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4.3.1. 解釈 (1) 「伝統」は超えるためにある

教授内容を超える

茶道の何がまずもって「伝統」的であるかと言うと,多少の変更を含みながら現代まで受け継がれた教授内容や,流派の祖が定めた内容を弟子へと伝えるシステムそのものが挙げられる。

すなわち茶道修練者は,茶道を「伝統」たらしめる上記のような要素を認めて,それらを習得するべく茶道教室に入門した人々だと考えられる。


しかし「茶道団体」の代表者においては,点前作法の習得だけが茶道を習う目的なのではない
師匠からの教えも,教室内で積む修練も,自身の催す茶会へと反映される。

そしてその茶会が,流派内の教え以上/以外の内容を含むのが「茶道団体」なのである。


「利休にできたことはできる」

翔太さんは,同じ人間として,千利休にできたことは自分たちもできると考えていた。
話を伺うと,400年前に亡くなった千利休も昨日亡くなった人も,長い目で見ると大差はないという認識だった。


ただし,千利休と自分に大差はないという発言は,先人を軽んじる文脈で登場したのではない。

利休さんがあんな面白いことしてたら,焦らないですか?今の自分に何ができるかって言ったら,色々できない」と述べていたように,むしろ先人ほど自分たちが優れていないという含意がある。


「伝統」に石を積む

加えて翔太さんは,その千利休が「一生かけて,色んな失敗を繰り返して得た知識,知恵」を学ぶことで,自分たち(後進)が同じ失敗を繰り返すことなく「さらに石を積める」と語る。

つまり,先人の功績の上に自分の足跡を残すことが「伝統」だと考えていた。

彼にとって「伝統」とは,追い求める対象ではなく,自分の石を積み上げるための土台なのである。


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