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【無料公開】真説佐山サトルノート round 11 ノンフィクション作家は探偵でもある


【この原稿は二〇一六年八月から二〇一八年四月まで水道橋博士主宰「メルマ旬報」での連載を修正、加筆したものです。秘蔵写真も入っている全話購入がお得です】


 一人の人間を描く上で、国外生活の期間があれば注意深く調べなければならない。それまでの日常空間と切り離された中で、その人物の芯が露わになることが多いからだ。
 佐山さんの場合、七八年六月からタイガーマスクとしてデビューする八一年四月まで国外遠征に出かけている。まずはメキシコで二年間、ビザが切れた後はコーチであるカール・ゴッチの住んでいたフロリダ。そして一度メキシコに戻った後、イギリスへ向かっている。
 佐山さんにメキシコはどうでしたかと訊ねると、思わず「あー」と顔をしかめた。
「メキシコは観光で行くのはいいかもしれませんけど、仕事をするとなると大変です。生きていけるとはぼくは思わなかったです。三日に一回ぐらいは大きな交通事故を見て、人が死んでいるのを何度も見ましたから」
 ぼくも何度かメキシコを訪れたことがある。最初に行った九五年ごろ、首都メキシコシティの広場を埋め尽くす、薄汚れた黄色いフォルクスワーゲンのビートルに圧倒された。標高二千メートルを超える高地のせいもあるだろう、不完全燃焼の黒い煙をマフラーから吐き出し、ときにドアが取れている車もあった。行き先を言ってもきちんと向かうかどうかも定かではなく、苦労したものだった。
 その話をすると佐山さんは深く頷いた。
「運転手は最悪。みんな嘘つき。強盗も沢山いるし」
 佐山さん自身も強盗に襲われた経験があった。
「家の近くで男たちがたむろしていて、一人が煙草の火を貸してくれと言ってきた。ぼくは煙草は吸わないと言ったら、いきなりこれですよ」
 佐山さんは腕を曲げて、首を絞める仕草をした。
「まあ、こんなのを外すのは簡単なので、ぼくは何するんだこの野郎って、バックキックをボンボンってやったら逃げていった。でも当てなかったですよ」
 しばらく行くと男たちが拳銃らしきものを持って待ち伏せしていた。佐山さんも拳銃を懐に入れていたが、銃撃戦になると困る。そこで仕方がなく警察を呼んだ。
 一方、佐山さんが気に入ったのはイギリスだった。
「メキシコから行ったのでイギリスは天国だと思いましたよ」
 イギリスといえば食事がまずいという印象がある。大丈夫でしたかと訊ねると、首を振った。
「普段はスーパーマーケットでクラッカーとチーズとパテを買って食べてました。簡単なものですよ。試合後は、パブでフィッシュ&チップス。これが旨いんですよ。日曜日はウェイン・ブリッジの家に呼ばれて食事をご馳走になる。イギリスはみんな飯がまずいっていうけど、家庭料理は美味しい。その代わり、食事のときはきちんとした格好でこれです」
 そう言うと、ナイフとフォークで何かを切るように両手を動かした。
「堅苦しいんですけど、次第にそちらの方が楽しくなってきちゃて。ぼくは作法もスーツも全部イギリス調です。そういえば、この間、貴闘力がフランス料理の店を出すので名前を考えてくれって言われて、『Noblesse Oblige』(ノブレス・オブリージュ)としたんです」
 ノブレス・オブリージュとは元々はフランス語で、〈上流階級の人々は誇り高く寛大に振る舞う義務がある〉という意味である。イギリスの騎士道、あるいはラグビーと結びつけて語られることが多い。
 折り目正しい佐山さんがイギリスを気に入ったのは納得できる。
 ロンドンで佐山さんの面倒を見たのが、ウェイン・ブリッジである。素の佐山サトルを知るウェイン・ブリッジにはどうしても話を聞きたいと思った。
 彼の連絡先は分かりますかと訊ねると、佐山さんはiPhoneから番号を探してくれた。ただし、この番号には一度も電話した記憶はないという。
 後で電話をしてみると、使われていない番号だった。


 ジャーナリスト、ノンフィクション作家は時に探偵や刑事のような人捜しの能力が必要になることがある。
 『球童 伊良部秀輝伝』を執筆する際、故・伊良部秀輝さんと生き別れになったアメリカ人の実父であるスティーブ・トンプソンを捜し当て、アラスカまで会いに行った。この人ならば知っているのではないか、勘を働かせて縁をたぐり寄せて行き、トンプソンと連絡を取ることが出来たのだ。
 また、国外取材の場合は協力者の存在も重要である。FIFA会長だったジョアン・アベランジェ、彼の金庫番ともいえる存在でブラジルのメディアでさえインタビューをしたことがなかったエリアス・ザクーを捕まえたのは、ブラジルに住む日系人の友人たちが動いてくれたからだった。彼らはブラジルの政界に知人がおり、ラテン的な友情を使って繋いでくれたのだ。
 伊良部さんの実父やアベランジェ、ザクーに比べれば、ウェイン・ブリッジの連絡先を探すことは難しいことではなかった。
 まず、グーグルで「Wayne bridge」を検索すると、同名のサッカープレーヤーに関する情報が羅列された。さらに「wrestler」という単語を加えると、その中に「ブリティッシュ・レスラーズ・レユニオン」というサイトが見つかった。
 これはウェイン・ブリッジが主宰しているイギリスのプロレスラーたちの同窓会組織だった。連絡先の頁には、彼の妻とおぼしき、「サラ・ブリッジ」、そしてウェッブを管理する人間のメールアドレスが書いてあった。そこに英文でメールを入れた。
 しかし、返事はなかった。
 『KAMINOGE』編集長の井上さんに相談してみると、前田日明さんが連絡先を知っているかもしれないという。
 前田さんも佐山さんの後にイギリスへ行き、ウェイン・ブリッジの家に住み込んだ。前田さんはその後も彼と連絡を取り合っており、毎年、クリスマスカードが届いていた。そこで前田さんにカードを探してもらうことになった。
 ブリティッシュ・レスラーズ・レユニオンのサイトをもう一度見直すと、「ザ・ブリッジス」というパブの住所が書かれていた。グーグルマップで住所を検索してみると、白壁の一軒家の写真が出てきた。ウェイン・ブリッジだからブリッジス――ウェイン・ブリッジの経営する店なのだろうか。
 しばらくして、井上さんを通じて前田さんから連絡があった。クリスマスカードには電話番号はなく、住所だけ書かれていたという。その住所は「ザ・ブリッジ」と同じものだった。グーグルマップには店の電話番号も書かれていた。そこに電話してみると、ビンゴだった。
「サトルに関するインタビュー? 自分に聞いてくれるのは光栄だ。店に来てくれればいつでも話をする」
 ウェイン・ブリッジは上機嫌だった。
 そして、二〇一六年五月、ぼくは欧州に向かった。

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