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真説佐山サトルノート round 8 入谷の喫茶店

【この原稿は二〇一六年八月から二〇一八年四月まで水道橋博士主宰「メルマ旬報」での連載を修正、加筆したものです。秘蔵写真も入っている全話購入がお得です】


 山口水産高校時代の同級生、大森保治さんが保管していた資料の中に、佐山さんが新日本プロレスに入る直前、住み込みで働いていた喫茶店の雇用契約が含まれていたことは、前述した。
 その青色の文字で書かれた控えとおぼしき契約書の最後に、佐山さんの名前、下関の実家の住所と共に、喫茶店の店主の名前と住所があった。
 佐山さんはこう話していた――。
 高校を中退して、父親の紹介で千葉にある新日本製鐵の関連会社に入った。しかし、プロレスラーにしたくなかった父親の手が回っていた。そこで会社を飛び出し、柏にある新聞配達店の住み込みで働くようになった。その場所も父親に見つかってしまい、仕方なく新聞配達店を出て、南千住で働くようになった。
「たまたま募集の張り紙を見て、飛び込みで入ったはずです。当時のことは忘れちゃいましたけど、募集の張り紙だけは覚えています」
 佐山さんによると、その喫茶店はビルの中に入っていたという。
「サウナと中華料理、洋食…というか喫茶店があった。ビルの上が事務所、寮になっていてそこに住み込みで働いていました」
 契約書の住所をグーグルマップで検索してみると、それらしきビルを見つけることが出来た。そこでぼくは現地に行ってみることにした。
 ビルは泪橋から南千住駅を越えたコツ通りにあった。コツ通りとは、旧日光街道である国道四六四号線を指す。「コツ」の由来は小塚原刑場から、あるいは辺りに骨が散らばっていたから、など諸説ある。古ぼけた、緑色のタイルが貼られたビルだった。
 すこし離れたところには簡易宿泊所の看板などが見え、ささくれだった雰囲気が感じられた。佐山さんが幼少期を過ごした、下関市長府地区の落ち着いた風情とは対照的だった。
 ビルの名前は、契約書に書かれていた店主の名字と同じだった。ただし、喫茶店やサウナはなく、住居と貸倉庫として使われているようだった。
 ぼくが撮影した写真を佐山さんに見せると「どうだろう」と首を傾げた。

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