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【読書感想文】三島由紀夫「手長姫」

これは新潮文庫から出ている三島の短編集のタイトルにもなっている、氏が26歳の時に書いた作品で、40ページ足らずと、忙しい社会人の方でも読みやすいので、もしまだ読んだことがない人がいたら是非読んでもらいたい。読むのに時間がかからないという意味で、中高生には夏の読書感想文にもオススメである。この感想文は中高生にはやや難しく感じるかもしれないが、これが読めなかったからといって三島の「手長姫」を楽しむことができないというわけでもなく、自己流解釈で読んでもらえればよいので、やはりオススメである。

この短編のメインの登場人物は、盗む意志はなくともつい無意識に盗みを働いてしまう「手長姫」鞠子と、夫の為保ためやす、為保のめかけの政子、鞠子の幼少時の世話役であるひでである。今回の感想文は、主に鞠子の成人後で世話役のひでが亡くなった後のことについて書きたい。

以下、ネタバレを含むので注意。
特に、いきなり鞠子の最後の台詞について取り扱う。









「捕縛してください。あたくしが犯人です」

三島由紀夫『手長姫 英霊の声』新潮文庫 p. 110

既に勘の良い読者様はこれから私が書かんとしていることにお気づきであろうが、この描写は、鞠子が彼女の盗みは罪に値し得ること、そしてその犯行が見つかった場合に懲罰を与えられることへの当為を認識しているとがわかる最も印象的な記述となっているということだ。実際、鞠子の盗みに意図がみられるのは、為保がその悪趣味から商店で鞠子に万引きさせ鞠子の道徳観念を倒錯させるまでにその天性の盗みを讃え狂喜し、幾度も万引きをさせるために百貨店に連れていかれた結果、無意識の盗みが徐々に意識的になり、徐々に作為を部分的に内包するようになってきたことを始め、為保が彼の実家の用事で留守にしている最中から妾の政子がはしためを買収し、共謀して鞠子に食事を提供しないところ、飯櫃めしびつを自分の寝床に持ち入るほどの徹底振りを見せたその時分より、鞠子はやむを得ず、政子の就寝中に飯櫃を奪おうとした場面でも盗みは意図的であったが、最後のこの自訴には、食欲のように生命の維持に必然の欲を満たさんと欲するエネルギーに比肩する、生命の渇きがあったのだ。
この台詞を最後に持ってくることで、強調することで三島が問いかけたかったのは、自覚のない不義は罪に問われるべきか否か、という有り体な議論か?(有り体であるからといって、それが簡単に答えを提出できるということではなく、意図と行為とそれに対する責任の問題は旧くから現在まで、倫理学の関心事であり続けているし、日常の有り体でsachlichな事柄を文学に凝結させることもまた偉業になり得る) それとも、政子は為保とともに飯櫃を寝床に入れて鞠子に飯を喰わさぬように謀り、同時に飯櫃を為保と政子に気付かれぬよう寝床から持ち出せた暁には、鞠子を蔑ろにし政子と寝てばかりいる為保を鞠子に返すとの約束をしたのだが、鞠子が飯櫃を政子の寝床から盗んだように、生きるためのこととなれば鞠子は意図して盗みを働くこと、裏を返せば、鞠子は為保をそれだけ愛していたということを三島は描写したかったのか?
前者ではないだろう。それを表すにはあまりにもそれをめぐる主張が少な過ぎる。ならば後者か?
多少の語弊はあろうが、私はそうだと思う。生得、自由意志を持たないような鞠子が、この時だけは、自律的な意志を持っているのだ。その上、罪の意識まであるのだ。語弊があると書いたのは、この原動力がおそらく為保に対する愛かというと、今一つそうは思えない節があるからである。特に、新潮文庫版だと最後から4行目、「為保は泣いている妻の体を抱いた。妻はしかしおそろしい力で彼をはねのけた」とある。これは、様々に解釈可能であるし、最も説得的な一つを提出することも難しく思う。(これを読んでいて情報的繋がりを見出せなかったものの代表が、鞠子が精神病院にいる第1節の「アラビアの唄」と果物売りの2つのエピソードであるが、そこにはこれの意味合いを明確化する何かはない気がする。この精神病院でのエピソードの意味合いを考えたことある人は自説を披露して下さい。私はよくわかりませんでした。)ただ、この短編に抽象的一貫性を認めようと努めるならば、これは物質的なものを愛し、女性にも即物的な美や快楽を求める為保への拒否であるし、それは同時に鞠子の、名付け得るならばやはり愛と呼称されるべき抽象的な志向性·自由意志が自分と対象との関係に受肉すること、それに対する拒否を意味する、と言いたいと思う。そういう意味で、卑近な言い方をすれば、鞠子は「恋に恋していた」ならぬ、「愛を愛していた」と言ってもよいかもしれない。

結局、この短編に救われた者はいない。鞠子は最終的に精神病院で、やはり受動的な、むき出しの意志が些かも現れてこない生活を強いられており、描写はないが為保も「生活」が瓦解しないよう気を払いながら、物質的享楽を適度に楽しむ程度の暮らしを送るだろう。しかしそれにしても、この名状し難い抽象観念に対する意志をこれほど印象的に表現してしまうこの鬼才には感服せざるを得ないなと、そう思う傍ら平日の晩、仕事終わりに部屋の隅でこうして、己の文才の無さに愧赧きたんの念を抱くのである。

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