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「おしゃべりな脳の研究」を読んだ感想

 こんにちは、teftefです。長期休みは、デスクトップPCが使えなくなるため旅行と読書にほとんどを費やしていて、投稿頻度が高めです。この記事では普段主が経験していることも交えながら、この本を大雑把に要約し、自分の所感及び考察をだらだらと書いていこうと思います。

まずこの本について、400ページほどあります…長いです…、しかも研究報告に近いので、使っている言葉が難しめです。そして何よりも値段が4000円ほどと高いです…。しかし個人的には、こういうものに使うお金は惜しまないようにしているので思い切って買ってみました。そこから3週間ほど読んでいました。

概要説明

内言

 主の場合、本を読んだり記事を描いたり、考え事をしているとき、問題を解いているとき、よく誰かが脳内でしゃべっているのを感じることがある。例えば、「あと10分しかない!急げ」や「これ違うんじゃないか?」や「おわり~、GG!!」など、こんなことを脳内で言っていると感じることがよくある。それは聴覚として感じているわけではなく、とにかく頭の中にその言葉が流れてくる(うまく書けないが、声ではない)。これが内言というもので、人間である以上、知覚していなくても無意識のうちに脳内で繰り返されている。
 思えば私たちが幼いころ(5歳以前)、何か身の回りで起こるたびに声を発していた。確かに幼稚園児が何かを描いて遊んでいる様子を見ると「でんしゃ!」や「ここに○○」や「1,2,3,4…」など言っている。しかし大人になるにつれて口に出さなくなってくる。果たして失われたのだろうか?そうではなく実は私たちが何かを書くとき、その内容を心の中で呟いている。これは「思考で下書き」を行っている。つまり、大人になっても私たちは、何かを考えるという仕草をしている。しかし、大人がこのようなことをすることはない。大人になるにつれて理性が働き、思ったことを全て口に出さずに心の中にとどめておくように教わる(もしくは周りを見て学んでいる)からだろうかと考えている。

聴声

 内言は知覚しているが、主はその声が聞こえることはない。何かに失敗したときに「またかよ(呆)」や「今度頑張ろう!」などの声が外から聞こえる人がいるらしい。これらの人は良く統合失調症と間違われることがあるがこれが聴声であるようだ。どうやら一部の人は病的な理由以外でこの声が聞こえるようだ。幻聴といった類もこれに含まれる。そこで疑問が一つ沸いた。「その声は誰の声なんだろうか」
正直、内言が誰の声かを考えたこともないし、考えてみても誰の声かわからない。誰でも経験したことがあることだと思うが、アニメを見た後に原作漫画を読んでいるとき、キャラクターのセリフが脳の中で響く。しかしそれはアニメの中のキャラの声だったかと言われれば、NOだと思う。また幻聴に悩まされる人の聞こえる声はどうだろう。

経験と内なる声

 主は虐待の経験はないが、いじめられる経験は少なからずある。しかしトラウマものかと言われればそうではない。しかしトラウマはある。何かを具体的に書くつもりはないが、経験によって内なる声の聞こえ方は変化するのだろうか。おぞましい経験をすると人間は自己防衛のために乖離をする。つまり今起こっている出来事と精神を切り離すことがある。それでは、記憶が内言や聴声や幻聴、統合失調に大きな影響がを及ぼすかというと、それも違う気がする。記憶というのは時がたつにつれて薄くなるが、元に戻ることはない。なので、幼い頃の経験がきっかけで大人になった時に内言や聴声や幻聴、統合失調に悩まされるとは考えづらい。

筆者の意見及びまとめ

 人は常に自分自身と会話をしている。それは行動する前に自分と会話することで、考えをまとめているからである。脳がおびただしい情報をまとめるのに内的言語を使用することは進化的にメリットのあることで、生存を助ける機能を持っている。内言や聴声は大人になるにつれて、声に出さなくなるのは、自分の考えを外に出し、敵や捕食者に知られてしまうことを防ぐという理由がある。実際に思ったことをどんなことでも口に出すと、社会的信用が失われる。つまり、内的言語を隠しておく圧力は進化論的なものであり、同時に社会的なものでもある。学校ではセルフトークを口に出すことが奨励されない。
 内なる声は誰の声なのか、答えは自分自身である。実験では被験者の声を録音し、内言と比較した。その結果として人間の脳は常に自分自身と会話をしていることが分かった。幻聴に悩まされる多くの患者は「声を消したいか」と聞かれるとNOと返答する。声も自分自身の一部であり、無意識のうちに同居いている。できることなら彼らと共存したいと述べる患者が多いというのもこの結果を裏付けているのだろうか。
 内言、聴声とトラウマについて、これらの間にどんな関係があるのか。幼少期のころの激烈な経験が記憶され、聴声となることに関連性があるのはわかっている。ベントールはこれを喫煙と肺がんの関係になぞらえた。しかしなぜそのようになるのか、明確な理由は依然として不透明である。また人間の記憶の仕方と内言は、いかんせん合致しない。人間は少し前に話した言葉を覚えていないことが多い。また環境音(鳥の声、犬の鳴き声、風の音など)は記憶されないことが多い。声が過去の会話を逐語的に再現したものであるとしたら、この点と多くの矛盾を持つことになる。唯一確かなことは、トラウマを多く経験する子供のほうがトラウマ的出来事をひとつしか経験しない子供より「内なる声」を聴きがちであるということである。

感想

 主は、この記事を書いているときも自分自身と会話を続けていた。「ここ違うな」、「これどういう意味だっけ」など。邪魔かどうか聞かれれば、どうだろう、正直意識しないと記憶にすら残らないため全然邪魔ではない。むしろ声が聞こえないといつものパフォーマンを発揮できない。歩くときもベッドに横たわった時もバスに乗った時も常に何かを考えている気がする。主は親しい友達に雑談が苦手だといわれる。確かに何かを話すときに常に何かを考えていることが多く、深く考えすぎてしまう癖がある。例えば何気ない会話、「昨日何食べた?」に対して、「昨日は○○だったんだけど、そういえばなんでこれにしたんだ、○○は△△で本当は□□で…」のようにどんどん「内なる声」を知覚し、想像が膨らむ。これが世の中の普通かどうかはわからないが、少なくとも「変」と言われている以上おそらく普通ではないだろう。しかし主はこの声を捨てようとしたくはないし、むしろこの声によって助かることも多いので、共存をしていくことを選ぶだろう。この記事を書いている現時点でも次に何を描くのか知覚しているし、これからも知覚するだろう。むしろこの「内なる声」のおかげで今の自分の人格形成をしていると思うと、これからもこの声に頼り、時には声に翻弄されながら自身の「おしゃべりな脳」と生きていこうと思う。

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