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聖徳太子になった友人が私に遺した言葉

 
さかのぼること約40年前、時は1980年代。
山と川しかないような私の地元では、ほぼ全員が中学に入って初めて英語に触れる。ただ、高校を卒業したら田舎で就職し、田舎で人生を謳歌する友人がほとんどなので、必要以上に勉強を頑張る友人はそれほど多くなかった。
 
なので、授業ではかなりの頻度で「珍回答」が飛び出す。
 
ただ、その日の珍回答を私は40年近く経った今も忘れられない。なぜならその日、友人が聖徳太子になったからだ。
 
それは、あの日の英語の授業───
 
どんな問題だったのかは覚えていないが、友人の佐藤(仮名)は英語の先生に質問され、しばし悩んだ挙句、こう答えた。
 
「I am ear(私は耳です)」
 
すると、先生は真顔で答えた。
「・・・佐藤君、君は耳なのか?」
 
すると佐藤も真顔でちょっとキレ気味にこう答えた。
「違います」
 
絶望的に英語が苦手な佐藤は、自分がどんな間違いをし、何を言っているのかわかっていない。
 
意味を理解しているクラスメイトは肩を震わせクスクス笑っているが、佐藤と同様に英語が苦手なクラスメイトは、何で笑っているのかわからない───カオスである。
 
「君は耳なのか?」
「違います」

お互い真顔で、しかも佐藤は切れ気味に、いったい何を言っているのだろう。シュールにもほどがある。
 
勉強ができる人は理解しにくいかもしれないが、勉強が苦手な人にとってわからないものを「わからない」と答えてはいけない場合、苦しまぎれにトンチンカンな回答をせざるを得ない場合がある。
 
佐藤も本当は「わかりません」と答えたかったはずだ。考えてもわからないから「わかりません」と答えようとしているのに、英語の先生の「わからないなら考えなさい」というよくわからない理屈によって「わかりません」という魔法の呪文を封印された佐藤は、破れかぶれに頭に浮かんだワードを繋げ、その結果「I am ear」に辿り着いたのである。
 
「I am ear」私は耳です───そんな答え、あるはずがない。
 
英語の授業が終わると、佐藤は一躍「時の人」となった。もちろん「耳人間」としてだが、中学生の柔らか頭というのは無限の可能性を秘めている。
 
「耳人間」はいつの間にか「聖徳太子」になっていた。
 
解説すると・・・
耳人間というのは、つまり耳ということである。全身が耳なら、どんなことも聞き取れてしまうことから命名されたのが「聖徳太子」である。
 
ただ───
「耳人間サトウ」改め「聖徳太子サトウ」は翌日には「ただの佐藤」に戻っていた。その頃は毎日毎授業ごとになにかしらの「珍回答」や「面白いこと」が起きていたため、時の人はまるで日替わり弁当かのように、目まぐるしく変わっていたからだ。
 
みんな毎日、違う味を求めていたのだろう。変化に乏しい田舎にいる中学生であるがゆえ、刺激に飢えていたのかもしれない。
 
 
しかし、私にはなぜかその「佐藤の乱」が鮮明に記憶に残り、愉快な記憶として私は「I am ear」を覚えた。
「私は耳です」
私にとって、かなりツボである。
 
 
ただ───
微笑ましく面白い思い出として、これが残っただけならよかったのだが、どういうわけか、その言葉は私の中のよからぬスイッチを押してしまったようだ。

大人になった私は、この言葉によっておかしな妄想に取り憑かれることになる。
 
それは居酒屋での出来事。
店員さんに向かって、お客がそれぞれ自分の飲みたいものを注文する。
 
「俺、ビール」
「私、ウーロン茶」

 
これを省略せず、きちんとした言葉で表すなら
「俺はビール(をお願いします)」
「私はウーロン茶(が飲みたいです)」

ということなのだが───
 
私はここで、あろうことか、それらの言葉に「I am ear」の構文を当てはめてしまうのだ。
 
つまり・・・
「俺、ビール」は「I am beer」
「私、ウーロン茶」は「I am oolong tea」
 
私にとって「俺、ビール」は「俺はビールという者です」に、「私、ウーロン茶」は「私、ウーロン茶なんです」になってしまうのだ。
 
「俺、ビール」と言っている人は何も悪くない。悪いのは、「俺、ビール」を勝手に「俺はビール人間です」と変換している私だ。ビールを注文したその人も、まさか私からビール人間扱いされているとは思ってもいないだろう。
 
 
ただ、そんな私の密かな妄想も、コロナの流行で居酒屋に行かなくなって以降は鳴りを潜めていたのだが、ある時、ついうっかりそのことを女友達の一人に話してしまった。
 
しまった!と思ったが、彼女はそんな私の妄想についてではなく「聖徳太子サトウ」の言葉が気になったようだ。
 
彼女は言った。
「それって正確にはI am an earアイアムアンニャーだね。いやI’m an earアイマンニャーか」
 
───えっ!?
私は耳を疑った。
今、なんて(言ったの)??
 
私は彼女に言った。
「もう一回言ってみて、I am・・・何だっけ?」
「アイアムアンニャー」
 
うっかり忘れていた。
彼女は帰国子女だった
 
まるでハープでも奏でたかのような、その流れるようなネイティブ発音。
 
「へー、そうなんだ」と言いつつ、私の脳内では別のことが思い浮かんでしまった。その時、私にはもう、「アイアムアンニャー」の最後の「ニャー」しか聞こえていなかった。
 
ニャーといえば猫、そう、彼女の「アイアムアンニャー」は私の中で「耳」ではなく、なぜか「猫」に変換されてしまったのだ。
 
頭ではわかっている。
「I am an ear」が私は耳です、だと。
 
しかし、私の心がニャーを求めている。私は猫です、と私に訴えている。彼女の発音があまりに流暢なばっかりに、もはやearは耳ではなくなってしまったのだ。
 
彼女の「私は耳です」はもう、私には「私は猫です」にしか聞こえない。

耳から猫になってしまった彼女。私は思わず彼女に懇願こんがんした。
 
「ね、もう一回言って」
「アイアムアンニャー」
「もう一回」
「アイアムアンニャー」
「略すと?」
「アイマンニャー」

 
───ヤバい、楽しい。楽しすぎる!
 
彼女は全く気づいていない。当たり前だ。誰がどう聞いたって「私は耳です」が「私は猫です」に聞こえるわけはないのだから。
 
あともう一回聞きたかったが、これ以上友人をネタに私だけが愉しむわけにはいかない。良心がとがめた私は、お詫びのしるしにゴハンをご馳走することを申し出た。
 
彼女には「英語を教えて貰ったお礼」だと言った。さすがにアイマンニャーを心の中で存分に愉しんだせめてものお詫び、とは言えない。
 
「アイマンニャーって訳しただけでおごってもらっていいの?」

───まさか、最後にまた聞かせてくれるなんて。いい人すぎる!
 
図らずも最後にまた「アイマンニャー」を聞かせてくれたのだから、私がオゴるのは当然である。
 
「けど、改めて考えるとアイマンニャーって面白いかも」
 
───いやいやいや、面白いのはあなたなのです。
 
心の声が飛び出さないよう、私はすぐにマスクをしてニヤケ顔を封印した。その日から、私の中で彼女のあだ名が「子猫ちゃん」になったことを彼女は知らない。
 
ちなみに、彼女は私がnoteをやっていることも知らない。知らぬが仏とはよく言ったものだ。だから私は今、こうしてこの記事を書いている。
 
ただ───
もし何かの間違いか神様のイタズラで彼女がこの記事を読んだとしたら・・・ややヒステリックな彼女のことだ。引っ掻かれる程度で済めばいいが、残念ながら彼女は本当は猫ではない。
 
この件は墓場まで持っていこうと思っている。

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