見出し画像

「アイアムアファーザー」第23話:親父の遺言

 婆ちゃんがこの世を去ってから9日後、新太郎は3歳になった。

 僕たちは、家族4人でささやかな誕生会をした。彼女が作ったケーキに、新太郎が大好きな桃の缶詰とチョコレートチューブを使ってアンパンマンの絵を描いた。こんなこともできるようになったんだなあと感動しながらケーキを食べていると、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。浜松に住む叔母からバースデープレゼントが届いたのだ。おもちゃと一緒に「しんたろうくん おたんじょうびおめでとう じいじ、ばあば、おばちゃんより」と書かれたバースデーカードが入っていた。

 新太郎には、天国のじいじとばあばが死ぬ前に新太郎の誕生日プレゼントを買うお金を残していったから、おばちゃんがそのお金でプレゼントを買って送ってくれたのだと伝えた。新太郎は窓を開けて上を向き、「Ji-Ji, Ba-Ba thank you for present!  (じいじ、ばあば、プレゼントありがとう!)」と夜空に向かって叫んだ。

 婆ちゃんが死んでから、僕は毎日これからどうしようかと考えていた。ずっと思い描いていた家族の絆を大切にした生活。僕と彼女と子どもたちがいて、親父や婆ちゃんも近くにいていつでも会える生活。そのために浜松に行こうと考えていた矢先の相次ぐ訃報。浜松には友達もたくさんいるけど、それだけでは長く住んでいる東京を離れる理由にはならない。それに友達なら東京にもたくさんいる。このまま東京にいて中古CD屋をやっていればいいのだろうか。それが僕にとって一番幸せな選択なのだろうか。中古CD屋のテナントの契約が9月末で切れる。更新しない場合は2ヵ月前に言わないといけない。

 そのとき、ふと数年前に親父に言われたことを思い出した。

―――――――――

 当時の親父は既に静脈瘤破裂で入退院を繰り返していた。この時は退院直後、しかも半ば無理矢理脱出してきた状況だったので、親父の容体はかなり不安定だった。近所に住んでいる叔母が出張することになり、何かが起こっても何もできないので僕に一晩だけ泊まって酒を飲まないように見張っていてくれないかと頼まれ、僕は親父のアパートに泊まった。

 これまでも仕事帰りに親父のアパートに寄って、親父が作った料理をつつきながら酒を飲んで帰ることは多々あったが、二人とも素面でいることも隣で寝て一晩過ごすことも初めてだった。

 お互いにいつもと違う空気に戸惑う中、親父が「映画でも見るか」と言ってスカパーの映画チャンネルを付けた。ニコラス・ケイジがカーチェイスをしている映像が流れていたのだが、少しもストーリーが頭に入ってこない。

 そして親父が沈黙を破った。

「お前本当にやりたいことはないのか?」

 僕はオーストラリア留学から帰って来たあと、少しだけサッカー選手を目指していた時期があった。でもそれは今考えるとさほど本気でもなく、サッカー選手を目指していると言っておけばとりあえず恰好がつくという程度のものだった。覚悟が足りなかった。

 本当に必死でサッカー選手を目指している人たちを沢山見て「ああ、俺はこんなにサッカーに真剣にはなれない」と悟り、サッカーを止めて英語とコンピューターの学校に通い始めた。そのうちどこかの会社に就職して金を貯めて独立するつもりだった。

 学校に通い始めて3ヵ月位経った頃、浜松の親戚から長年地元でやっている中古CD屋の支店を東京に出したいのだが、誰も東京に行きたがらないのでやってみないかと打診があった。どうせいつか自分で何かをしたかったので喜んで引き受けた。

 バイトを辞め、浜松に行って2ヵ月間研修をしたのち、東京で物件を探して、金がないので壁紙も自分で貼り替え、カウンターも自分で作り、ショーケースはリサイクル屋でボロボロのを見つけてタダ同然で譲ってもらい磨いて補強をして使った。浜松からはCD棚とセール用のCD1000枚ほどが送られてきた。とりあえずこれを元手になんとかしろということらしい。

 開店後2ヵ月間はほとんど客も来ることなく、どうすれば客が入るのか考えながら一人ポツンと店に座っていた。売り上げは月15000円ほどだった。仮に300円から700円のCDを千枚売ったところで、50万円くらいにしかならない。かといって売りに来てくれる客も全く来ない。とにかく一度行ってみたくなる店にするしかないと考えながらセールCDの棚を引っ張り出しながらCDを眺めていたら、手に取ったCDの伝票に『廃盤 500円』と書いてあった。廃盤てなんだ?

 調べてみると廃盤とは製造中止になったもののことらしい。てことは、廃盤のCDはもう新品で買うことは難しいということか。その時、画期的なアイデアを思いついた。

 僕は店にあるCD千枚全てが廃盤かどうかをカタログで調べて、廃盤は全て定価に値段を変更した。300円で売っていたものを3000円に変更したのだ。調べてみると廃盤のCDは結構あった。それらをまとめて廃盤コーナーを作った。店の入り口には「廃盤CDあります!」と大きく貼り出した。その日から客が入りだした。

 不思議なもので、これまで誰も見向きもしなかったCDが、廃盤と書いて値段を上げたら次々に売れていく。でも廃盤の中にも売れるものと売れないものがありそうだった。だけど音楽もあまり聴かずに、商売も初めてな僕には目利きなんてできない。そこで委託システムを思いついた。客が売りたいものを持ってきて、好きな値段を付けて僕が店で売る。売れたら手数料をもらうというシステムだ。これが大当たりした。

 当時大ブームだったヴィジュアル系ファンの少年が委託で売れ筋アイテムを大量に出品してくれたのも大きかった。その少年は音楽のことを全く知らない僕をバカにしながらも来るたびに音楽について教えてくれた。それが呼び水となり沢山のレアアイテムが持ち込まれた。僕の店は、半年もしない間に『レアものが集まる人気中古CDショップ』になっていた。

 その後は、3年間で3店舗に増やし、従業員も最大8人雇うようになり、テレビや雑誌の取材も頻繁にくるようになった。早い段階でホームページを作ってネット販売を始めたのも良かったのだと思う。英語版ホームページも作ったら海外からの注文も入るようになり、『外国人オタクが集まる店』としても知られるようになった。そして外国人客がなぜ日本の音楽やアニメを愛しているのかをまとめた『イタリア人は日本のアイドルが好き』という本を出版した。

 順調に行っているかのように見えた経営も、音楽ダウンロードの登場、オークションやアマゾンなど、素人が販売できるシステムが生まれたことで競合が増え一転した。インターネットで全国どこからでも注文できるようになり、店舗数を増やすメリットがあまりなくなった。1店舗のみに戻し、スタッフを僕1人に戻して2年が過ぎていた。この先、この商売は伸びていかないだろうと思っていた...


「やりたいことねえ。特にこれっていうのはないけど、CDを売ることが天職だとは思ってない」僕はそう答えた。

「お前は何でもそれなりにできちゃうから煮え切らないんだ。器用貧乏なんだよ。自分にしかできないことを見つけてやってみろよ。店のことはおばちゃん達に任せておけばなんとかなるから、お前は自分が本当にやりたいことを見つけろ。お前は今まで十分家族のために頑張って来た。もう自分のために生きろ。お前また本書くのはどうだ? 私小説でも書くなら俺の事はどう書いても良いからな。最高の悪役だ」そう言って親父は布団をかぶった。

 親父に生き方について真剣に言われたのは初めてだった。僕は「考えとくわ」と言うのが精一杯だった。

―――――――――

 あの時の親父の言葉が、頭の中を何度も過る。

 自分にしかできないこと、やってやろうじゃないの、そんな気になっていた。

第24話:https://note.com/teachermasa/n/naaa65102edb5

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

Thank you for reading^^ 気に入ってもらえたらSNS等でシェアしていただけると嬉しいです♬ これからも英語教育に限らず日本の子供達が楽しく日々過ごして世界に羽ばたける環境づくりに全力で取り組んでいきますので、応援よろしくお願いしますm(__)m