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5.1.2. 「仕事しかない」ことの恐怖

「自分の時間」という語り

前節までに見てきたように,20代から30代のインフォーマントは,会社生活だけでも充分に慌ただしい。
その中で,なぜ始業前や終業後の時間と休日を「お茶」に割き,より忙しくするのだろうか。

インフォーマントの発言に共通しているのは,仕事や会社生活だけではなく,自分の時間を持ちたいという語りである。


年に1日休みがあるかないかという職場に新卒で入社した大輔さんは,「このままいったら,仕事しかなくなると思った」と当時を振り返る。

そこで「感性を磨こうと思って」本や映画,音楽を楽しむ時間を捻出したことで,忙しない生活でも充実感を得たようだ。


「仕事だけを持っているのではなくて,自分の仕事とは関係ないところで時間をちゃんと作れることが自分を豊かにする」と感じたのは,その最初の職場での経験が大きいだろう。

その後大輔さんは,一転して17時に帰らなくてはならない会社へと転職する。
この自由時間が一気に増えた時期に,茶道を習い始めた。


「仕事しかない」という状態

上の事例で興味深いのは,このままでは仕事しかなくなる,という危機感である。

職場や会社での地位が本人の価値を証明していた時代は「仕事=自分」でも構わなかったのだろうが,現在は状況が大きく異なる [注58]。


こういった仕事だけになることへの危機感については,食品メーカーに勤めるレナさんも語っていた。

就業前に時間を取ってもらい,川辺でお話を伺う。
ちょうどその時,雲間から晴れ間がのぞいた。

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写真 朝7時台の景色である。(2016年11月29日筆者撮影)


その日のように就業前に時間を取らなければ,一日中事務所か電車の中で過ごすことになり,太陽に当たる時間がないとレナさんは話していた。
また,近所には綺麗な場所も多いが,行く時間がないと不満を零す。

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写真 貴重な出社前の時間。ここでもお茶が存在することは必然に感じられた。(2016年11月29日筆者撮影)


自分で時間を捻出しなければ,自分を満たす時間がないというレナさんの主張も,大輔さんと一致している。

レナさんのいう「太陽を見る」ことや「美しい場所に行く」こと,大輔さんのいう「感性を磨く」ことを例に挙げたが,これらは自己実現や社会的な欲求などと比べると,もう少し手前の欲求であるだろう。

その欲求を満たすために各自仕事以外の時間で工夫をしていた。


「人生」ー「会社の時間」=「自分の時間」

数年前まで設計事務所に勤めていた翔太さんも,「朝から晩まで会社の時間」だったと会社員時代を振り返る。

「自分の時間っていつかっていうと,土曜日とか日曜日とか,週2しかない」と話していた。

会社で働いている時間は,「自分の時間」に計上されない
ようだ。



会社員だった当時の思い出は,そのまま退職理由に繋がっている。

通勤ラッシュ時や帰宅時の電車内で,周りの会社員も自分も「みんな疲れて」いて「生きてる気がしない」と感じたこと。

そして,それ以上会社にいたら駄目になると思ったこと。


朝から晩まで会社で働く人々を,生け簀で養殖されている魚に例え,「自分の人生を生きてないような人達」と形容してもいた。

 
「自分の人生」を生きるということ

ある会社でデザイン関連業務に従事し,数年前に退社した達也さんも,「自分の人生」を生きるということに関して,似た言い回しをしている。

他の「茶道団体」を意識するかどうかを話していた時,「人に使ってる時間ない。(他人に)関心持って見てたら,人の人生も生きなきゃいけない」と達也さんは語っていた。


翔太さんと達也さんに共通しているのは,以下の2点だ。

他人や会社などのために時間を使うことを忌避している点と,会社勤めを経て独立したという点である。

90年代に登場した「自分らしい仕事」という言説([注58参照])が,仕事の中に自分のアイデンティティを見出すことを指していると仮定しよう。

「自分の人生を生きること」に重点を置く二人が脱サラしたのは,会社の外にアイデンティティを見出した(見出そうとした)からだといえる。

言うなれば,会社の中に「自分の人生」はなかったということだ [注59]。



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[注58] 朝日新聞上の「会社人」を巡る言説研究〔前田 2005〕によれば,会社という共同体の規範と上司に従う人こそ「理想の」労働者像であったのは,1960年代から80年代後半までである。90年代半ばからは,自分のセンスとスタイルを持ち,自立と自己責任を重視する人が求められるようになった。こうした「自分のセンスとスタイル」の表れた「自分らしい仕事」という言説は,90年代に登場して以来,2000年代でも残っている。
[注59] 例えば西村が提示したのは,フォイエルバッハやゲオルク・イェリネク,オットー・レーネルなどの法学者が,副業である文筆活動において,本来の自己を表現するという構図であった〔1998: 10-11〕。
古典語の試験を通過し,官僚という資格として社会的に通用する教養を持つ人々も,なお教養を自覚的に志向する芸術活動に従事していた点を,ここで強調しておきたい。すなわち,自己表現は法律家や官僚にとっての「文筆活動と同様,生計を立てるための本職とは別の場で,つまり余暇に実践されていた。(中略)現在の我々の生活からすれば,仕事と趣味という形態を取っている」〔宮本 2006: 76〕のである。
ただし,主要なインフォーマントの場合,時に「お茶」が「趣味」の域を超えている。

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