磨くことが「稼ぐ」につながる。特産品開発のプロが説く、真の地域ブランド戦略〈“あらた”の地域創生 Vol.1〉
20年以上にわたって地域創生事業に関わってきた菅慎太郎。国内最大級のふるさと納税総合サイト「ふるさとチョイス」の運営会社トラストバンクに参画前から、日本全国の特産品開発とそのブランド化を成功させてきました。そんな菅の連載コラム「“あらた”の地域創生」では、従来の地域創生を超えた、“新たな”地域創生を方法を探りながら、地域の魅力を高めていくヒントをお届けします。
第一弾となる本記事では、“言葉”が持つ本来の意味を再考。「稼ぐ」や「儲ける」という言葉の解釈、「地方」と「地域」の違いなどを通じ、「地域経済循環」のあるべき姿を探っていきます。
はじめに
少子高齢化がもたらす人口減少に伴い、改めて「地域」という単位から、生活、社会、国を考える時代に直面しています。けれども、「地方」と「地域」という言葉が区別されることなく使用されているように、大局的には同じようでも、各論や細部の課題や方法を突き詰めていくと、様々な「ズレ」が生じていることがあります。言葉は、対象をとらえ、意味を与えるものです。ここでは「地域創生」という考え方から、新たに「地域」のとらえ方を定義し、未来を創生する姿勢を問うて行きたいと思います。
「稼ぐ」を妨げるもの
人々が生活をしていく中で、切っても切れない「稼ぐ」ということを、自信を持って目標や宣言として言える人は、少ないように思います。それは、日本人の価値観として存在している「勤勉」や、地域を代表する「ムラ」といった中で、個人や一部の人だけが「稼ぐ」ことを忌み嫌う感情が、多くの人の潜在意識として存在し、恨みや妬みという形で、人間関係をこじらせていることに起因することでしょう。
けれども、平成25年度から政府が掲げる「まち・ひと・しごと創生総合戦略」の4つの目標の1つには、次の一文が挙げられています。
つまり、地域は「稼ぐ」ということを真正面からとらえ、実行していくことが求められているということです。総論としては賛成していても、これが地域や地区、あるいは地域に暮らす一人ひとりという単位にまで具体化していったときには、きっと口にすることを避けてしまうような空気感がそこには存在していることでしょう。
「地域で自分だけ稼いだら、嫌われてしまうのではないだろうか」
「うちの地区だけ稼いだら、隣の地区から妬まれたりしないだろうか」
そうした心配が出てくるのも無理はありません。地域とは「共同体」によって成り立ち、そこに住まう人が相互に助け合い、協力し合い、ときに我慢や自制することによって調和されてきたことでしょう。「特異なこと」や「偏ったこと」が、問題の引き金、特に人間関係を取り乱す原因であることは、言わずもがなです。
けれども、「稼ぐ」ということは、本当に嫌悪されることなのでしょうか。表意文字としての由来を持つ漢字の意味を紐解けば、もしかしたら「間違った解釈」が多くの誤解を生んでいるだけではないか。真意を正しく受け入れれば、私たちが勤勉で、自然と調和し、そして稲作や畑作を通して地域を開墾してきた歴史そのものを「肯定」できるのでないか、とも思うのです。
「稼ぐ」という意味からあらためる
「稼ぐ」というと、日本人の多くは「否定的」な感情をもたれる場合が多いように思います。それは「儲ける」という意味が、“金銭への固執”や“なりふり構わず”といった側面を想起することが多く、忌み嫌われていることにあるのでしょう。勤勉を重視する姿勢において、必要以上に「稼いで」はいけないといった心理的な壁も、「稼ぐ」ということを表立って進めることや発言することを抑止しているかもしれません。
しかし、「稼ぐ」の文字の由来を紐解けば、漢字としては「禾(穀物)+家」で「穀物を植える」という意味を持つものです。農耕という弥生時代から続く日本の礎を表した意味を持つ言葉とすれば、日本人としての「稼ぐ」は肯定的に捉えることのできる言葉といえるでしょう。
また、「儲ける」という意味も「利益を得る」といった側面は、どちらかといえば近代において社会の相対的な関係によって用いられてきたことであり、そもそもの由来は「跡継ぎやたくわえ」といった意味を持つものです。
こうした言葉の持つ意味をあらためて見直してみても、私たちが一部のイメージを切り取り、偏った一面をすべてのようにとらえてきたことが、本質的理解を妨げ、誤解を積み重ねてきたといえるでしょう。これは、言葉だけに限らず、地域のおける「人間関係」においても同じことかもしれません。「一部をすべてのようにとらえること」これが、多くの誤解とズレを生じさせる原因です。改めて、日本語を母語として持つ私たちは、その意味を改めてみる必要があるのかもしれません。
「地方」と「地域」が持つ意味
では、「稼ぐ」地域になっていくために、何をすればいいでしょうか。それは「誰か」ではなく「自ら」稼ぐという意識と姿勢を持つことです。少々細かいことを言えば「地方創生」ではなく「地域創生」として、主体性なとらえ方をすることです。
まず、「地方」と「地域」の違いを、使い分けてみるのがいいかもしれません。「地方」とは、首都との方向性を示す対局概念であり、そこには「中央から見た」といった視点が存在します。一部には従属的な意味さえ想像されることもあるでしょう。一方「地域」とは、生活を営む人の集合体として並列、独立した存在です。国と地方の関係が対等とされる中で、地方自治の根幹をなす主体的な責任と行動が問われる意味においても、「地方」と「地域」は目的にあわせて使い分けすることが肝要でしょう。
もちろん、コロナ渦のような時代の新たな課題に直面したときには、施策や取組が「法定受託事務」か「機関委任事務」の区分に戸惑い、国と地方とが対立構図のような形になったこともありました。こうした有事に備える点でも、平時から「地域の主体性」は首長や行政機関だけでなく、地域の住民や会社、そして関わるひとり一人が「誰か」ではなく「わたし」の集合体が「地域」であることを自覚し、生活していくことが地方自治を主体的に構成する基本となるでしょう。
「見せる」だけでは「魅力」にならぬ
地域経済へのインパクトを与える変化の1つに、EC(電子商取引)などのネット通販は、リアルなお店を持たずとも、いつでも、どこのお客様へも販売する機会をもたらしてくれました。遠方のお客様に商品を販売し、店頭とは異なる販路で商いをすることができるようになったわけです。これによりどんなに遠い山間部の地域や、都心から離れた地域であっても、「知ってもらう」「稼ぐ」という手段を手に入れることができました。ふるさと納税も、寄付金という収受の違いはあれど、基本的な構造は変わりません。
市場の多くを占める都会からは遠い「地域だから」という理由で、妨げとなっていた時間と場所の自由を、いま、すべての地域が等しく手に入れているのです。これにより、ECとしての売り上げや、ふるさと納税などを通して、都会から地方へのお金の流れを生み出し、地域がこれまで以上に「稼ぐ」ことができるようになりました。
けれども、誰かが提供する広告や販促メニューを選択するだけでは、地域が「主体性」を持って「稼いで」きたとは言えないように思います。本来は地域に存在する地域資源や特産品、さらに観光資源といった地域資源は、「見せる」のではなく「見つけて」もらうものです。ならば、自ら「磨く」ことが最も大切なことで、誰かに「見せる」だけでは、目新しさという「魅力」でしか勝負できないでしょう。強調や誇張する「見せ方」が、地域を超えたら「どれも同じ」に見えてしまうことや、成長が無理を生じさせ、産地偽装や品質を劣化させてきたことは、これまでの事例が物語っていることでしょう。「地域」は「奇をてらう」必要はないのです。
経済循環を通して「稼ぐ」
それでも一方的に「見せる」だけの広告のみに予算を投下することは、一時的には効果をもたらしても、「欲しくない」ものや「価値がない」と判断されれば、結果として消費者や納税者に選択されず、費用は地域から「流出」するという形になってしまうのです。一方で、商品やサービスなどを開発し、付加価値をあげるための予算や時間は、その地域の魅力を高め、人々を惹きつけ、かけがえのない「地域資源」として蓄積していくのです。費用なのか、投資なのか、その違いは大きいのです。
だからこそ、地名や社名、ブランドといった「誰か」を知らしめることだけにお金を投下するのではなく、地域にある「何か」に磨きをかけ、外部からお金を惹きつける流れを作っていくこと。そこにしかない魅力を通して、地域の「稼ぐ」を「儲かる」という蓄えに変えていく。これが「地域経済循環」のあるべき姿であると考えています。
Decentralized(自律分散型)な地域をつくる
地域において、インターネットの存在は切り離せない状況にあります。また、インターネットのそもそもの成り立ちである「自律分散ネットワーク」という概念を地域に具現化していくことは、地域の存在を支える強い後ろ盾となることでしょう。DAO(分散型自律組織)という概念が昨今において登場してきたことも、偶然ではなく、必然の流れともいえるのです。「地域」が自ら「稼ぐ」ことは、決して忌み嫌うものではないということ。「ふるさと納税」や「お礼の品」という一部分のお金の流れだけではなく、「地域」全体を通して、その意義とあり様を考える。
ふるさと納税はその1つであり、またそれだけに終わる必要もありません。「稼ぐ」ことの本質と意味は何か。もう一度、日々用いる「言葉」を改めるところから、「地域」について、「広く」ではなく「深く」対話を進めていきませんか?