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ひとつのことを続ける秘訣

3歳で始めたバイオリンを39歳の今でも毎日キコキコと弾き、大学で専攻した中国語で今も小説を読む。でも何かを続けるのは難しいとみんな言う。どうしたらやめずに続けられるのか。今日ようやく答えが出た。

続ける秘訣、それは「やめないこと」である

待って。読むのやめないで。ああ、舌打ちしないで。ふざけてない。大真面目です。最後まで読んでくだされば、きっと私の真意が伝わるはず。

3歳でバイオリンを始めて、39歳の今でも弾いている、というと、人はきっと単純に引き算をして36年間「続けている」と思うだろう。だが「続けている」というのはどういう状態だろう。ずっと間断なく、練習を怠ることなく、発表会やコンサートなどで日頃の成果を定期的に披露しつつ、不断の努力を「続けている」と思っていないだろうか。

残念ながら全然違う。私にとって「続けている」とは「やめていない」でしかない。

実際3歳でレッスンに通い始め、全く練習せずに14歳でやめた。その後5年ほど全く楽器に触れず、大学に入ってオーケストラに入団し初めて真面目に練習するも、24歳で卒業後はまた10年以上全く楽器に触れず、37歳の8月から突如毎日楽器を弾き始める。まともに楽器を弾いていたのは大学の4年強とここ最近の2年ほどだけである。

これを「続けている」と言っていいのだろうか。

いいのである。なぜなら少なくとも私にとっては「やめていない」という状態が「続けている」ということだから。これは詭弁でも屁理屈でも問題のすり替えでもない。私の実体験(詳細は後述する)に基づく発見だ。

だがなぜかみんなやめたがる。ある期間であるレベルに達しなかったからやめる、試験に合格できなかったからやめる、彼女にふられたからやめる、将来が見えないからやめる、CDデビューできないからやめる。なぜかみんな「やめる」という決断をしたがる。「やめる」という決断が「潔さ」として評価される、という日本社会固有の事情もあるんだろう。

だが私は「やめない」という決断をすることで「続けている」という状態を維持している。いつ何時やりたくなるかわからない以上、その可能性を閉ざすような決断はしない。だってもったいない。かつてモノにならなかった経験であっても、いつ何時花開くとも分からない。

勝手に「やめた」と判断する人

障害者福祉施設で働いていた頃、ある年配の職員に大学の専攻を聞かれて、中国語と答えたところ、「あら、役に立たなかったね」と言われたことがある。今、中国語と無関係の仕事をしているという事実のみで、「やめた」とみなされたのだ。

だが、その後大学時代の同期から誘われて、中国のテレビ番組の字幕翻訳をすることになった。「やめていない」からこそ、こういう依頼が来る。しかも全く未経験の字幕翻訳であったが、その仕上がりを大いに評価してもらった。やはり「続いていた」のだ。

取捨選択という呪い

人生においては取捨選択が大事だとみんな一様に言う。だが私の「やめない」という選択は、「取」でも「捨」でもない。かつて「取」したものを、とりあえず「捨」せずに、寝かせておくということだ。

料理をする人やパンを焼く人には分かるだろうが、「寝かせる」というのはひとつの大事な工程だ。寝かせている間に発酵が進んだり、熟したり、水分が抜けたりして、自然とベストな状態に近づいていく。

だが取捨選択という言葉の持つ呪いによって、人は「取」と「捨」の二者択一を迫られる。取るか捨てるか。かつて取ったものでも今現在生かせてないものは捨てるべし。大成しないなら、向いてないならさっさと捨てて、別のものを取りにいくべし。なんて乱暴で性急なのだろう。

しかも日本では「やめる」という決断を望んでいなくても、「やめる」という決断を迫られるケースが多い。明確に「おやめなさいな」と命令されることは稀でも、やんわりと「向いてない」とか「時間は有限だ」とか「二兎を追うもの一兎を得ず」とか、「やめる」方向に仕向ける圧力がそこいら中に溢れている。

でもそんな圧力に屈して、「やめる宣言」なんてしなくていい。どうしても周りが納得しないなら、いったん「やめたこと」にしたっていい。自分の中で「やめていない」という状態さえ維持できていれば、それは「続いている」のだから。

これを読んでいるあなたも、「やめる」と決断していなければ、「続いている」と心の中で思い続けてみてはどうだろう。「え、でもそれやめたってことでしょ?」うるさい。いたずらに白黒はっきりさせようとしてくる人は、適当に煙に巻いておけばいい。「やめる」という決断によって、やめなければ得られたはずの様々な機会や風景を逃してしまうのは本当にもったいない。

寝かせておけば、いつか機が熟すかもしれない。

やめさえしなければ、また再開できるかもしれない。

続ける秘訣、それは「やめない」ことだ。

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