見出し画像

4.5.2. 「茶道団体」と流派の「役割分担」

この項では,多くのインフォーマントの口から聞かれた「役割分担」という観点に絞って掘り下げたい。

前節までで概観してきたように,「茶道団体」と流派は,最終的な目的が異なっており(4.5.1.参照)茶会の形式も異なっているように見える。

しかしその二者は決して,反発し合いながら同時代に存在している訳ではない

「茶道団体」の思う流派の役割

大輔さんは,家元筋が奇抜な格好で茶道をしたら人々から非難を受けるため,それは家元や流派側がすべきことではないと語る。

日本の文化を「良い形で残すため」に,「いい意味で家元には威厳があってもらった方がいいわけですよ。僕ら(「茶道団体」)も」と論を展開した。

「茶道団体」は初心者でも参加しやすい茶会を催しているが,大輔さん本人は,茶道修練者全員がカジュアルな「お茶」をすることは勧めてはいない [注43]。

到達点として理想なのは,カジュアルな「お茶」ではなく,フォーマルな「茶道」であると考えているようだ。



「茶道団体」の限界?

続けて大輔さんは,「茶道」に将来性があることや,修練を積むほどさらなる到達点が現れることを示せるのは,「(流派の)上の方の人」だけだと主張する。
この語りは,「茶道団体」ではそれが示せないということを示唆してもいる。

「茶道団体」の「お茶」に,ある種の限界があるということだ。


その具体例として,茶道の教えの一つである「守破離 [注44]」を例に出したインフォーマントがいる。
「(守破離を)意識的にできてる人はいない」と,他の「茶道団体」や茶道修練者に言及していた [注45]。

とりわけ,エンターテイメント性に偏った「お茶」は「破」で留まってしまい,客に「面白そう」と思わせるとこまでで終わってしまうと批判的に評価していた。


不得手に応じた「住み分け」

ただし,守破離を意識するかどうかは各「茶道団体」の方針次第である。
団体の限界というよりは,得意分野の違いと換言可能だ。
インフォーマントの言うところの,「住み分け [注46]」という言葉の方が相応しいだろう。

すなわち,流派とインフォーマントにおける「役割分担」という概念は,「茶道団体」と流派だけでなく「茶道団体」同士でも存在するといってよい。

こうした役割分担の骨子は,以下の達也さんの発言に集約されうる。

相手を尊重しないと,されない。
結局は自分を守るためなんですけどね。
受け入れないと受け入れられない。


*****
[注43] 従来の茶道の方を好んでいるという語りは,「茶道団体」の人々から頻繁に聞かれた。大輔さんは「僕はフォーマルなお茶大好きですけど」と語り,レナさんが「(自分のお茶は)オーソドックスで堅苦しい。面白くない方が,一番好き(笑)面白さとかアイデアとかはなくてもいいと思う」と話していた内容と重なる。自分たち「茶道団体」の活動に代表される実験的な茶会だけでなく,フォーマルな「お茶」も両方好きと解釈してよいだろう。
[注44] 「芸の世界においてわざの習得過程を守りて破りて離れる,との算段で見ることを表現した」〔山口 2008: 29〕用語であり,この思想の先駆けである茶人の川上不白は「守破離と申三字ハ軍法ノ習ニ在り 守ハマモル破はヤブル離ハはなるゝと申候弟子ニ教ルハ此守と申所計也 弟子守ヲ習尽し能成候ヘハ自然と自身よりヤブル」〔川上 1774=1979: 164〕ことと記している。
[注45] 当然,守破離を意識するべきだという前提を,全「茶道団体」が共有している訳ではない。守破離を意識的にできているか否かというのも,そのインフォーマントが設けた基準であって,「茶道団体」全体を貫く観点ではないことを付記しておく。
[注46] 他の「茶道団体」の代表に対し「それがいいか悪いか,あの対人能力はすごいな。僕はああいうことは絶対できない」と言及したインフォーマントがいた。自ら話しかけて茶会に呼ぶスタイルなどは,言及された本人の社交的な気質によるものであり,個人の個性が集客の段階から表れているのだ。
そのインフォーマントは「だからこそある程度住み分けがされてる」と言葉を続けた。「茶道団体」の本拠地が首都圏と京都に固まっていても,各人の活動が干渉し合わないのは,この住み分けによるものだと考えられる。

*****
←前の項目 4.5.1. 「茶道団体」の目的

修論目次

→次の項目 4.5.3. 茶道史における「茶道団体」
*****

初めまして、Teaist(ティーイスト)です。 noteまたはSNSのフォローをしていただけると嬉しいです🍵 Instagram https://www.instagram.com/teaist12/ Twitter https://twitter.com/amnjrn