不都合な真実』を学校で見せられたかもしれませんが、イギリスのチャンネル4で放映されたテレビ番組「The Great Global Warming Swindle」を見たことはないでしょう。

結局教化目的で一方的な結論に導くためであれば、議論のために
反対意見を提示したとは思えません。
それは教育上、何の役にも立たないものです。
片方の意見だけでは、将来反対意見を整理しながら自分の意見を導き出すという経験を学生にさせてあげることができません。
意見を整理する方法、議論の上合理的な意見を見極める力を養うことはできません。

しかし学校を卒業後は、直面する問題に対して自分なりの結論を出すことが求められるようになります。

彼らは未来のこの国の運命を決める陪審員なのです。

「その問題の反対意見に関する本を一冊でも読んだことはありますか?」


その考え、色眼鏡で見てるかも?

”see through rose-coloured(tinted) glasses”: regard(circumstances etc.) with unfounded optimism 

naïveté

「薔薇色の眼鏡で見る」:根拠のない楽観思考で物事を見ること、騙されやすい(ナイーブと言うのはネガティブな意味)


直面する問題に対して様々な意見を整理し、議論の上合理的な結論を導く経験など(少なくとも私の通った公立の)日本の小学校、中学校、高校で積み上げることは出来ませんでした。

もう過ぎてしまった過去の教育のせいにしても意味がないと分かってはいても、やはり楽して生きてきたせいで大人になってからその歪を元に戻すことに私個人は時間がかかってしまっています。

教化のための学校、「教育」と言う看板を掲げながら上からの言うことに反論を許さず言いなりにさせるための学校ならば行く意味などありますか?

子どもの未来を潰していいのですか?


みなさんと一緒に考えていきたいです。



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