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日銀の「異次元緩和」政策が市場に効果をもたらすメカニズムとは?〜 銀行のリスクテイク行動と企業の融資獲得コストの関係性 〜

一橋大学と帝国データバンクが設立した、 一橋大学経済学研究科 帝国データバンク企業・経済高度実証研究センター(TDB-CAREE)の研究成果をご紹介するシリーズ第4弾です。
ディスカッションペーパー「Spillovers of the Bank of Japan’s Exchange Traded Fund and Corporate Bond Purchases 」の概要を、研究者へのインタビューと合わせてご紹介します。

ディスカッションペーパー著者
 Nguyen Thuy Linh さん(東京大学 大学院経済学研究科 特任研究員)


日本銀行(日銀)は、企業の経済活動をうながして景気をよくするための金融緩和政策の一環として、2010年からETF(Exchange Traded Funds:上場投資信託)の買い入れをおこなっています。

【ETF(Exchange Traded Funds:上場投資信託)とは】
ETFとは、金融商品取引所で売り買いすることができる投資信託のことです。通常の投資信託と同様に株式や債権など、複数の金融資産が組み入れられて運用されています。特に日銀のETFの買い入れでは、対象のETFは東証株価指数(TOPIX)連動型です。
2021年3月までは、日経平均株価(日経225)やJPX日経インデックス400に連動するETFも日銀に購入されていました。ETFの買い入れを通じて日銀は間接的に企業の株式を所有し、さらに複数の上場企業の大株主になっています。

2013年4月の黒田東彦 元日銀総裁による、いわゆる「異次元緩和(量的・質的金融緩和)」では、ETFの保有額を2年間で倍増させることが発表されました。2014年10月にはさらに拡大することを決定し、保有残高を年間約3兆円のペースで増加させていく計画としています。
当初は消費者物価の上昇率2%という「物価安定の目標」を達成するまでの、期間限定の政策だったのですが、2023年4月に交代した植田総裁も就任時に「金融緩和の継続が適当」とコメントしていて、日銀によるETFの買い入れはまだしばらく続きそうです。
日銀が保有するETFは、2023年3月末の時価で約53兆円にもなりました。

また、日銀は社債(CB)も同様に金融緩和政策の一環として買い入れをおこなっています。コロナ禍において企業の資金繰り支援を目的とした2020年には、合計20兆円を上限に、残存期間は5年まで延長して買い入れを実施しています。

こうした日銀の政策は、ETFやCB買い入れの対象になった企業にだけ効果があるものではなく、市場全体の景気向上をねらうものとされています。
では、ETFやCB購入によって直接的な資金の流入がない企業へは、どのようなメカニズムで政策効果が現れるのでしょうか?
リンさんの研究は、この問いに応えるものです。

金融政策が企業に効果をもたらす「伝達経路」とは

リンさんは2023年に一橋大学大学院経済学研究科の後期博士課程を修了し、博士号を取得。同年4月から東京大学大学院経済学研究科で特任研究員を務めています。
この研究はリンさんの博士論文のうちの1つであり、以前から研究していた日銀の金融政策について分析するものです。

リンさんが、このテーマを選んだきっかけは修士論文にまで遡ります。当時から日本銀行のETF・CB購入政策について研究をおこなっていたリンさんは、当時の指導教官からヨーロッパ中央銀行(ECB)による社債の購入政策についての研究(Grosse-Rueschkamp et al. (2019))を紹介されました。
この論文で提案されていたのが、「資本構造チャネル」という金融政策の新しい伝達経路の概念です。
ECBが社債を購入することで、対象となった企業では社債の発行を増やし、代わりに銀行融資の割合を減らす動きが生まれます。これによって、この企業に融資していた銀行は、ほかの企業へ融資をまわすことを考えるようになり、その結果、社債が買われた企業だけでなく、周辺の多くの企業が資金を調達しやすくなる波及効果(スピルオーバー)があるというものです。

しかし、各国の中央銀行が政策として購入する金融商品は、国によってさまざまです。金融商品や各国の市場環境の違いによって、同様の効果がもたらされるのかどうかはわかっていません。
リンさんはECBと比較する形で、日本銀行が行っているETFとCB購入の政策について検証を行うこととしました。

また、従来の多くの研究では、企業の資金調達活動は企業が社内の必要に応じて行うもの、つまり内生的なものとして見なされてきました。
本研究では、企業を取り巻く資金調達環境が変化してお金を借りやすい状態になることで、企業が融資を受けるようになるという資金調達活動の変化を提案します。環境の変化という外生的な要因によっても資金調達活動が変化するということを指摘するのが、本研究のユニークなところです。
そして、この外生的な要因による、企業の資金調達活動の変化を観察するのに、日銀の長期にわたる異次元の金融緩和は格好の研究対象でした。

ETF・CB購入による銀行、企業それぞれへの影響

金融政策の効果を見るためには、ETFやCBの購入があった前後で、銀行や企業の資金の変化をそれぞれ確認する必要があります。
この時に、単純に政策実施の前後の業績や銀行借入金の変化だけを確認しても、それが本当に政策による効果なのか、別の要因で起きた変化なのかを証明することはできません。
こうした場合に、政策の対象となった企業と、そうでない企業を分けて、政策実施の前後の業績や経営状態の変化の仕方を比較して、違いが現れた時に政策効果があったと判断する「差の差分析(DID ; Difference-In-Difference)」という手法があります。

差の差分析(DID ; Difference-In-Difference)のイメージ

まず、銀行についてDIDによる分析を行ったところ、日銀の購入したETFやCBに融資先企業が多く含まれていた銀行と、そうでない銀行とでは、日銀による買い入れ実行後の保有資産の比率の変化に違いがみられました。ETF・CB購入政策の影響を強く受けた銀行では、総貸出比率が低下し、証券などのリスク資産の保有比率がやや増加する傾向にあり、収益性も少し低くなる結果となったそうです。

続いて、企業についても、ETF・CB購入政策の影響を銀行経由で間接的に受けていると想定される企業と、そうでない企業について比較分析をしました。スピルオーバーがあるのだとすると、前者には資金調達がしやすくなるなどの変化があるはずです。

しかし、企業を単純に2グループに分けてDID分析を行なっても、政策の効果があったのかどうか適切に判断することはできない可能性がありました。
それというのも、ETF・CB購入政策の影響を強く受けた銀行と取引関係がある企業はもともと規模が大きく、資金を集めやすい傾向があると考えられたからです。もし、この「資金を集めやすい傾向」が本当であった場合、日銀のETF買い入れの政策があろうとなかろうと、2つのグループの業績や資金調達状況の変化の仕方が異なってくる可能性があります。
DIDによって政策の効果を測るためには、同じような性質を持つもの同士で比較することが必要です。そこで、さらに似た条件の企業同士をマッチングして比較する「傾向スコアマッチング(PSM)」という手法を組み合わせて分析をおこないました。

こうした分析の結果、ETFやCB買い入れの直接の対象ではない企業においても、特に非上場中小企業では銀行融資額や比率が高まっており、融資を受けられる機会が増したことがわかりました。

スピルオーバーが起きる流れと、本研究における比較分析の対象

スピルオーバーの光と影

検証の結果、日銀のETF・CB購入政策は、直接対象となった企業だけでなく、周辺の企業にも融資獲得のハードルを下げる効果が及ぶ、いわゆる「スピルオーバー」が存在することを証明できました。

ただし、景気回復の目的とあわせて考えると、少し注意が必要な部分もあるようです。
スピルオーバーが起きるプロセスの鍵は、銀行にリスクを取らせるように仕向けることです。
実際に、リンさんの検証では、政策の影響を強く受けた銀行の業績が少し悪化しているという結果もありました。

また、企業としても、融資を受けられるようになったからといって、すぐに業績アップにつながるわけではないようです。こちらも検証の結果、業績アップ効果があるとは言えないという結論に至っています。

一方で、先行研究として参照したECBを対象とした研究では、中央銀行による社債購入の政策によって資金を獲得できた企業は、設備投資を行って業績が向上するという結果が見られていました。
日銀の政策で同じ効果が見られなかったのは、購入プログラムの制度内容の違いに理由があるのかもしれません。もしくは、より厳密な検証方法を取ったことによって、政策介入の効果を小さめに評価している可能性もあります。
今後は、こうした部分を深掘りしていくことによって、企業の業績向上につながる政策を見出せると考えています。

今後の研究

この研究を経て、今後、リンさんは銀行同士の競争への影響や、スピルオーバー効果が特にどのような経営状態の銀行を通じて伝わっていくのかを引き続き分析したいと考えているそうです。
また、日銀がコロナ禍で企業を支援するために、さらにETFやCBの購入を増やした政策がどのような効果を生んだのか、特に経営危機に陥った企業への影響はどうだったのかということも重要なテーマです。

最後に、リンさんに日本で研究をする意味と、目指す研究者像についてうかがいました。リンさんが留学先として日本を選んだのは、同じく研究者だったご両親の影響なのだそうです。リンさんのご両親は、日本に10年間にわたって住んでいたことがあり、リンさんはご両親を通じて日本での生活や研究活動を子どもの頃から聞いていました。
実際に日本に来てみて言葉の壁を感じることもあったそうですが、日本ならではの文化や、人々の協調性、雰囲気、伝統への敬意などにも惹かれて日本で研究活動を続けることを決めたのだそうです。

企業金融や金融政策を専門とする研究者として、政策の効果を実証するさまざまな研究手法を学んで、質の高い研究をすることで日本経済に貢献し、いずれはベトナムにも貢献したいと語っていました。

[参考文献]
Grosse-Rueschkamp, B., Steffen, S., Streitz, D., 2019. A Capital Structure Channel of Monetary Policy. Journal of Financial Economics 133(2), 357–378.
https://doi.org/10.1016/j.jfineco.2019.03.006

ディスカッションペーパーリンク: https://hdl.handle.net/10086/71950


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