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毒親への期待

病院でのやりとり

次男のGID診療の為、病院につきそった。
最初は問診からだった。

「お母さん、こんな項目あんで。"親から暴力を受けた事はありますか?"って。僕、わんこ達には暴力受けてるなぁー。寝てたら顔踏まれるしーー」

病院に来れた事が嬉しいのかニコニコしながら、笑いながら問診票の項目を読み上げながら書いていく次男。

これが笑いながら読める環境で良かったと思う。
虐待がある親子関係なら一緒に診察には来ないかもしれない。知らんけど。

乖離現象

私は幼少期の記憶が一部欠けている。
記憶が戻りだしたのは出産してからだ。
1人、2人、3人と産むごとに記憶が戻った。

そして3人目を産んでから反抗期になった。30歳すぎてからの親への反抗期だ。

そこからしばらくは親が嫌で嫌いでどうしようもなかった。

何であんなことするんだ。
何であんなこと言われなきゃいけないんだ。

色んな事思い出しては超昔の話なのに腹がたってたまらなかった。

同時に自分も同じような親になる事が怖かった。
血は確実に流れている。

ふと気がつくと子供に対して苛立っている自分がいた。

子供を叩きたくなる自分がいる。
何でこんな状態なんだと泣きたくなる自分がいる。
同時にそれほどでもないのに何でこんなにイライラしてるんだろうと思い、客観視している自分がいる。

こりゃ絶対私も、同じ事やるよな。
そう思ったから私は子供達を保育園に入れ、働いた。

いや、仕事が舞い込んできたから保育園に入れたのか。順番はよくわからない。
とにかく子供が自分といる時間は少なくしないと私は母親と同じようにしてしまう。

そんな風に思ったのだ。

子育ての思いの変化

最初は3歳まで一緒にいてー、それから仕事し始めてーと思っていた。
でも、大きくなるにつれ、こんなにおとなしい長男に苛立っている私は危険だ!と感じ、私から離す事にした。
つまり保育園に入れ、私は働いたのだ。

自分は子育てには向いてない。
色んな事が気になって仕方ない。
自分の思い通りにならないと気が済まない。

そんな状態はよろしくない。
子供を潰してしまう。子供から離れなければ。
そう思ったのだ。

私の幼少期

思えば私の幼少期、無茶苦茶な環境だったと思う。

母親は気に入らなかったら革のベルトで何回も何回も私を殴る。
冬に真っ裸にされ、冷水を頭からかけられる。
豚毛のブラシで刺される。
髪の毛を持って家中引き摺り回される。
父親がご飯いらないと断食になる。
あんたは橋の下で拾ってきたんだと言われ
茶碗を割るとお前が割れたらよかった、茶碗は割れたら戻らない、お前なら怪我しても治ると言われた。
どんくさい、何をさせてもダメだ、グズいと言われ、褒められる事はあまり記憶にはない。

しかし母は外ではPTAの役員であり、しょっちゅう学校に来る。
ニコニコし愛想がよく、小綺麗にしており、みんなにいいお母さんだと思われている。

私の服は当時数少ないブランドのものか、母親の手作りのものしか着ていない。

だから周りの人たちはまさか私がそんな事をされているとは思わなかっただろう。直接見たことある人以外は。

乖離現象

そんな記憶が大人になるまですっかり飛んでいたのだから不思議だ。

人は辛すぎると記憶が乖離すると言うのは本当である。

大人になり、記憶が戻り、親が嫌いで仕方なかったけど、同時に親を嫌いでいる自分も嫌だった。

世間では親への感謝の言葉が溢れている。

そんな中で親に感謝できない自分は人間失格なように思った。
また自分の中で乗り越えていかなければいけない壁のようにも思った。
親をもし許せるのなら、私は次のステージに行けるように思った。

また、そんな親に育ったとしても基本自己肯定感満載の私。前向きだし、明るいし、自分が大好きだし。
そんな私が悪い親から生まれるのか?

もしかしたらいい記憶も飛んでいるのかもしれない。
こんな素敵な私になったのならそれも親のおかげかもしれない。。。
なんて思っていた、基本自分大好きで脳天気な私である。

だから数年連絡とっていなかった親に自分から連絡して歩み寄った。結果としてしばらく親子関係は良くなった。

またもや断絶の親子関係

そんな私に転機が訪れた。
現在、私は両親と連絡をとっていない。
前回とは違い、正式に断絶宣言をしている。

親戚の葬式があろうとも行かないし顔を合わせることはないと伝えている。

会うとろくな事を言わない両親。
そんな話を聞くと体調が悪くなり気分が悪くなる。

原因は私がレイプのフラッシュバックで意識不明で倒れ、緊急搬送された病院に両親が迎えに来た時の事だ。

自分がなぜそんな状態になったのか説明した。

その反応は

お前が悪い
自己責任
ワシはしらん
そんな事くらい大したことない
もう子供もおるんやらかぐたぐたいうな
される方に問題がある

という話を帰り道、車内でされたことだ。
そこからしばらく、会う度に

自己責任
お前が悪い

と何度も繰り返す父親。

私の娘が同じ事にあったら私は間違いなく相手を殺しに行くだろう。
多分自分の体裁とか考えずに包丁もって差しに行くと思う。

悲しい出来事

一番言って欲しくない人から、言って欲しくない言葉をそれも、何度も言われた事は私にとってかなりの傷であった。

会う度に話しのネタだと思っているのか言う父親。
そしてその話を聞くたびに体調が悪くなる私。
自分の体がもたないと思った。

ただでさえフラッシュバックが起こるのに、それを繰り返すのだ。正直たまったもんじゃない。

親だからきっと味方になってくれる。

そんな幻想を抱き私は両親に話をしたのだ。
しかし私は根本的な勘違いをしていた。

うちの親は普通ではなかった事を忘れていたのだ。
どこかに期待していた。
でもその期待はガラガラと音をたて、崩れていった。

もう年を重ねた2人の両親。
あの性格は治らないだろう。
私が我慢するしかないだろう。

しかし、私は聞くたびに体調が悪くなり、域値は下がり続け、突然ちょっとしたトリガーでぶっ倒れる。

私の我慢は限界だと思った。

自己責任って言葉が嫌い

自己責任という言葉が私に重くのしかかった。

自己責任ってなんなんだろう。
レイプされた人に自己責任って何をしたら自己責任を取る事にになるのだろう。
これは死ねと言っているのか?
別に死ぬなら死んでもいい。

なぜ被害者の批判をするのか。
それも親が。

そう思うと悲しみと虚しさがこみ上げてきた。

もう耐えられないとおもった。
だから私は両親との縁切り宣言をしたのだ。
私の身を守るために。

私の主人から両親ときょうだいに伝えてもらった。
身内全部と縁を切ること。
何かあったとしても行かないこと。

伝えてもらったら、両親は主人に"申し訳ない"という言葉を伝えていたと思う。
そんな役割を担ってくれた主人には感謝しかない。

そして、基本"体裁を取り繕うことしか考えていない"ように感じる両親には残念さを感じる。
と同時にいつかわかってくれる事も心の片隅で期待している。

長年それで生きて来たから変わらないだろうと思いつつもどこかで謝罪してくれることや理解してくれる事を願っている私がいるのだ。

今日次男の問診票の内容から、ふと自分の過去を思い出した。

子供たちの未来に思い馳せる

うちの子供たちは本当にすくすく育っている。
これはうちの主人のおかげだと思う。
大きな心の器で受け止めてくれている主人。
私のことを気遣い愛してくれ、主人なりに全力を尽くしてくれていることに感謝しつつ、自分は本当にこの家族に出会えてよかったと思う。

みな楽しく過ごしている。
それぞれが目標もち、それぞれの世界で頑張って取り組みすくすくと育っている。

そんな環境に今いることは本当に幸せだ。
パートナーに感謝。子供たちに感謝。
そして私は改めて幸せなんだ。
そう思った。

いつかまた私の体調が心身ともに落ち着いたら、戻れる日が来るだろうか。
くるかもしれないし、来ないかもしれない。
いずれにせよ、今は自分の事にフォーカスしよう
今を楽しんでいこう。

そんな事を思った本日であった。
明日もいい事ありますように。


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