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【無料公開】真説佐山サトルノート round 29 文庫の追加取材——エンセン井上1

 【この原稿は二〇一六年八月から二〇一八年四月まで水道橋博士主宰「メルマ旬報」での連載を修正、加筆したものです。秘蔵写真も入っている全話購入がお得です】

 重版で修正を入れることを除けば、印刷された自分の単行本を読み返すことはほとんどない。
 責了までの過程で嫌ほど、読み返し、修正を入れる。もうゲラを見たくないほど、その世界に没頭する。終わった瞬間、ぼくは頭を次の作品に切り替えるのだ。
 理由は幾つかある。
 まず印刷された後に読み返すと、直したい箇所を見つけてしまうのが嫌だ、
 そしてもう一つ――。
 ぼくは小学館の社員編集者時代、多くの書き手を担当していた。中には過去の作品に執着する書き手がいた。酒を飲んだとき、彼らの口からは、作品の取材の思い出話がついて出た。まっとうなノンフィクションを書き上げる労力はとてつもない。その余韻に浸りたい、という気持ちは分からないでもない。しかし、プロフェッショナルな作家にもっとも大切なのは、継続して単行本を出すことである。単行本は世に出た瞬間から、作家の手を離れる。どう評価するかは読者次第だ。そこに拘泥し、後ろを振り返ってばかりの書き手たちは埋もれていった。その経験からぼくは、敢えて余韻を断ちきって、次の作品に向かってきた。
 ぼくの中で、その作品に対する熱の頂点は、執筆から校了の時期である。書評インタビュー等を受けるときは、過去の「自分」を演じているのだ。
 真説佐山サトルについても同様だった。文庫化のため、約二年半ぶりに頭から真説佐山サトルを読み返した。そして、誰を追加取材すべきかと考えた。
 ぼくは文庫版の〈後書き〉をこんな風に始めた。

〈古い映画では終わりに「FIN」という文字が映し出され、からからとフィルムが巻き終わる。映画の中の世界はそこで終了である。最後に成功を掴んだ者は幸せのまま、どん底に落ちた者は失意のまま、観た人間の頭の中に焼き付けられる。しかし、ノンフィクション作品の場合、書籍の結末の後も登場人物の人生は続く――。
 単行本の『真説佐山サトル』が発売されたのは、二〇一七年七月のことだった。その後、二〇二〇年九月に佐山さんの息子、聖斗君から連絡が入った。佐山道場を立ち上げたこと、勤務していた広告代理店を辞めて佐山の技術を継承すべくトレーニングをしていることを聞いた。
 その決断の背景には、『真説佐山サトル』があった。本を読み進めるうちに、自分は父親について何も知らないことに気がついたのですと彼は言った。
「あの本の最終章で、(佐山が自分の生き方を最も)理解して欲しいのは息子だっていう一節があって、びっくりしました。そんなことを考えていたとは全く知らなかった。ぼくも父親と向き合わなくてはならないって、はっきり思ったんです」〉

 真説佐山サトルの「FIN」の後、関係者の人生が動いていた。文庫版にあたって、佐山さんに加えて、聖斗君に会うことは不可欠だった。
 佐山さんのマネージメントを担当している、ストロングスタイルプロレスの平井丈雅代表とは三時間以上、様々な話をした。『KAMINOGE』の連載開始してからしばらく、ゲラのやりとりで平井さんとはぎくしゃくしたこともあった。しかし、単行本発売後、平井さんとは忌憚なく話し合いが出来る関係となっていた。
 その他、佐山道場代表の水谷崇代表、テディ・ペルクさんにも取材をした。
 ペルクさんは佐山さんが最初に開いた、タイガージムの会員であり、UWFインターナショナルの国際担当でもあった。修斗とUインターが緊張感ある中でも、二人の親密な関係は続いていた。現在はストロングスタイルプロレスの国際担当部長である。
 ペルクさんとは、本題の佐山さんについての他、彼の父親、ジーン・ペルクさんについて深く聞くことになった。ジーンさんは、マーベルの日本の責任者として『スパイダーマン』を持ち込んだ。スパイダーマンを最初に掲載したのが、真説佐山サトルの版元である集英社の『週刊プレイボーイ』であることに縁を感じた。
 ジーンさんは東映と協力して、実写版のスパイダーマンを製作している。そのスパイダーマンは、戦隊シリーズの〝ロボット〟の源流となった。この〝ロボット〟が後に、アメリカでトランスフォーマーとして発展した。ジュウレンジャーをパワーレンジャーとしてアメリカに〝輸出〟するきっかけとなったのも、ジーンさんだった。いずれジーンさんをきちんと描いてみたいと思ったほどだ。
 そして、もう一人――。
 どうしても外せないと考えていたのがエンセン井上さんだった。とはいえ、エンセンさんはハワイと日本を行き来していると聞いていた。新型コロナウイルスにより、国境を越えた移動は制限されている。ハワイに居つづけているならば、オンライン取材になってしまう。それは避けたい。
 担当編集者の中込勇気君が連絡を取ると、丁度、エンセンさんは丁度、日本に帰国したばかりだった。隔離期間である二週間が明ければ、取材に応じるという。

 エンセンさんの自宅は東武鉄道野田線沿線にあった。ぼくは最寄り駅で中込君を車に乗せて、エンセンさんの自宅に向かうことにした。往来の多い県道から小道を入ると、大ぶりのガレージのある家が見えた。横の駐車場に(日本語としては少々変だが)大ぶりなミニバンが駐車してあった。ガレージがあるにも関わらず、わざわざ外に車を置いている理由は後で判明した。ぼくはローバーミニをミニバンの隣りに潜り込ませるように停めた。 
 中込君が玄関の呼び鈴を押すと、大きな男がのっそりと現れた。エンセン井上さんだった。
「すごい、ちっちゃい車ですね」
 エンセンさんは目を丸くして、ローバーミニをしげしげと見た。
 ヤクザと喧嘩をして事務所に乗りこんでいったなどエンセンさんの〝都市伝説〟は耳にしていた。激しい気性を持て余しているような男なのかと予想していた。そんな思い込みを一撃で破壊する、素朴な表情だった。
 玄関を開けるとピットブルテリアが駆け寄ってきた。入ってすぐがリビングになっており、革張りのソファが置かれていた。リビングと繋がる廊下に、過去の雑誌記事、写真がパネルとなって飾られていた。
「ハワイの店、万引き犯で大変でしたね」
 ぼくが切り出すと、「良く知っているねー」と大きな声を出した。エンセンさんが経営するホノルルの店のトラブルがFacebookに上がっていたのだ。
「今、ハワイでドラッグやっているような奴とかホームレスがすごく増えている。俺の店は看板ないんですよ。ドア開いているから、そいつもうろうろ入って来た。マスクしていなかったから、つけてくださいって言ったらら、〝えっ〟て。予約ないと入れないよって言ったら、〝俺、電話ないのにどうやって予約するんだ〟とか生意気な態度をとった。それで万引きしようとしたんだよね」
 エンセンさんが男を押さえると逃げ出したという。そして「絶対に戻ってきて刺すぞ」という捨て台詞を残した。
「戻ってこなかったけどね」
 さも可笑しそうに、くすくす笑った。
 エンセンさんは一九六七年四月にハワイ州ホノルルで生まれた。日系四世のアメリカ人である。
「ひいおじいちゃんが広島、ひいおばあちゃんが九州。九州のどこらへんか? 聞いたけど忘れた。おじいさんとおばあさんはハワイで生まれた。みんな日本の誇りがあって、血は混じっていない。ハワイは血が混じっていない日系(人)が多い」
 近隣に住んでいたのは日本からの移民の子孫ばかりだった。小学校はほぼ日系人であった。
「小学校のときはピースフルだった。平和。日系(人)ばかりだったから。みんな中学に行くのを怖がっていた。いきなりハワイ人が混じっちゃうからね」
 中学校に入学してすぐ、ハワイ人の同級生から金をせびられたことがあった。エンセンさんは家に帰って、そのことを話すと父親と兄からこっぴどく叱られた。
「闘わないんだったら、帰ってきて俺と闘えって。そのとき、お父さんは神様のような存在だった。ハワイ人も怖いけど、お父さんが怖かった。(後日)飲み物買いたいから、ジャパニーズボーイ、お金、頂戴って言われたけど、お父さんに怒られたから、〝ごめん、あげない〟って。そうしたら(相手は)Tシャツ脱いで、ぼこぼこにするぞって言われた。近くにいた(日系人の)女の子が、〝何してるの、ボコボコにされるよ、病院行きになるよ〟って。でも、そのときは喧嘩にならなかった」
 抵抗したことで、回りからの目が変わったことを感じた。
「色々と喧嘩したけれど、(勝敗は)五分五分。そうしたら、みんな俺と友だちになりたがった。俺のことを面白く思わない人もいたけど、喧嘩を仕掛けると本当に喧嘩になっちゃうから、もっと弱いターゲットの方に行っちゃった」
 荒っぽい世界を生き抜いていくには、強くなるしかないと、エンセン少年は頭に刻みつけた。
 エンセンさんが高校生の頃、日本全体がバブル景気で湧いていた。そして、円高を背に多くの日本人観光客がハワイにやってきた。
「服とか態度とかハワイの日系人とは全然違うのね。ファッションが違うから日本人ってすぐに分かる。当時の日本人の女の子はみんな歯(並び)がちゃんとしていなかった。むだ毛も剃っていなかったね」
 あと、写真いっぱい撮る、と笑って付け加えた。
「ナショナリティ(国籍)を聞かれたら日本人と答えていた。日本人ではあるけれど、日本出身ではない、みたいな」
 ハワイアンジャパニーズですね、とぼくが口を挟むと、そうそう、と大きく頷いた。
 最初に夢中になったスポーツは野球だった。ポジションは投手、時々、遊撃手に回った。
「高校まではピッチャー。大学では(色んな高校から選手が)集まってくるのでセンターフィールド(中堅手)になった」
 しかし、セレクションで野球部への入部を許されなかった。
「最後のステージで名前が呼ばれなかった。カットされた。名前が呼ばれた選手より自分の方が良かった。でも奨学金を持っている方が入ってしまう。(兄の)イーゲンは高校生のときに野球を辞めてラケットボールをやっていて世界トップになった。俺は(野球と)両方やっていて、どっちも中途半端だった。(個人競技の)ラケットボールなら自分が頑張れば勝てる。成功しているイーゲンも見ていたし、ラケットボールをやろうと決めた」
 その後、休学し、イーゲンと共にプロ選手としてアメリカ国内の大会に参加することにした。
「ラケットボールリゾーツっていう大きな会社に勤めて給料貰いながら大会に出ていた。買ったら賞金出るけど、負けたら零。イーゲンのホテル(の部屋に)泊まったりして二年間ぐらいやったけど、世界ランキング二十八位が最高。稼げない。儲からなかった。ラケットボールリゾーツのオーナーが変わって、それまでは大会があれば休んでもよかったけど、新しいオーナーは駄目だって。それだと意味がないのでハワイに戻った」
 復学し、弁護士になるつもりだった。ところが、そこでグレイシー柔術と出会ってしまった。


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