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将棋と私のものの知り方・学び方


正直なところ自分が将棋を始めたのがいつなのかはよく覚えていない。
多分小4くらいだと思う。
うちのじいさんが亡くなった時のことだ。

〇うちのじいさんのつくった将棋盤と駒

じいさんは一緒に住んでいたわけではなく、
自宅から車で15分ほどのところに祖父母宅があった。
一緒に遊んだ記憶も特にないし、将棋を教えてもらったわけでもない。

時々家族で祖父母宅に行き、夕飯をごちそうになっていたし、
何かの折には親戚一同が集まったりしていた。

同じ幼稚園や小学校の同い年の子にも
自分からはあまり話しかけられなかった私にとって、
なんとなく気難しそうなうちのじいさんには、
それはそれは接しづらい相手だった。

かといってじいさんのほうから積極的に何か言ってくるわけでもなく、
一緒にいてもほとんど無言の時間が過ぎ去っていく。
それが私とうちのじいさんとの関係だった。

私が今も使っている将棋盤は、そのじいさんがつくったものだ。
本当は駒も手作り手書きの木製のものがあったのだが、
入れ物の箱が損壊してしまい、駒が少しずつ行方不明になってしまったため
今手元には将棋盤しか残せていない。(ごめん。)


〇将棋を触り始める

じいさんが亡くなった時のことだ。
命日から四十九日までの間、毎日家族で祖父母宅へ行き、
夕方に祖母が仏壇の前で般若心経を読経する後ろで、
みんなで座って般若心経の本(? 縦長の蛇腹式に畳まれたやつ)を
見ながら読んでいた。

毎日祖父母宅に行って夕飯を食べ、その後読経するのだが
もちろんそれ以外の時間があるわけで、
姉などはテレビ好きだったのでテレビを見ていたが、
私はアニメは見るけどその他の番組にはほとんど関心がなかったので、
暇つぶしに触れたのが将棋だった。
(当時していた大河ドラマだけは見ているうちに面白くなり、
 その時から見る習慣ができたのが、それはまた別の機会にしよう。)

じいさんが自作した将棋盤と駒を使って、
父やら兄やら親戚やらととりあえず将棋をしまくった

相手をしてくれた人たちがどのくらい将棋が強かったのかは
よくわからなかったし今や覚えていないが、
なんだかだんだん勝てるようになっていった
なんか一人えらい強いおじさんがいた気がするけどどの人だったか・・・。

〇戦術の試行錯誤

とりあえずルールと駒の動かし方は覚えた
定跡のようなものはほとんど何も調べなかった
正確には、調べないというよりもそもそも進め方に一定のパターンや
駒の並べ方・組み方のようなものが一般的に存在する、
というようなことも認識していなかった。

かなり前のことなので、この記事を読む世代によっては
想像しがたいことかもしれないが、スマホもないしネットもなかった。
1997年時点で日本におけるインターネットの人口普及率は9.2%らしい。)

うちが偶然そうだったというより、そもそも普及していない。
よって、勝ちたいからネットで勝ち方を調べようなんて手段は存在しない
相手のやることを観察しながら、思いついた動かし方をとにかく試す
これが私の覚え方だった。


〇すぐに強くはなれない

このようにして将棋を覚え、家族や親戚相手にそれなりに勝てるように
なっては来たのだが、おそらく、私の将棋はそれほど強くはない。

その後、将棋の本なども買って読もうとしたこともあったが、
詰将棋の本以外には全くと言っていいほど興味がなかった
定跡なるものがあるということは本を読み始めると認識してきたが、
1つ1つの囲いやら攻め方やらは覚える気にはならなかった

詰将棋は好きで色々解いてみたし、
終盤の追い込み力は少しはあると思っているのだが、
おそらくそのせいだろう。

将棋が好きで、自分で試行錯誤していろんな打ち方を模索するのが
好きだし、詰将棋も楽しい。

ただ、これだけでは勝つには足りないものがいくつかあるようだった。


〇強くなれない理由

1つ目は、私の将棋は基本的に”思いつき”を重視している。してしまう。
勝とうが負けようが打ちたくなった手は打ってしまう。
だから無駄もあるし、読めていない局面が現れるのを期待している。
つまり、勝ち筋を読む気があまりない。(特に中盤)

自分が見たことない流れの中で、
考えたことのない手を考える時間が一番好きだ。

ただそうなると、ある意味ではこれまで蓄積した経験を放棄して
一から考えて取り組む必要がある。(まあそれが好きなのだが。)
自分の得意な戦術をしようとか、勝てる方向に運ぶ気があまりない。


2つ目に、量はやるが記憶力があまりよくないので似た局面でも
何度もやらないと何がよかったか、まずかったかが覚えられない
テレビなどで見るような感想戦で初手から並べ直すのもできない

さらに言えば、覚えられないので自力ではなかなか
攻め方・守り方の体系化ができない
なので、戦術の積み重ねがおろそかである。


3つ目に、相手があまりいない。
ネット対戦などもできるだろうが、あまりしたいとは思わない。
ブラウザでのCPU対戦程度ならたまにするが、
ネット越しの対人戦は1度たりともしたことがない。
(相手がどんな人かもわからないし気も遣うし、気分があまり乗らない。)

かといって実際に対面して将棋を定期的にさせる相手もいない。
おそらくここ10年くらいで一番多くやっているのは対自分戦

いろいろと試すのが好きだとは言うものの、
自分の指す手にもおそらく偏りがあることは十分推察できる。
人によって指す手が違うと言ってもいいし、
それが将棋の面白いところでもある。

つまり、自分には出せない手が必ず存在する。それもいくらでも
だが、自分しかいないその盤面にそれはなかなか出てこない

テレビやネット番組での将棋の観戦なども可能だが、
正直なところ自分の指していない将棋はそれほど熱中できない。

自分がああしたいこうしたいと手を考えているうちに
盤面がどうでもよくなってしまったり
逆にまだ考えてるのに先に進んでしまったりして
気持ちが落ち着かない。

棋譜並べなどの手もあるだろうが、
どうにも単調になってしまって入り込めないので苦手だ。
やはり自分で指した手でなければ


〇私のものの知り方・学び方

今思えば、これは将棋に限らず私のほとんどの対象・局面についての
ものの知り方そのもの
と言ってもいいかもしれない。
やって試す、繰り返す、分析する
(ついでに言えばあまり調べない特に最初は。)

自分で起こした現象や、それに対する反応。
将棋で言えば自分の指した手と、それに対する相手の指した手

この現実的な感触から受ける自分の中に湧く次なる衝動。
これに勝る行動意欲は、おそらく自分の中に生まれない。

平たく言うならば、そうでなければ興味があまり持てないと言ってもいい。

私にとって、自分で試行錯誤して考えて得られたもの以上に信じられるものはない、と言ってもいい。

こうして振り返ってみると将棋の指し方にも
自分で思いも及ばぬほど私の姿を映していたようだ。

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