「アイアムアファーザー」第25話:十六年越しに届いた母の愛
7月下旬のある日、中野駅から東西線に乗って神楽坂で降り、僕は地図を片手に待ち合わせ場所のカレー屋へと向かっていた。これから17年ぶりに同級生と会うのだ。
彼とは小学校1年生で同じクラスになって以来の付き合いだ。出会った瞬間から妙に気が合って、毎週末のように彼の家に行っては、外で探検ごっこをしたり、ファミコンで遊んだりしていた。
ところが、小学校4年生のときに僕がサッカー少年団に入って以来、週末はサッカーをすることが多くなり、彼とはだんだんと遊ばなくなっていった。
僕たちは中学も同じだったがクラスは違った。僕はアウトドア派、彼はインドア派で付き合う友達も違っていて、廊下ですれ違うと挨拶するくらいの距離感になっていった。
そして中学2年のとき、彼は突然オーストラリアに留学してしまった。
僕も中学卒業後オーストラリアに留学することになるのだが、僕がオーストラリアに行くのと入れ違いで、彼はイギリスに渡ることになる。
そこで交差した僕たちの人生は、その後も再び相まみえることもなく気が付けば32歳になっていた。
そんな彼から突然の電話があったのは一昨日の夜だった。普段なら知らない番号からかかってきた電話には出ないのに、なぜだか出たら彼からだった。中学の同級生伝いで僕の携帯番号を聞いてかけてきたらしい。「久しぶりに会おうよ」そう言われて断る理由は全く無かった。
一足先にカレー屋に着いていた彼は昔と変わらない笑顔で僕を迎えてくれた。ただ、体格は見違えるように大きくなっていた。昔は僕の方が背が高かったのだが、このときの彼は180センチを優に越えていた。
「すげえデカくなったなあ。やっぱ外国だと食べ物が違うのかな」
「自分だってオーストラリアに行ってたじゃん」
「ああ、そっか」
久しぶりなのに、ずっと会ってきていたような錯覚を覚えるくらいスムーズに僕たちの再会は始まった。
インドカレーを食べながら、僕たちはお互いの空白の17年間に何があったのかを語り合った。お互いに年は取ったけど、本質的な部分では彼は変わっていなくて、僕はやっぱり彼のことを良いヤツだと思った。
食事のあと、一緒に神楽坂駅まで歩きながら、少しだけお酒を飲もうということになり駅前のバーに入った。少し薄暗いバーの2人席に向かい合って座って乾杯をした直後、彼が語りだした。
「実は今回、どうしてもキミに伝えたいことがあって来たんだ」
それは僕の母の話だった。
僕の母は元々身体があまり丈夫ではなく、僕を妊娠した際に、出産と引き換えに死んでしまうか、身体に相当なダメージを受ける可能性があると医者に言われたらしい。母はそれでも僕を産んでくれて、そして腎臓病になった。
以降、母は週3回病院に通って、毎回腕に針を刺して、そこからチューブを通して機械で5時間程かけて血液を綺麗にする人工透析をしなければならなくなった。食事制限も厳しく、大好きなメロンも月に一度わずかな量しか食べられなくなった。
人工透析の副作用として、肌の色が黒くなり、顔がむくんでしまう。美人だった母の容姿が徐々に変わっていき、いつも悲しそうに鏡を見ている母を見るのは辛かった。
そんな中、僕の親父は毎日飲み歩き、家に帰れば帰ったで酔って暴れて母を悲しませた。精神的にも肉体的にも辛かっただろうに、僕にはいつも優しい母だった。
僕が5歳くらいのときに、母のためにとアイス数種類を混ぜて、砂糖やバターなどを足した超甘ったるい食べ物を作ってあげたことがあった。それを母は喜んで全部食べてくれた。そのあとの食事制限は普段の数倍大変だったハズだ。
やがて僕の成長と共に色々とお金がかかるようになり、親父の付き合いでやらされていたがいつの間にか親父より遥かに強くなった麻雀という特技を活かして母は雀荘経営を始めた。パートに出るのではなく雀荘経営というのが母らしいが、一銭も家にお金を入れない親父の代わりに僕を育てるために必死だったのだろう。
僕が小学5年生のときに母の雀荘に遊びに行った。チンピラ連中に因縁を付けられて、その辺の物を蹴散らして壊す彼らに花瓶を投げつけて追い出した母を見た。そのとき、「お前の母さんは腹が据わっていて怒ったら本当に怖い」と親父が昔から言っていたのは本当だったと知った。
僕がオーストラリア留学に旅立つ朝、近所の友達が迎えに来てくれて、一緒に新幹線の駅まで行ってくれた。駅には同じ中学を卒業した友達が20人くらい来てくれた。母も新幹線の駅まで行きたがったのだが、
「今生の別れじゃないし、いってきますと言って普通に家を出て、またただいまと普通に帰ってくるからここでいいよ」
と僕は言って、母を残して家を出た。そして、それが結果的に最後の別れになってしまった。
僕がオーストラリアに留学して2ヵ月ほど経った、6月30日に母は43歳の短い人生に幕を閉じた。婆ちゃんから母危篤の連絡を受けた僕は、オーストラリアの伯母と一緒に日本に向かったけど間に合わず、途中乗り換えのシドニーで母の命が燃え尽きたことを知った。
「もしかして、キミのお母さんに最後に会ったのはご家族以外では僕かも知れないんだ…」
目の前で今日17年ぶりに会った友達が話し出した。
母が亡くなる前日の昼過ぎに、彼は彼のお母さんと一緒に僕の実家を訪れたそうだ。留学先のオーストラリアから一時帰国中の彼は、人伝いに僕がオーストラリアに留学したことを聞いて、挨拶に来てくれた。
母とは、小学校低学年のころ、いつも一緒に遊んでいたねという思い出話をして、彼のオーストラリアでの連絡先を置いていったそうだ。
彼が僕の家を出るときに、僕の母は、彼を呼び止めて、「正彦とこれからも仲良くしてあげてね」と言ったらしい。
「ハイって返事しちゃったんだけど、そのあとダメ元で受けていたイギリスへの編入試験に受かってしまって、僕はそのままイギリスに行ったから、キミとは会えず仕舞いで… それから何年か経って、あの次の日にキミのお母さんが突然亡くなったと知って、僕はキミのお母さんとの約束を破ったままにしてしまったことが申し訳なくて、ずっと会わせる顔がないと思っていたんだ。だけど、自分が親になってみて、少しはキミのお母さんの気持ちが理解できるようになった気がして、このことをキミに話すことがキミのお母さんとの約束を果たすことになるんじゃないかと思って…ごめん」
彼は泣いていた。
「全然謝ることじゃないよ。むしろ、俺が知らない最後の母さんの話を聞かせてくれてありがとう。もう二度と会えないと思っていたのに、最後にもう一度母さんに抱きしめてもらったような気分だよ。これからも仲良くしよう」
僕がそう言うと、しばらくの沈黙のあと、「今日久しぶりに会って、もしかしてキミが間違った方向に進んでいたらどうしようとか思っていたけど、相変わらず真っ直ぐに生きていて良かった。キミはお母さんと同じ目をしているよ。あのときのキミのお母さんと同じ、綺麗で真っ直ぐな目をしている」と彼は微笑んだ。
帰りの電車の中、これからは自分の心に逆らわず、母のように真っ直ぐ生きようと思い僕はある決意をした。
よし、広島に引っ越そう。
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