私がおすすめしたい記事 ~「許す」ことと「赦される」こと~
この記事を読んだとき、私はとても救われた気持ちになりました。「許すこと」について書かれた、とても興味深い記事です。
私はこの記事によって約40年前の出来事で刺さったままになっていた心の棘を抜くことができました。そして、今までずっとモヤモヤしていた「許すこと」に対する一つの答えを提示してもらえたことに感謝しています。
記事の冒頭でまねこさんは、こう問いかけます。
そして、まねこさんの息子さんのエピソードが語られます。
ここまでだと、お菓子を食べられたぐらいでそこまで怒る息子さんもちょっと・・・と思う方が多いかもしれません。
しかし、息子さんにとって、そのお菓子はただのお菓子ではなかったのです。特別な意味を持つそのお菓子とその顛末については記事で読んでいただくとして。
私には息子さんの気持ちが痛いほどよくわかりました。それは、子供の頃、私にもこんな経験があったからです───
小学6年生の時、夏休み中に作った私の「工作」が学校で賞に選ばれ、町役場で展示されることになりました。
地味でおとなしく、そして5年生までイジメられていたような私にとって、それは大変な名誉であり栄誉です。嬉しくてうれしくて、その日は走って家に帰り、すぐ両親に話しました。
町役場に展示される日が決まり、私は両親と展示されたその日に見に行きました。会場へ入ると、学年ごと、そして他の学校からの作品も並んでいました。
───あった!
自分が作った作品です。遠目からでもわかります。自分の作品を見つけ、嬉しくて私は走って駆け寄りました。
「早く、早く!」
歩いている両親がもどかしく、二人を私の作品の前に案内しました・・・が、そこで事件が起きました。
私の作品がそこにはありました。
しかし・・・その作品を作った生徒の名前は私の名前ではありませんでした。
そう。作品を出品した時に担任の先生が名前を間違えていたのです。しかも、その間違えていた名前というのが、私の地元のいわゆる名士の息子の名前であり、あろうことか5年生まで私をイジメていた首謀者のクラスメイトの名前だったのです───
大きなショックを受けました。と、同時に激しい怒りが私の中に湧き上がりました。
たまたまその頃、私のクラスでは担任の先生との連絡帳のようなものがあったので、私は怒りのままに担任の先生にその怒りをぶつけました。相当怒っていたために「バカ!」とか、かなり酷い言葉も使っていたと思います。
しかし、間違ったことをしたのは先生です。私は一ミリも間違っていない、そう思っての私なりの抗議であり、それを正義だと、子供だった私は信じていました。
連絡帳を出した翌日、先生からの返事が書かれた連絡帳が戻ってきました。そこには謝罪の言葉がありました。
「本当にごめんなさい」と。ただ───
その先にはこうありました。
「間違ってしまったことは先生が悪いです。ただ、普段から大人しいまるお君がこんなに怖い人だとは思いませんでした。これからは怖いところがあるということを踏まえて付き合っていかなければいけないと思いました」
そう書かれていました。
これを読んだ時、自分がとても悪いことをしたような罪悪感に囚われました。そして感覚的に「責められている」と感じました。
まねこさんの息子さんも、小学6年生だった私も、大人の過ちを許せず、怒りを相手にぶつけた結果、逆ギレされたようなものだと思います。
「お菓子を食べたぐらいで・・・」
「名前を間違えたぐらいで・・・」
大人たちにとっては「その程度」のことなのかもしれませんが、まねこさんの息子さんや、子供だった私にとっては、特別な思いの詰まったお菓子であり、絶対に間違えては欲しくない場面だったのです。
そんな子供の想いに対して、一ミリも慮ることなく「謝ってるのにどうして許さないの!」というのは、謝罪を途中放棄し、自分の非を棚に上げた逆ギレです。
子供というのは不完全なものです。
ただ、だからといって、何でも許されるわけではないし、許していいわけではありません。しかし、もし心を傷つけられたのなら、怒っていいはずだと子供だった私は思い、それは、大人になった今の私もそう思います。
子供たちを教え導き、子供の心身を育てるべく、大人のお手本でもあるべき先生や、人生の大先輩として若輩者たちを導くべきお祖母ちゃんが、傷ついた子供の心をさらに傷つけるようなことをしてしまっていることを本当に残念に思います。
ただ、息子さんの救いはまねこさんという素晴らしい母親がいたことです。
まねこさんは、息子さんが心を大きく傷つけられ、さらにまた傷つけられようとしていたのを守ったのです。それはきっと、常に子供の気持ちに寄り添い、理解しようと努力されているからであり、子供がどんなことに心を痛めているのかをきちんと理解し、気持ちを理解できていたからです。
そして、まねこさんはこう言います。
「許す権利、許さない権利は被害者側にある」本当にその通りだと思います。ただ・・・
残念ながら、世の中には「謝っているんだから許せ!」が溢れているような気がします。
アンガーマネジメントというのが流行り出して以降、きちんと勉強されている専門家を除き、怒り=悪みたいな単純な図式で括られがちになっていると感じるのは私だけでしょうか?
確かに、理不尽な怒りに対しては適切なマネジメントが必要でしょう。例えば、雨で濡れたことにイライラして無関係の友達に当たったり、スーパーで大行列が出来ている時に、店員さんにキレたり、みたいな。
そんな、人としてあまりに「未熟な怒り」に対してはアンガーマネジメントは有効ですが、「正しい怒り」まで一緒くたにされてしまっているとしたら、それはちょっと違う気がします。
最近、大手芸能事務所創業者、そして大物お笑い芸人による性被害問題が大きく取りざたされています。
もし、あなたの大切な人がそうした被害に遭ったとしたら、あなたは「相手が謝ってるんだから許せばいいじゃん?」と、被害に遭ったあなたの大切な人に言えますか?
もし、あなたの大切な人が通り魔によって殺されたとき、誰かに「相手がもうしません、って言ってるんだから許してあげなよ」と言われて赦せますか?
すべてを許せる世界なら、刑務所も死刑も必要ないんです。「謝ればすべて許される」のならば。
「誰にでもミスや過ちはあるのだからお互い様」
確かにそうかもしれません。しかし、許せることと絶対に許せないことがあるのではないでしょうか?
だからこそ、どうしても許すことができないのなら、無理して許すことはないと思うのです。それに対して相手から「これだけ謝ってるのに許さないなんて、性格悪いな」とか「どんだけガンコなんだよ!」と逆ギレされるとしたら、そんな理不尽なことはありません。
そもそも本当に悪い、申し訳ないと思っていたら、「でも」とか「だけど」と屁理屈のような理屈をこねて反論したり、「こんだけ謝ってるんだから」などと逆ギレしないでしょう。むしろ、そんなことを言い出す人とは縁が切れてしまったほうが逆にいいのかもしれません。
すべてを許すことが出来るなら、それは本当に凄いことだし、尊敬します。しかし、許さないから「性格悪い」「人間性が劣っている」わけでは決してありません。
許すというのは、その罪に対して「被害を受けた人が納得する」ことです。納得できないのに、周りの目や声、評価のために自分を圧し殺し、我慢をして「許そう」としているなら、そんなことはやめたほうがいい。
「本当の自分」を圧し殺して、「ハリボテの自分」で生きていくのに何の意味があるのか、よく考えてみて欲しいのです。
おそらく誰もが一度は経験あること。
誰かを許せないとき、そして逆に誰かに許されないことをしてしまった時にどうするか?
記事の終盤では、まねこさんとまねこさんのお母さまとの関係について綴られていますが、読んでいてとても心が痛むと同時に、まねこさんがこの記事を書いた意味が少しわかった気がしました。
そしてなにより、まねこさんの息子さんへの深い愛情を感じました。
まねこさんの記事は、読みやすくてわかりやすく、その内容は示唆に富んでいます。そして誰かを、何かを「許す」ことについて深く考えさせられます。
昨年、noteを始めて一年が過ぎたとき、今後は「おすすめ記事を紹介していきたい!」と思ったのですが、その時から「一番最初に紹介するのは絶対この記事だ」と決めていました。
小学6年生だった私を救い、心の棘を抜いてくれただけでなく、大人になった今の私にとっても心揺さぶられる記事です。
最後にまねこさん、本当にありがとうございました。
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