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Exhaustion

【身近な人の訃報】

私の近しい親戚が数日前亡くなったと主人から聞かされた。

病死だ。
確か癌を患っていたように思う。

わたしは訳あって実家、そしてその親類と今は連絡を経っている。
だから母は主人に連絡をしてきたのだろう。

葬式は家族葬で済まされたらしく
どの道わたしは行かなくてもいいらしいと聞いたが
本来なら通夜、葬儀とも出かけていただろう。

【感情の欠如】

小さな頃から付き合いのある人だ。
近しい親類だ。

なのに私の感情は動かない。
悲しみが湧いてこない。

わたしの感情は欠如しているように感じる。

ここ数年色々な出来事が立て続けにあった。

立ち直ってはまた新しい事件が起こる。
そして落ち込む。
でも立ち直る。

そして事件が起こる。
壊れる
立ち直る
…その繰り返し

感情攻撃の爆弾はどこから飛んでくるかわからないが
様々なところから不意打ちで飛んでくる。

人はこんな風にして壊れていくんだ。
自分の状況を客観視している私がいた。

ここ2年間。
ほぼ2週間おきに起こる
様々な想定外の出来事に立ち上がっては落とされる。

逆境力は半端ないと思っていた私の心の皮が
ひらひらと剥がれていくような感覚。

それはまるでかさぶたのようだ。
かさぶたが出来、治りかけるとまた剥がされる。
その繰り返し。

心が疲弊してきた。
そして鬱憤は全て服に費やされる。
表面的に着飾っても何も解決しないのはわかっている。

しかし好きなファッションでスイッチを入れる事だけがわたしの切り替えになっている。
それもよろしくない対処法だと自覚している。
けど止まらない。

大量に買った服だけがクローゼットに溜まっていく。

思い切って断捨離をした。
どれも思い入れがある洋服たち。

捨てるには忍びない。
そしてブランドものでも売ると二束三文。
それなら知っている人にもらって欲しい。
欲しい人にもらって欲しい。

友人たちのグループに写真を送り、欲しい人はエントリーしてと伝え、それぞれ欲しいものをピックアップしてもらった。

たくさんあるが私にとってはどれも思い入れのあるもの達だ。
でもありすぎて正直なかなか陽の目を浴びない。

思い入れのある服たちが誰かの元で陽の目を浴びる機会が増えたならそれに越したことはない。

【プレゼントの意味】

買うのも好きだが、人にプレゼントすることはもっと好きだ。

これはその人に似合うだろうか、相手は喜んでくれるだろうかと考えている時間。
これまた至福の時間である。

しかしあくまでも自己満足ワールド。
わたしは好きでプレゼントする。
そこに見返りやお返しを求めているつもりはない。

あるとすれば、ただ喜んでくれる。
それが一番の見返りだ。

反面私はモノをもらうのが得意ではない。
正直もらったら何か返さないといけないと思ってしまう。
理由は実家含めて親戚達から見返りを求める傾向を感じていたからである。

自分が好きで行ったことに、何もないとぐちぐちと陰口を叩いている。
逆に自分はいらないものをもらい、その人の前では喜んでいたそぶりをしていたのに"こんなもんいらないよね。"と後から言う。

多分本人達は自分達の無意識の言動に気づいてもいない。

そんな様子を見てこうはなりたくないと思った。

しかし血は必ず受け継いでいるはずだ。
私にもその傾向が必ずあると思う。

だからまずは"これ欲しい人いる?"と聞いた。
いらないなら尋ねた時、断ってほしい。
いらないものをもらうのは嫌だと思う。

なぜならそんな人達の様子を見てきたから。

わたしにとって大切なもの。
必要とする所、欲しいと思うところだけに届いて欲しい。

私は何かあればすぐにモノを送る、あげる習性がある。
自分はあげるのが好きなのに、もらうのが嫌いって何だか矛盾しているように思う。

実際、ものをあげてすぐに何かお返しをされると悲しくなったり、ショックだったりする。
理由はすぐに返される事は表面的なものを贈ったと思われていたのではないか、
何か借りを作りたくないと思ってるのかなと私は思うからだ。

そんな矛盾に気づいた私は、プレゼントをもらっても何か特別なことがなければ返さないようにした。

私にとってプレゼントは心なんだ。
心を感じるものをもらった時は素直に嬉しい。
でも心なくとりあえず送って来た感のものは何だかわかるように思う。

そんな中、私がモノをもらっても返さないという陰口がある事を聞いた。
高価なものをプレゼントしたのに返って来たのは数千円だけと陰で言っているのを聞いた。

値段調べたんだ!と驚いた。

心に値段はあるのか。
プレゼントの価値は金額なのか。
つまり 金額=価値 なのか。

私が贈ったものは金額ではなかった。
喜ぶ顔を想像し、きっとこれなら嬉しいに違いないと思ったが、受け取った側の価値観はそうではなかった。

やってしまった。

また私の自己満足ワールドだ。
後悔、悲しみ、寂しさ…じくじたる思いが交差した。

【人体実験】

ここ数年で感情がだんだん欠如してきた。
元々感情人間であり、主観的に物事を考える傾向がある。

だから感情が欠如したという状況は私にとってちょうどよいのかもしれない。

しかし親戚の死に対してなんの感情もわかない自分に違和感を覚えた。

わたしは正常なのだろうか。

いや、正常の定義ってそもそもなんだろう。
頭の中で色んな思いが交差する。

そしてこの状況も客観視したい自分がいる。
そもそも分析が好きなのだ。

文章化もその一環。
こうやって言語化して私は自分を客観視し、分析し、整理し、自己満足に浸っている。

人が壊れていく過程をも楽しみたい。
この状況がそもそも壊れているのかもしれない。
でもポジティブに考えるとどんな状況であっても楽しみたい、学習したいと思う私。
これが私なのだ。

自分で人体実験。

逆境力が強く、ストレス耐性もそれなりにあると思っていた私が壊れていく。

そんな様子を自分の中から観察したい。
人生何が起こっても全てネタだと思ってる。
そう思えば一見辛いことも仕事に役立つ。

挫折は人生の肥やしである。
挫折しても立ち上がっていき、成長していく。
それが私の特性であり、強みなのだと信じたい。

【かさぶたが皮膚として再生するまで】

近しい人が死んだ。
人は生まれたら確実に死ぬ。
そして誰しも明日起こることはわからない。

私は親にも親戚にも本当は対話を求めている
諦めつつも本当は対話し、分かり合えれば理想だと思うし、常にそう考え、言っている。

言っている事とやっている事が矛盾していることは理解している。

でも現時点での対話は今の私にとって得策ではないと感じている。

私には今、時間が必要だ。
再生するには時間が必要なのだ。

作られては剥がしていったかさぶたの跡は行為を繰り返した事による炎症が起こっている。

今は急がずゆっくり行こう。

心身万全ではない状態にも関わらず爆撃をうける事が明らかな戦場にでることは今の私にはよろしくない。

本来の私はよりよくしたい。
でも今のわたしには今自分の事で精一杯だ。
今までは納得するまで動いていた、突き進んできた。
しかし、それをし続ける事に疲労困ぱいした。

かさぶたがちゃんと皮膚として再生するまで自分を労ることにしよう。

私の行動により誰からか何か言われるとは思う。
だったら耳に入れなければいい。

入れる情報を精査しよう。

そう。

情報は精査して入れていくのだ。
その環境が今はある。

ゆっくりかさぶたがより良い皮膚になるよう再生を待とう。
そうして生まれ変わった皮膚はより強硬な皮膚に生まれ変わっているだろう。

それまでゆっくり。
今は待っておこう。

まとまりのない文章。これこそが今の私の状態を表している。それもいい。

不完全な自分、壊れている自分、弱々しい自分。
それを受け入れること、味わうこと。
そんな時間が今は大切なのだ。


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