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「アイアムアファーザー」最終話:アイアムアファーザー

 一人旅なんて何年ぶりだろうか。

 2012年夏、僕たち家族は東京に遊びに行った。僕が1999年から代表をしている草サッカーチームの合宿に参加したり、甲府の友達家族に会いに行ったり、夏を満喫した。

 世間は連日行われているロンドンオリンピックの話題で持ち切りだ。北京オリンピックからもう4年も経ったのか。どうりで新太郎は来年から小学生だし、由莉杏も英語を流暢にしゃべるわけだ。

 そして今、僕は明後日から仕事を再開するために一人新幹線に乗っている。彼女と子どもたちはもうしばらく東京で遊んでくるらしい。

 僕は2010年12月に広島でMMSJ英会話スクールという子ども英会話スクールを始めた。M(正彦)、M(麻衣子)、S(新太郎)、J(由莉杏)、僕たち家族4人のイニシャルが入ったこの学校で、僕が子どもたちにしてきたように、英語を遊び道具にしながら楽しく学んでもらっている。その年の6月に僕が出版した『子どもがバイリンガルになる英語子育てマニュアル』の読者が最初の生徒さんだった。

 2011年4月には英語サッカースクールも始めた。英会話スクールも英語サッカーもどちらも軌道に乗って、子ども英語教育の月刊誌にコラムも連載している。そして来年春には大人向けの英会話の本の出版が決まっていた。

 広島に来てから、人生が劇的に変わっている。親父や婆ちゃんと家族をやり直したいと思っていたしがらみを捨て、自分の意思で自分の人生に責任を持って歩き出したことで物事が好転していると感じていた。そう考えると、あのタイミングで舞台から退場していった親父と婆ちゃんが僕をここまで導いてくれたのではないかと思う。

 思えばこれまでに本当に色々なことがあった。子どものころ、親父はアル中でいつ何をするかわからない不発弾のように常に僕を不安にさせた。そこから逃げるように僕は学校に通った。そして学校に行ったら行ったでまた色々なことがあった。振り返ればそのほとんどは身から出たサビ、自業自得だったのだと思うが、あのころの僕にはまだそれがわからなかった。

 そんな僕にも何人か友達がいた。これから名古屋で降りて、7歳のころからの親友と3年ぶりに会うことになっている。そいつとは小学校のときからよく遊んで、僕がオーストラリアに留学しているときにも会いに来てくれた。高校卒業後は2人とも東京で働き始め、そいつが福岡に行ってしまう20代半ばまでは、毎週のように酒を飲んだ。もしかしたら僕の人生に何が起こったのか、一番知っているのはこいつじゃないかと思う。

 名古屋駅のロータリーの前で待ち合わせをして、そのまま親友の車に乗り込んで名古屋城に観光に行ったあと、木曽川のライン下りに連れて行ってもらった。車を置いて、船のあるところまで30分間のシャトルバスでの移動中、僕たちはお互いにこの3年間に何があったのかを語り合っていた。そのとき、外の景色が突然見たことのある景色になった。頭の中に何かがフラッシュバックしている。

 3歳くらいのころに見た景色、そうだ、親父の生まれ故郷だ。

「多分俺ここに来たことあるわ。親父の実家に3歳くらいのときに親父と来た」
「マジで!地名は覚えてる?」
「えっと、岐阜のなんだっけ?坂祝とかいうところだったかな」

 そのとき道路標識の地名が目に入った。坂祝町と書いてある。

「ビンゴ!」

 偶然にも親父の生まれ故郷に30数年ぶりに戻ってきたのだ。そしてこれはあとで知ることになるのだが、この木曽川ライン下りはこの年を持って休止になった。つまり翌年名古屋に来ても、ここに来ることは無かったということだ。これには運命を感じざるを得なかった。

「親父と2人でこの川沿いを手を繋いで歩いたんだ。あそこに岩が色々見えるでしょ。あれがライオン岩とか、サル岩とか名前が付いていて、親父が子どものころによくあの辺りで泳いだって話してくれた」

「きっと親父さんが呼んだんだよ」親友は僕のために泣いてくれた。僕のことを一番よく知っている友達と、親父の生まれ故郷に来ていることを幸せに思った。

 バスが遊船乗り場に到着して、僕たちは他の客と一緒に船に乗り込み、木曽川ライン下りが始まった。船に揺られながら僕は親父と過ごした日々を思い出していた。僕が3歳の頃は、親父は僕を岐阜まで連れてきてくれてたんだなあ。じゃあいつから親父は僕と遊んでくれなくなったんだろう…

 いや、そうじゃない。親父が遊ぶのを止めたのではない、僕が親父と出かけるのを拒んだのだ。

 親父は僕がやりたい遊びをしてくれることは無かったが、いつも自分の行くオートレース場やパチンコ屋、飲み屋に僕を連れて行くのが好きだった。僕が物心つく前は無邪気についていったのだが、自我が出てきた4歳くらいから、僕は親父と出かけるのを嫌がった。自分が好きなことはできない上に、親父が酔っぱらって誰かに絡んだりするのを見たくなかったからだ。そして、そのころを境に親父は家で暴れるようになった。

 僕も親になったからわかる。子どもに一緒に出掛けたくないと嫌われたら、どれだけ辛いのかが。

 親父がもし僕が嫌がることをしなければ僕の態度も変わっていたと思うし、親父のしたことは決して許されることではない。でも、親父が僕のことをずっと愛していたことを僕は親父の故郷を流れる川の上で知った。親父はずっと僕を愛していた。でも僕は親父を嫌い続けていた。

 母が亡くなったあと、僕は少しずつ親父と歩み寄っていき、18くらいからは友達のような関係になった。そのことが親父にとってどれだけ嬉しかったのか、今の僕ならわかる。心が弱く酒に逃げて上手に生きられなかった親父だけど、たった一人の子どもである僕と最終的に心を通わせることができて幸せだったと思う。

「間もなく、左手にライオン岩が見えてまいります」

案内のアナウンスが流れた。船はかつて僕と親父が手を繋いで歩いた辺りを通り過ぎようとしている。

僕が陸地の方に目を向けると、そこに3歳の僕と今の僕より少しだけ若い親父が手を繋いで歩いていた。

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 ねえ、父さん。前に、お前は何になりたいんだって聞いたよね。なんとなく見えてきたけど、まだ本当になりたいものは見つかってないよ。でもね、僕は二人の子の父親になったんだ。だからね、お前はなんだって聞かれたら、とりあえずこう言うよ。アイアムアファーザーって。


「アイアムアファーザートゥー…なんつってな。 じゃあな正彦」

父さんが軽く右手を挙げた。(終)

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