見出し画像

第7回「いじめ法を知らずに教壇に立つのは、道交法を知らずして運転するようなものだ!」

<急逝4カ月前・気迫の講演>

いじめ認知における先生間・学校間・地域間の“格差”や“バラつき”問題を紐解くには「いじめの定義」の話を避けることができない。何をいじめとし、何をいじめとしないか。その境目を、いじめ研究の泰斗、故・森田洋司は、どう語っていたのか。

2019年の大晦日に亡くなった森田は、死のわずか4か月前にも講演をしていた。場所は、兵庫県多可町。この町では2017年5月、当時小学5年生の女児が自ら命を絶つ重大事態が発生した。女児は4年生のころから仲間外れにされたり、他の児童と遊ぶことを制限されたりし、精神的に疲弊して自殺に至った。
2019年3月、多可町いじめ調査委員会は町に「いじめが自死の最大の要因」と調査結果を報告。報告書には、女児が4年生の時の全員へのアンケートで女児がいじめを受けていることをうかがわせる回答が複数あったのに、担任教諭が対応していなかったことも問題点として指摘された。

「多可町いじめ調査委員会 調査報告書」(公表版)
平成31年3月31日

2016年6月と9月の「いじめアンケート」では、「あなたは今、いじめられているように思いますか?」という質問に、女児が「なんとなく」の「な」に〇を付けかけた跡があった。11月のアンケートでは「はい」に〇を付けて消した跡があった。しかし、学校の対応はなかった。
さらに同年11月の「友だちアンケート」では、3人が「女児が仲間はずれにされていた」と記載していたのに、その事実関係すら調査しなかった。
当時の多可町は「いじめ認知」に消極的で、いじめの記載への対応もしないまま、結局、この女児の自死という最悪の「重大事態」を招いてしまったのだ。

<森田洋司の一喝>

その後、多可町は再発防止に向けて、動き出した。教職員の資質向上を目的に教職員研修会を計画し、森田洋司に講演を依頼した。
2019年8月19日、会場には町内全ての公立学校、小学校5校と中学校3校の全教職員200人以上が集まった。講演のタイトルは「今、改めて見直す。いじめの捉え方と対応のあり方」。当日病気などで参加できなかった教職員のために講演は録画され、後日、視聴するよう町教委から指示が出た。私もその映像を見た。

冒頭、多可町の担当者による森田の紹介が終わると、森田は「そんな偉いもんじゃない。その辺にいるおっちゃん、おじいちゃんや」と言いながら、早速、教職員たちに問いかけた。
「2013年施行の『いじめ防止対策推進法』についてです。“法律やから守れ!”というのではないのですが、この法律を読んで、学校で話し合いをしたことがある人は手を挙げて!」。手はあまり挙がらない。
森田は続けて、「じゃあ運転免許、持っている人?」と聞いた。こちらは大勢の手が挙がった。

ここで森田は一喝した。「免許とる時、何いります? 運転する人は道路交通法を知らな、あかんでしょ。むこう(運転)も人の命がかかっている。でも、こっち(教育現場)も命がかかっている。人の命を扱って子どもを指導する皆さんが、法律を読まず、内容も知らず、研修もせず! これは道交法を知らずして車を運転するようなもんや! 全体をまとめて書いてある法律に何が書いてあるのか。これをどう解釈して自分たちの現場へおろすのか!?」。会場は静まり返り、緊張感が高まった。

写真①多可町

(写真提供:多可町教育委員会)

と、今度は急に穏やかな声になって、「まず最初、一発カツーンと。私も大阪の人間ですから言いたいことは言います」とユニークな表現で“先制パンチ”をかましたのだと宣言した。


<現場も戸惑う「いじめの定義」>

全国の学校現場を回ってきた森田は、よく「いじめの定義が広すぎる」とか「わからん」とか「どうすればいいのか」と教職員たちから聞かれたという。
私も今回、現役の教員たちに、「いじめ定義」の広さに面倒だと感じたり、困惑したりしたことがあったか、聞いてみた。すると、やはり「ある」という声が複数寄せられた。

勤務校では「被害者側がいじめられていると感じていたらいじめ」と捉えることになっています。あくまでも弱い立場にいる児童を守るためです。しかし、低学年と高学年、又は意識に個人差があるため、本人が「いじめられた」と言っても、「これはいじめか?」と判断に困ることがあります。 (兵庫県小学校教員・30代)
文科省の定義が広いので、「叩かれた」も本人の訴えによりいじめになります。担任としてはいじめと捉えますが、担当への報告としては、一件と数えないようで、報告の基準が曖昧です。学年で相談して決めるよう言われています。 (神奈川県小学校教員・40代)
低学年は、アンケートに「いじめられたことがある」と答えていた子たちが多くいました。しかし話を聞いてみると、ただのケンカでした。 
(静岡県小学校教員・20代)
生徒指導担当をした時にいじめの件数を毎月報告していました。しかし、本当にささいなケンカ(ちょっとたたいた、悪口を言われた)でも「いじめ」と挙げざるを得ず、「いじめ調査」としてこれでいいのかと思いました。 (兵庫県小学校教員・40代)
いじめの定義は、幾度か変遷した中で、改善はされつつありますが、まだまだ定義が曖昧で、管理職や担当教諭によっては、その都度、その都度、ケースによって諮る場合もあります。 (大阪府小学校教員・40代)

一方、定義をめぐる迷いは何もない、という声も少なからずあった。

困惑したことはありません。校長先生から“いじめはされた側がそう感じたらいじめだ”と言われていて、その共通認識のもと、動いています。 
(東京都小学校教員・40代)

私の学級で今年いじめが起こり、市教委に報告しました。学校側で困惑したり面倒に感じたりすることはなかったです。 
(愛知県小学校教員・30代)
面倒だと感じたり、困惑したことはありません。 
(東京都小学校教員・20代)

地域や学校によって、定義の共通認識がきちんとできていたり、できていなかったりする現状が浮き彫りになった。

困惑している教員が少なからずいることを受けて、森田は講演の度に「それなら皆さん、いじめの定義が書いてある法律をちゃんと読んだことがあるのか?」と聞いていたのだ。
実際、多くの教職員が「いじめ防止対策推進法」の概要を知ってはいても、ちゃんと読んではいなかった。だから多可町の講演でも、「“法に従って定義”って何ですねん?、とか聞かれるけど、こっから(この法律から)が始まり。こんなに多くの方が読んでいない状態なら、いつまでたっても(いじめの状況は)改まりません。しっかり法律を読みこなしてください!」と力を込めた。

「いじめ防止対策推進法」

画像14


<法律に書かれている「いじめの定義」>

森田は法律のどこを特に読んでほしかったのか。いじめの定義そのものは「いじめ防止対策推進法」第2条に書いてあるが、その前提として森田が全教職員に読み直してもらいたかったのは、第1条の「法の目的」だった。

写真②いじめ法

(森田の講演スライドより)

第1条には、法律の目的が“三段論法”の論理構成で書いてあるが、「ここがどうも、ちゃんと理解されていない」と森田は言う。
まず第1段目は、大津市のいじめ事件を受けた法律であることを踏まえて、いじめによる身体や精神へのマイナスの影響について、「いじめで被害が生じるよ」と記してある。
そして第2段目が短いフレーズながら最も大切なところで、被害があることに鑑みて、「児童等の尊厳を保持するため」にこの法律があると書かれている。
そして第3段目に「対策を講じる」とある。
なぜ、この真ん中の第2段目が大切なのか。私が取材した森田の別の講演(2018年2月)では、こう説明していた。

①被害の発生 ⇒ ②「児童等の尊厳の保持」という目的 ⇒ 
そして③対策   という三段論法なんです。

つまりこの法律の目的は「児童の尊厳を保持する」こと。“尊厳を保持する”ために方策を講じる。
これが現場では、どう間違って捉えられているか。「被害がある」から「方策する」という単純な二段構えのロジックで走っている。一番上と一番下の段しかなくて、重要な真ん中の「尊厳」のところが抜けている。
現象にどう対応するか、じゃなくて、「何のために対策をやるの?」という視点が抜けている。すると、対策する学校側は「被害があるから仕方ない」「法律にあるから」とか「義務だから」とか、受け身の姿勢が出てしまう。教育や指導は、頭で分かっていただけではダメ。実感として、自分のこととして捉えなければならない。
被害があるよ、だから対策を…。そんなふうに“現象”だけで走ると、本来の教育が抜けてしまう。ダメなケースでは「まずは、いじめかどうか判断しましょうか…」となってしまう。だから、この第一条「法の目的」という大前提が非常に大事なんです。
人権として捉えるなら、個人に内在化した権利というだけでなく、他者の人権、存在にも着目する。相手の人格や存在が、重要になる。自分だけでなく、他人の人格も大事にする。それが大きな目標として出てくる。だから真ん中の二段目が大事。教育における最終目標が明示されていると捉えてほしい。
気づいている学校は、ちゃんと気づいているが、しっかりと改めて認識してほしい。

森田は、この法律の最終到達地点は、子どもに人としての尊厳を持たせ、保たせていくことであり、これが大きな目標だと強調した。自分は一人の人間としてこの世に生まれたかけがえのない存在だと自覚し、自分だけでなく他人も同じだと自覚する中で、それをずっと保たせていくのが、周りの大人の、あるいは子どもたちの成長を支援していく者の責任だ、という。


<いじめ法にもとづく正確な定義の認識を>

では、いよいよ第2条の定義だ。

写真③いじめ法定義

(森田の講演スライドより)

第二条 この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。
*この法律において「児童等」とは、学校に在籍する児童又は生徒をいう。

第2条を思い切りシンプルにすると、「いじめとは、その子がされてイヤだと思ったこと」。今の法律では、ものすごく広い定義なのだ。

だが、長年、国の「いじめ」定義は、狭かった(本note巻末の“定義の変遷”を参照)。
文部科学省の「いじめの定義」は、基本的に『児童生徒の問題行動・不登校調査等生徒指導上の諸課題に関する調査』における調査上の定義になるが、1985(S60)年度から2005(H17)年度までの21年間は、基本的には以下の通りだった。

「いじめ」とは、①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

1994(H6)年度以降は、「個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと」と注釈がついたが、何しろ定義そのものが狭かったため、①~③のいわゆる「いじめの性質」が一つでも欠ければ“いじめではない”と判断するケースが、学校現場には頻繁にあった。それが“見逃し”や“見ないふり”につながった。

誰もが一度や二度は見聞きしたり、直面して悩んだりしたことのある「いじめ」。自らの経験やこれまでの国の定義づけもあって、それぞれ思うところの“いじめ定義”は大きく異なる。広く捉える人がいれば、未だに狭く捉える人もいる。だが、今の法律ではあえて非常に広く定義づけ、苦痛を与えたら「いじめ」としたのだ。
被害児童の立場に立つことが必要で、苦痛についても、表面的・形式的に捉えることなく、心に傷がつけば、あるいは傷つけてしまったら「いじめ」。そのような結果責任に近い行動の定義になっている。


<定義づけは“物差し”>

講演で森田は、「この法律による正確な定義の周知と徹底が大切だ」と繰り返し述べていた。というのも、定義づけは“物差し”であり、少なくとも教職員は皆が同じ“物差し”でまずは認知しなければならず、勝手に判断してはならないものだからだ。
この法律上のいじめの定義は、実は、森田自身がいじめ研究者として考える定義とも異なる。それでも、この法律で定義づけて対応していくことは重要だと森田は述べていた。

写真④多可町

(写真提供:多可町教育委員会)


<法の定義とのギャップを認識せよ!>

いじめの捉え方として、大きさの異なる三重の円をイメージすると分かりやすい。
真ん中の小さな円は、“誰が見ても明らかにいじめ”だと考えられる深刻なケースで、それが「核」になる。
しかし、いじめには軽いものもあり、その最大公約数が真ん中の円の「社会通念」だとしよう。すると、それよりさらに広い円、子どもたちの尊厳を傷つける行為の全てが「法律上のいじめの概念」に当たる。

写真⑤いじめ法三重の円

この右上の図が“三重の円”を表す↑
(森田の講演スライドより)

つまり、一般の人が考えるいじめと、法律上のいじめとの間にはギャップができる。そのポイントとなる4点を、森田は以下のように示した。
第1に「行為の継続性や反復性は削除されている」ので、いじめの定義には関係ないということ。2005(H17)年度までのいじめの定義から「継続的・一方的・深刻」という文言は削除された。だから今の法律では、一回限りでもいじめに該当する。
第2に「被害の軽重には無関係」だということ。軽いものも重いものも、どちらもいじめであり、軽重を判断するのは、被害者本人になる。これも2005(H17)年度までの定義では「相手が深刻な苦痛を感じている」とされていたが、変わった。
第3に、「加害者の意図・故意という動機は定義に含まれない」ということだ。いじめる側の心理的な動機も現行法の定義にはない。いじめという行為は、必ずしも邪(よこしま)な「悪」の意思から作られるものではなく、例えば「嘘つきのあいつを正さなきゃ! それがクラスのためだ」など「善なる意思」から作られることもある。一方、善悪の判断が欠落した「無自覚」(「そんな気(悪気)はなかった」など)から作られることもある。

写真⑥いじめ法動機

(森田の講演スライドより)

無自覚について森田は講演では次のように説明し、「いじめ」を「学び」に繋げようと呼びかけている。

例えば、集団の遊びの中での行為というと、よくこの無自覚パターンがある。集団の雰囲気にのめり込みながらというものです。さらに無自覚としては、欧米から注目されているのですが、私たちの文化構造に根ざした無意識に習慣化された行動から、というものもあります。価値観・偏見・差別がこれに属します。なかなか気づかない。
それらを掘り起こしながら「教育・学び」にしていく。教育が取り組まなければならないところです。
これからは外国に繋がる児童生徒も増えていきます。障がい児童、LGBT、被災児童など配慮の必要な子どもについても考えなければなりません。
例えば、貧困に苦しむ一人親も多くなっていますが、それを子どもたちは知らないから平気で突っ込む。「お前、洗濯もしてないシャツで臭いな。触るな。お前が触ったものは食べない」と。でも大人の方にも「一人親なら…」という意識がどこかにある。やっぱりな、と。それは“排除の論理”を含んでいます。文化行動の中に根ざしている。それを改めて、いじめ問題をきっかけに掘り起こし、そこに「学び」を入れていく。子どもも大人も学ぶ必要があるのです。
“いじめ心”とも言える、「悪・善・無自覚」。怖いもので、人には逃げ場がありません。「善なる意思」も「無自覚」も、影のようにスーッと私たちの心に忍び込んでくる。そこに着目すると、いじめは誰しもが関わってしまう問題になる。全く不思議ではないのです。
私だって「いじめの権威」とか言われながら、この前まで大学の学長として「お前、しっかりしてくれ!」とかパワハラのような悪を実行していたわけです。
もちろんその際は、周りも言ってくれるので難を逃れましたけれども、人である以上、誰にでも影のように忍び込んでくるのです。
だから“悪が悪を作る”、つまり「邪な意思」がいじめを起こすという図式だけでいじめを解釈するのではなく、人間の存在の中に、“いじめの心”が常に影のように忍び込む。そういうふうに捉え直す必要があります。日常生活の中で、自らの意思や行動の「振り返り」を行うことが大切です。ご注意いただきたい。

第4の“ギャップ”のポイントは、2005(H17)年度までの定義では、「自分より弱いものに対して一方的に」とされていたが、必ずしも“優位と劣位”は固定された関係ではなく、「影響を与えあう関係からも発生する」ということだ。
いじめという現象の本質は、森田によれば“力関係(影響力)の悪用・乱用”だという。影響力とは、人が関係を結んで集団や組織を作り、社会生活を営む上で不可欠な普遍的要素だ。
世界のいじめ研究者たちによるいじめの定義としても共通して、“力関係(影響力)の非対称性(アンバランス)の悪用や乱用”が、いじめ発生メカニズムの最も本質的な基本要素として挙げられている。だからこそ、人間関係や集団の活動に影のように忍び寄ってくる「どこにでも誰にでも起こりうる」現象なのだ。
そのため“いじめ”は、子どもだけに特化した現象ではない。大人社会のパワハラ・セクハラ・虐待・DVなどと同じメカニズムで発生する。

森田は以上4つのポイントを挙げながら、いじめ法の定義と社会通念との間にはギャップがあり、それを認識しておくことが必要だと述べた。

いじめは日常にあり、だからこそそれぞれ皆、違う概念があるのですが、教育現場に入れば、子どもたちから見れば先生は一人一人が規範になります。それなのに校内で先生たちのいじめ定義についての意見が分かれていては、指導も何もあったもんじゃない。
尊厳の保持にかかわる中で、相手を追い詰め、弱い立場に追い込み、様々な影響力を行使する。そこにいじめという行為があると認識する。尊厳の保持が重要です。
それを念頭において、自分の概念と照らしてどうなのか、フィードバックする。法律上のいじめと社会通念とのギャップを認識した上で、ちゃんと埋めておいて欲しい。


<けんかもチェックを>

さて、ここまで踏まえた上で、“けんか”についてはどう見るか。先程の現役教員からの定義をめぐる声の中に、「アンケートにいじめとあったが話を聞いてみると、ただのケンカでした」とあったが、“けんか”についても注意する必要がある。
2013(H25)年に「いじめ防止対策推進法」が施行され、それにあわせて国の「いじめ防止基本方針」が策定されたが、その後、2017(H29)年3月に問題点を踏まえて改定されている。森田はその作業に「いじめ防止対策協議会」の座長として関わった。
その中で、「けんか」についてもしっかり見るように書き込まれた。改定後は、「けんかやふざけ合いであっても,見えない所で被害が発生している場合もあるため、背景にある事情の調査を行い、児童生徒の感じる被害性に着目し、いじめに該当するか否かを判断する」としている。

基本方針の改定 2017年3月

道交法も時代と共に変わる。そして、「いじめ防止対策推進法」の運用も更新される。教職員たちは多忙な中でも、子どもたちの命を守るために、情報をアップデートし続けなければならない。


<多可町の教職員たちの感想>

2019年夏、逝去の4か月前に行われた森田洋司の講演を兵庫県多可町の教職員たちは、どう聴いたのか。

写真⑦多可町

(写真提供:多可町教育委員会)

受講者アンケートには、教員たちの率直な思いが綴られていた。

“いじめ防止対策推進法”の内容、読んだか!?の問いには、背筋の伸びる思いでした。読みます。 (男性教員・30代)
基づくものは何であるか。法について学んでいなかった。 
(女性教員・
年代不明
自分の認識や知識の甘さを痛感しました。 (女性教員・30代
教師たちが“共通理解”ではなく、“共通の認識”をしておくことが最も必要である。 (男性教員・40代

写真⑧-2多可町

(写真提供:多可町教育委員会)

法律にある「いじめの定義」で全ての教職員が“共通の認識”を持つこと。そしてその定義に基づき認知すること。それこそが、“いじめの芽”を摘むための第一歩となる。子どもたちの尊厳を傷つける全ての行為を常にウォッチする姿勢が、求められている。

資料:「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」
におけるいじめの定義の変遷

       *2015(H27)年度以前の調査名称は
       「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」

【1985(S60)年度調査~1993(H5)年度調査までの定義】
いじめを「①自分より弱いものに対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているものであって、学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わないものとする。」として調査。

画像10

【1994(H6)年度調査~2005(H17)年度調査の定義】
この調査において、「いじめ」とは、「①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。」とする。
なお、個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと。

画像11

【2006(H18)年度調査~2012(H24)年度調査の定義】
本調査において、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。
「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。
なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
(注1)「いじめられた児童生徒の立場に立って」とは、
    いじめられたとする児童生徒の気持ちを重視することである。
(注2)「一定の人間関係のある者」とは、学校の内外を問わず、例えば、
    同じ学校・学級や部活動の者、当該児童生徒が関わっている仲間や
    集団(グループ)など、当該児童生徒と何らかの人間関係のある者
    を指す。
(注3)「攻撃」とは、「仲間はずれ」や「集団による無視」など直接的に
    かかわるものではないが、心理的な圧迫などで相手に苦痛を与える
    ものも含む。
(注4)「物理的な攻撃」とは、身体的な攻撃のほか、金品をたかられたり
    隠されたりすることなどを意味する。
(注5)けんか等を除く。

画像12

【2013(H25)年度調査からの定義】
※ いじめ防止対策推進法の施行に伴い、平成25年度から以下のとおり定義されている。

「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係にある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」(いじめ防止対策推進法(平成25年法律第71号)。(以下「法」という。)第2条第1項)をいう。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含まれる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮の上で、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。

(注1)個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的
    に行うことなく、法が制定された趣旨を十分踏まえ、行為の対象と
    なった者の立場に立って行うこと。特に、いじめには多様な態様が
    あることに鑑み、いじめに該当するか否かの判断に当たり、定義の
    うち「心身の苦痛を感じているもの」との部分が限定して解釈され
    ることのないようにすること(例えば、いじめられていても、本人
    がそれを否定する場合が多々あることを踏まえ、当該児童生徒の表
    情や様子をきめ細かく観察するなどして確認する必要がある。)。
(注2)「一定の人的関係」とは、学校の内外を問わず、同じ学校・学級や
    部活動の児童生徒や、塾やスポーツクラブ等当該児童生徒が関わっ
    ている仲間や集団(グループ)など、当該児童生徒が有する何らか
    の人的関係を指す。
(注3)「物理的な影響を与える行為」には、身体的な影響を与える行為の
    ほか、金品をたかったり、物を隠したり、嫌なことを無理矢理させ
    たりすることなども含まれる。
(注4)「行為」には、「仲間外れ」や「無視」など直接的に関わるもの
    ではないが心理的な圧迫等で相手に苦痛を与えるものも含まれる。
(注5)けんかは除くが、外見的にはけんかのように見えることでも当事者
    となった児童生徒の感じる被害性に着目した見極めが必要である。

※ 2016(H28)年度より(注5)を以下のとおり変更。
(注5)けんかやふざけ合い、暴力行為等についても、背景にある事情の
    調査を行い、児童生徒の感じる被害性に着目し、いじめに該当する
    か否かを判断する。


川上敬二郎さん

川上敬二郎 TBS報道局報道番組部ディレクター

ラジオ記者、報道局社会部記者、「Nスタ」・「NEWS23」・「報道特集」ディレクターなどを経て現職。2003年4~6月「米日財団メディア・フェロー」(アメリカ各地で放課後改革を取材)。2005年、友人と「放課後NPOアフタースクール」を設立(2009年にNPO法人化)。著書に『子どもたちの放課後を救え!』(文藝春秋・2011年)など。2019年6月に「ザ・フォーカス~いじめ予防」をOA。現在、続編を取材中。