「アイアムアファーザー」第18話：運命という名の船に乗って 後編

　親父が危篤状態に陥ったと、叔母から電話があったのは12月26日の早朝だった。

　前日のクリスマスの夜、僕は草サッカーのチームメイト二人と居酒屋で飲んでいた。1999年に僕が中学の同級生と作った草サッカーチームで、ほとんどのメンバーをインターネット上で募集して集めた、年齢も職業もバラバラのチームだ。そこから始めてもう10年、今ではすっかり親友になった。気の合う仲間とのお酒は楽しい。浴びるほど飲んで家に帰ったのは午前3時前だったと思う。

「死んだら連絡して」

　そう言って僕は電話を切った。そこから再び眠りにつくまでの間、数秒だったのか数分だったのかわからないが、酒に呑まれてさんざん人に迷惑をかけ死んでいく男の息子が泥酔していて親父の死に目に会えなかったというのは、皮肉で面白いと思ったこと、病気の体に鞭打って一生懸命僕のために働いてくれた母の死に目に会えなかったのに、そんな母に辛い思いをさせていた親父が死に際に息子に来てもらえるのは不公平だと思ったこと、半年ほど前から何を言っても無気力な返事しか返ってこなくて、その時点で「親父はもう死んでいるんだ」と彼女に話して泣いたことを思い出し、その時に別れは終っていると思ったこと、そして、父親の死に目に会えたかもしれないのに、会わない選択をした冷たい息子である僕のことを考えている間に眠りに落ちた。

　数時間後、叔母から親父が死んだという連絡があった。僕は店を開けて一通りの仕事をして、午後6時に店を閉めて親父の所へ向かった。とうとう本当に死んでしまったという気持ちと、やっと死んでくれたという気持ちが頭をぐるぐる回っていた。

　僕がまだ赤ん坊の頃、僕の家では親父が毎晩のように友達を呼んでマージャンをしていた。タバコの煙と酒の臭いの中僕は育てられた。僕が幼稚園児のころには、酔っぱらった親父が母が作った料理が気に食わないと「こんな不味いもの食えるか」と言って台所に立つ母に向かって皿を投げつけた。僕は母の前に立ち「やめろーっ」と両手を広げて立っている間に小学生になった。

　僕が小学4年生の時には、泥酔して家の階段から転げ落ちて玄関の戸にぶつかり、ガラスが割れて血だらけになっていた。病院に行けと言う母に「今日は休みだから嫌だ」と言い残し、親父はオートレースに行き、翌日は仕事だったので休んで病院に行った。僕が学校から帰ると、親父が全身を固定させられて寝ていた。首の骨が折れていて、あと少しで死んでいたそうだ。僕は「気を付けないとダメだよ」と言いいながらも心の中で「惜しい！」と思った。10歳のころの僕は、親父を憎む気持ちと愛する気持ちがごちゃまぜになった状態だった。

　親父は家族だけでなく家の外でも迷惑をかけまくった。飲酒運転をしてハンドルが上手くきれずに自衛隊の門に突っ込んで車は炎上、テロだと勘違いされたこともある。

　ほかにも挙げればキリがないほど、とんでもなくどうしようもない、こんな最低な父親だったのだが、母は「お父さんを嫌いにならないでね」といつも僕に言っていた。

　僕がオーストラリアに留学してすぐに母が亡くなった。これで親父との縁も切れると思ったのだが、母が生前常々言っていた「お父さんを嫌いにならないでね」という言葉が引っかかった。なぜ母はそんなことを言ったのだろうか。その答えを探したいと思っている自分がいることに気が付いた。その答えが見つかれば僕自身が救われるんじゃないかと希望を持った。その頃、親父の酒癖は昔よりは多少マシになり、酔って暴れたりすることはなくなっていた。僕は親父のことを好きになろうと努力をすることにした。
それからの僕は、オーストラリアから帰るたびに親父と一緒に酒を飲んだりした。いきつけの寿司屋やクラブに僕を連れて行き、僕を自慢する親父はとても嬉しそうだった。こうして一緒に飲むようになると、親父の良さもわかるようになってきた。親父はよく気が利くし、根本的には優しい人だった。
　今にして思えば、母があそこまでされても「お父さんを嫌いにならないでね」と言い続けてきたのは、きっと僕に親を恨むことをさせたくなかったのと、親父にチャンスをあげたかったのだと思う。親父は晩年、僕と2人で酒を飲むと、時折「全部あいつのおかげだ」と母に感謝をしていた。僕がグレなかったのも、親父と最後はいい関係になれたのも全部お母さんのおかげだと思う。

　数年前に親父が血を吐いて救急車で病院に運ばれた。なんとか一命は取り留めたが、僕の顔を見てもヘラヘラ笑うだけの赤ん坊のような状態になってしまった。当然自分で食べることもトイレもできない。医者はもう元には絶対に戻らないのでと、介護施設を紹介してくれた。僕は納得が行かなかったので、自分でなんとかしようと毎日親父のところに見舞いに行って、僕が生まれる前の親父や母の写真や、僕が赤ん坊の頃からの写真を少しずつ見せて「これ覚えてる？お父さんとお母さんが僕を動物園に連れて行ってくれた写真だよ」などと説明をした。赤ちゃんになってしまったのなら、赤ちゃんからやり直せば記憶が戻ると思ったのだ。親父は「アー、ウー」と言いながら写真を見ていた。

　赤ん坊になった親父を見舞い続けること6日間、また僕が見舞いに行くと、親父はベッドの上で体を起こしていた。目が合った瞬間にこれまでの親父の目じゃないと思った。

「おお、正彦」

　親父の記憶は奇跡的に戻ったのだ。それまでの6日間、奇跡を信じて病院に通い続けた僕は、まともになった親父を見て「よかった」と思いつつも、「こんなやつを生き返らせてしまった」という思いもあり、僕の目からは涙が流れ、僕は親父の担当医のところに行って「親父の記憶が戻った。軽はずみに絶対とか二度と言うな」と捨て台詞を吐いた。

　それからは毎年1回くらい血を吐いて入院、数日経って少し元気になると病院を脱走という一連のゴタゴタがお約束のように繰り返された。親父の場合、酒のせいで肝硬変になり、本来肝臓に流れるべき血流が食道の静脈に流れることにより瘤状の膨らみができて、それが破裂して出血していたのだった。毎回呼ばれる度に「覚悟はしておいてください」と医者に言われ、その度にそれなりの覚悟を決めるものの、幸か不幸かなんとか一命を取り留め、挙句病院を脱走して家に戻ってくるのだ。

　親父の体のことを心配している僕の精神状態の方が先に変になりそうだった。実際、寿命が何年かは縮まったと思う。

　僕が斎場に着くと、既に叔父、叔母、祖母が来ていた。生前の親父の希望通りに、お通夜も葬式もせずに火葬だけすることにした。入院してからの親父は酒が抜けて、体は弱っていたけど、思考はできたようだった。叔母が看護婦さんから聞いた話では、死ぬまでの最後の数日間は毎日穏やかな顔で、新太郎と由莉杏の写真を一日中手に持って見ながら微笑んでいたのだと言う。その時僕は、彼女が親父に手紙を書いてくれていたことを知った。由莉杏という名前を付けてくれてありがとうという手紙と、新太郎が由莉杏を抱っこしている写真、新太郎が書いた家族の絵を送ってくれていたようだ。彼女が送ってくれた手紙と写真のおかげで親父は穏やかに最期を迎えられたと思う。

　その夜は、徹夜で最期の酒を親父と飲んで、翌日火葬場に行った。親父の体が燃やされている間、外に出てみると富士山が綺麗に見えた。雲ひとつ無い青空の下、日本一の富士山のふもとで煙になった親父。新太郎と由莉杏、2人の孫に名前を付けるのが親父の生まれた理由だったのかも知れない。
「迷惑かけたな。これからはお前の家族のことだけ考えろよ」天に昇る途中でこっちを見て、親父がそう言っている気がした。

第19話：https://note.com/teachermasa/n/n53065f3769ea