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「屈辱に耐え続けた」難民選手が五輪で取り戻した“尊厳”

新型コロナウイルスの感染が世界を揺るがすなかで開催された東京オリンピックに、紛争などで国を追われた29人からなる「難民選手団」が出場した。生きるため難民となった選手たちが、どのような思いで「平和の祭典」に臨んだのか。自分と同世代の20代の2人の選手に話を聞いた。

Zoomインタビューサムネ

シリア内戦から泳いで脱出・・・ユスラの物語

「Hi Miko, how are you?」
オンライン・インタビューの画面がついた瞬間、屈託のない笑顔を見せてくれたその女性は、競泳女子のユスラ・マルディニ選手(23)シリア出身。7月23日の開会式で難民選手団の旗手を務め、翌日100メートルバタフライに出場、予選敗退したが、大舞台に立てた喜びに笑みがこぼれた。

開会式旗手サムネ

17歳だった2015年、紛争が激化する母国シリアを脱出し、ヨーロッパを目指してエーゲ海を渡る途中、多くの難民を乗せたボートのエンジンが故障。沈みかけた船体から姉とともに海に飛び込み、ロープでボートを引っ張りながら3時間半泳ぎ続け、ギリシャにたどり着いた

「すべてに応えようと」リオ五輪後の葛藤

2016年のリオデジャネイロ五輪に出場後、世界中のメディアがそのドラマチックな物語の主役である彼女をこぞって取り上げ、一躍有名人となった。出場種目にちなみ「バタフライ」と名付けた自伝は世界中で読まれ、来年にはNetflixでの映画化も決まっている。しかし、その「美しい物語」は、彼女を苦しめたという。

自伝サインサムネ

(ユスラ選手「Instagram」より)

記者:
(リオデジャネイロ五輪)出場後、あなた自身にどのような変化がありましたか?

その当時の心境を尋ねると、ユスラ選手はため息をつきながらこう答えた。

ユスラ選手:
正直言うと、良いことも悪いこともありました。いきなりスポットライトが当てられ、要求されたことにすべて応えようとした。でも気が付けば、目標を失い、つぶれそうでした。私はまだ18歳の少女でしたから。

ポジティブなイメージが強い彼女の口から、初めて聞く本音。それでもなお彼女は発信を続けている。それはなぜなのか。毅然とした表情で言葉をつなげた。

ユスラ選手:
2度と思い出したくもない話をこうやって何度も話すのは、私だけでなく、世界の難民に目を向け、想像してほしいからです。競泳のおかげで、五輪に出場することができて、やっと多くの人が自分の声に耳を傾けてくれるようになりました。今は、その声を難民のために使いたいのです。

世界では8200万人を超える難民が苦難の生活を続けている。
では、開催国となった日本の難民への対応はどうか。昨年は3936人の難民申請者に対し、入管当局が認定したのはわずか47人で、最大で数万人規模で受け入れている世界の主要各国と比べても、極めて低い水準だ。

記者:
日本の難民認定率がどれくらいか知っていますか?

ユスラ選手に聴いてみた。

ユスラ選手:
知っています。1%ほどですよね。実は、日本人に『難民』のことを知ってもらうことが、東京五輪に参加する一つのミッションでした。日本人は世界で一番優しい人々だと感じています。だからこそ、多くの人が『難民』の現状をあまり知らないことをとても悲しく思う。日本は最大の援助国の一つですが、難民への門戸を広げることも重要です。難民は受け入れられれば、学び、働き、国を支える存在になれるということを知ってほしい。

そう語る表情は、希望に満ちていた。

アフガニスタンの柔道家 ニガラの物語

幼少期サムネ

もう一人は今回「五輪初出場」の夢をかなえた、柔道女子のニガラ・シャヒーン選手(28)アフガニスタン出身だ。難民選手団の混合団体のほか、個人戦で女子70キロ級にも出場した。

1993年、内戦が激化する祖国に生まれ、生後6か月で母親に抱えられ隣国パキスタンに逃れた。異国で現地の子と同じように学校に通い、暮らしていたが、ある時、心の変化が訪れる。

ニガラ選手:
8歳の頃でしたか、学校でパキスタンの国歌を歌っていた時、ふと、自分との繋がりを見いだせないことに気付いたんです。「なぜここにいるんだろう」と。自分のアイデンティティを失った心地でした。

文化も言語も家族のものとは違う。孤独の中にいた彼女を救ったのが、「柔道」との出会いだった。

ニガラ選手:
柔道で最初に教わったのは、「どのように倒れるか」ということ。うまく倒れることができないと、うまく起き上がることもできません。私はこれまで何度も挫折を味わってきましたが、それには意味があったのだと思えました。そう、柔道の教えが、私の人生を救ってくれたんです。

柔道との運命の出会いを通し「どんなに悲惨な境遇も、前を向くエネルギーに変えられる」と気付いたニガラ選手。その後、難民選手団のメンバーに選ばれ、目標だったオリンピックへの切符を手にした。

ニガラ選手:
これまで『難民』というだけで周囲から蔑まれ、屈辱に耐え続けてきました。でも、東京五輪で『難民選手団』として世界に受け入れられた時、一人の選手として、一人の人間として、尊厳を取り戻したように感じたんです。

そして、わずか90秒しか許されない試合直後のインタビューでも、語気を強めてこう話した。

ニガラ選手:
私が生まれたアフガニスタンという国では、多くの女性が焼かれ、殺され、迫害されています。そんな国から来た私が、この大舞台に立てたのだから、誰だって可能なのです。ただ、ほんの少しの支えが必要なだけ。私が難民選手団として出場することで、世界中にこの現状を知ってもらい、支えてもらいたい。

「無関心」を変えたい

2人が自分の物語を語ったのは「自分たちの姿を通して、後ろにいる8200万人の難民の物語を想像してほしい」という思いからだった。コロナ禍のもと、今も世界各地で絶望的な日常を生き抜く難民たちがいる。

彼女たちがオリンピックで見せた闘いは、競技場での試合だけでなく「世界の無関心」との闘いでもあった。彼女たちの存在によって、世界の難民を「知る」人が増える。知る人が増えれば、おのずと次の行動に繋がる

インタビューに答えてくれた若い2人にとっての母国は「シリア」と「アフガニスタン」しかない。いつか故郷の土を踏む日が来ることを心の底から願い、夢見ている。スポーツを通して居場所を見つけ、オリンピックという「平和の祭典」を通して「人間としての尊厳」を取り戻した彼女たちが発したその思いが、多くの人に届くことを願ってやまない。

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城島未来 記者

2016年入社。報道局社会部で警視庁担当として災害や事件現場を取材。去年から都庁・五輪担当。子ども時代を南アフリカ共和国で過ごし、異文化、言語、食、自然、野生動物が好き。