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映画『37 Seconds』を見て自分の人生について考えた

今週末は仕事の予定が入っていなかったので、名古屋にプライベートで旅行していた。旅行中はふつう観光だけするんだけど、どうしても映画『37 Seconds』を封切り日に見たくて、名駅のミッドランドスクエアシネマに来て鑑賞した。

他の映画を見に行ったときに、予告編を見て、ずっとこの映画を見たいと思っていたからだ。

障害者の性と自立を明るいタッチで描いた映画、というのがあるサイトの紹介文に書かれていたが、その通りだと思った。

障害者であっても
・メイクして可愛い服着て可愛くなりたい
・セックスしたい
・夜遊びして酒飲んで騒ぎたい
と思うのはふつうのことなんだと改めて思ったよ。

つまりね、障害者だからずっと家にいるべきだとか、障害者には性欲なんてあるはずないし恋愛するなんてこともありえないといった、ある種の決めつけが間違いであることをこの映画は描いている。

障害者なんだから「…できない」「…しちゃいけない」という固定観念から解放され、ユマさんの徐々に表情が明るくなっていくのが素晴らしかった。

鑑賞していた私は、この映画に感情移入してずっと終わりの方泣いていた。

なぜなのか、考えてみたんだけどね...

自分が MtFトランスジェンダーであり、そうであるが故に、ふつうに堂々と恋をしたり、外に出て色んな人と知り合ったりすることを躊躇し続けてきたことを思い出したからだということに思い至った。

お前は五体満足だから彼女とは違うと言われればそれまでなんだろうけど、それでもいわばノンケの経験する普通(彼氏を親に紹介するとか、学校で堂々と付き合ってる振る舞いをするとか)を、私がトランスジェンダーであるが故に普通に堂々と経験できなかったことは、ずっと私の心の傷として残っている。

おそらくそういった部分が刺激されてしまったのだと思う。

でも最後、彼女は問題を克服して普通の生き方をしようとする行動に出た。

私も最近は、自分の色んな面を否定せず、自分を大事にして自分のための人生を送るような生き方をしようとしている。

なんかそういったことが色々と複雑な感情になって、映画の終わりの方では涙が止まらなくなって、声が出そうな状態で泣いてた。

自分の思うように生きられるのが一番幸せなんだよ。

ふと考えたのが、自分が、身体の性と性自認がずれた状態で生まれてきたことにどのような意味があるのかということだった。

映画の終わりの方でユマさんが、障がいを背負って生まれてきたのが「私でよかった」と言う場面がある(詳細はネタばれになるので言わないが)。その台詞から自分がGID(MtF transgender)として生まれてきたことの意味を否応なしに考えさせられた。

統計学的に言えば、障がい者もLGBTも一定の割合で生じる。それが自分でよかったと私にはずっと思えなかったのだが、私がそのようにならなければ、他の誰かがそうなって同じ苦悩を背負っていたということになる。

そこそこ裕福で、教育にお金をかけてくれた家に生まれた私が、そのようになったのは、貧しくすぐに社会に出なければならなかった人がそのようになるよりも、世の中の按排としてはよかったのではないかと、ふと思ったのだ。

何かの運命なのかな。まあ、私は自分にできることをして、自分に果たせる社会的役割を果たして、世の中に貢献していこうと思う。子孫を残すという意味での「生産性はない」けど、私がこの世に存在して関わることで、他人の人生をよりよくできるなら、それもいいのかなって最近では思えるようになっているしね。


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