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東京考古学:神田下町文化はこうして生まれた!(森田曉さんインタビュー)

映像配信クリエイターの川井拓也さんが、ノウハウの限りを尽くして作り上げたヒマナイヌスタジオから発信する神田に関わる人々へのインタビュー番組です。

今回の対談相手は、神田に詳しい森田曉さん。切り口で歴史とはこんなに面白いものだったのかと目から鱗です。神田の移り変わりとその文化の変遷を思う存分味わってください。

川井:「いらっしゃいませ」

森田:「どうも」

川井:「今日はお忙しいところありがとうございます。今回はまちサポの収録で森田先生にぜひお聞きしたかったのが、」

森田:「僕でいいんですか?」

川井:「もちろんです!東京考古学ということで、僕自身も興味があるのが、戦後・戦前、江戸以降ですね、東京がどのように変わってきたかということに興味があるんですが、この神田司町というところに2年ぐらい前に引っ越してきて、この場所のイメージってのがあまりわかなかったんですね。神田司町ってどこだろう。淡路町ってのもマイナーだし、小川町もそんなに知られてるところでもないし、駅としては、そうすると自分が事務所を構えてみると、神保町が近いんだとか、淡路町近いんだ、御茶ノ水近いんだ、神田も近いんだということで、非常にいろんなものの境界線で面白いんだと思ったんですね。今回森田先生にお聞きしたいのが、神田ということを中心にですね、どういう風に神田の街が、江戸時代から、下町文化を受け継いで今に至っているのか、東京ってのは地理的にいろいろ埋め立てたり、川を掘ったり、駿河台を掘ったり、いろんなことがありますけど、その地形が変わり、そして今度は路面電車が走り、山手線が走り、そういういろんな変化の中で、文化とか風俗といったものがどういう風に変わってきたのかというのを、ゆっくり一時間ぐらい飲みながらお話を伺わせてください。」

森田:「はい、わかりました。それじゃあ、ビールをいただきます。」

川井:「ビールでいいですか?」

川井:「森田先生は、江戸東京博物館のお仕事をされていたり、実際に遺跡の発掘にも関わっておられたと」

森田:「発掘はたまたま、一昨年ちょこっとだけ付き合っただけですけど、江戸東京博の仕事は本格的にまる2年間やってましたから。それもここからごく近いところにかつてあった武井三省堂という筆屋さん、それが千と千尋で有名になった小金井の江戸東京たてもの園、あれの準備で、その中の1軒が武井三省堂という筆屋さんでした。こちらの仕事ってのは、ヒアリングしてそこに住んでた方の持ち主の方からお話を伺うのですが、それだけではなく裏を取らなきゃいけなくて、いくらなんでも聞いた話をそのままやるわけにはいかないですから。」

川井:「ええ。」

森田:「じゃあ、筆屋ってなんなのかっていうと、そんなことから今の神田の街が見えてくるんですよね。大正から昭和初期に、当時東京の文房具屋における組合が、第一部会、第二部会とあって、第一部会は古風な筆墨屋さん、第二部会が近代的な西洋の鉛筆の世界で、武井三省堂は第一部会の部会長をやってた店なんです。その頃は日用品だったわけです。筆って。どうして筆屋がそんなところにあるかっていうと、すぐ近くですけど、目の前に多町の市場があったわけです。青果市場。今では考えられないけど、当時は市場で経木に筆で値段を書いてたわけです。品名を書いて値段を書いて。市場というのはセリ市じゃないですから、当時は店ごとに専門の商品があって、そこに八百屋が買いに来て、八百屋っていうか、農村から売りに来た人と、買いに来た人とを仲買と問屋の間で取引をして、買いに来た人はちょっと待っていてもらって、代わりに買ってもらったものを持って帰るというシステムなんです。そこで今の八百屋さんと同じで小売店側は商品名と値段を書かなければいけないじゃないですか。それを経木に筆で書いてたんです。」

川井:「POPですね、いまで言うポップ」

森田:「ええ、そうです。」

川井:「じゃあ、乾杯ということでよろしくお願いします。」

森田:「こんな風に一つのことをしゃべり始めると延々と話してしまう…」

川井:「ちょいちょい飲みながら、ゆっくりと。その多町というのもいま神田の街の中ではひっそりとしているというか、どちらかというとマンションができ始めて、街として何があるというわけではないけれど、秋葉原の駅前のダイビル、青果市場が引っ越す前には神田だったんですね。」

森田:「そうです。多町があって、ここは司町で、次に美土代町、3つの街が並んでいて、多町だけが神田の子町というんですか、本来、徳川家康が来た時には太田道灌の時代は別にして、幕府が開かれてから街が必要なわけですよね。お城を維持するための必需品として街が必要だった。町人を住ませようとしたわけではないです。お城って何万人が働いているところだから、そこに大奥だけでもものがいっぱいいるわけですよ。庶民層はどうでもいいけど、お城では、特に大奥があるから着るものはいっぱい必要なんですね。それから毎日パーティーやってるわけじゃないけど、しょっちゅう宴会をやってるわけだから、宴会のためのものが必要です。酒と肴と野菜類が絶対必要なわけじゃないですか。肉はない時代ですから。そうすると、とりあえず佃島があって、佃島は家康との縁があって、大阪の佃村から呼んできた漁民たちなんですけど、彼らに白魚の漁をやっていいよと、ただしお城にちゃんと魚を入れろと。」

川井:「権利を認めるけどちゃんとやれよと」

森田:「日本橋に魚役所っていうのがあって、とりあえず一番いいやつはお城に持って行っちゃうんですよ。残りは売って儲けていいからねということなんです。多町の場合は経緯違ってちょっと時代が下って江戸の中期ぐらいになるんだけど、もともと神田川沿いにあった往来の市場を、大火後に一箇所に集中させたんです。こっちも青物役所ってのがあって、いいものは全部お城に持ってっちゃう。下町っておまけですからね。お城のおまけだってことを抜きに自立して生活できると考えたら大間違いであると思います。それで下町っていうと、さかのぼれば享保年間ぐらいまでさかのぼれますから、江戸下町は、明治維新に対しては嫌がっててて、薩長嫌いってのはあるんですけども、じゃあ自立できてるのかっていうと、そんなことはないんですよね。関西にあるような独立した自治都市、堺みたいな、そういうものではないっていうことは前提で、口先ばかりで腸はなしってそういうことなんです。意気地なんてあんまりないんだから。」

川井:「わっはっは(笑)」

森田:「ただ、言いたいことは言う。辺りのところから、さてどっから話をしようかな。私の家の話からします?」

川井:「そうですね。」

森田:「実は私の祖父、祖父は昭和の初めに死んじゃった人なんで、会ったこともないんですけど、森田銀二郎という人がいまして、だいたい森田っていう名前が先祖代々じゃないんですよ。父方の墓は向島、墨田区の北のほう向島の七福神があって七福神の一番先っぽにある多聞寺という寺、多いに聞くという字で、そこに墓があって、今はもう埋めちゃいましたけど、一番古い墓石が享保年間ですね。だからかなり古いんです。その墓の苗字は大久保なんです。大久保さんでずーっとある。苗字があるから庶民ではないんですよね。」

川井:「昔の人は庶民は下の名前しかないですからね。」

森田:「ところが苗字帯刀っていうんだけれども、普通だったら名前を捨てたりしないでしょ。森田銀二郎ですから長男じゃなくて次男坊なんですけど、その上の鉄太郎も大久保姓は捨てちゃって、大橋になるんですがその経緯が全然わからない。僕は中学高校は開成っていうところに行ったんで、わりと士族の連中が多くて士族の人はわかるんですよね、家はなんとか流のなんとかでとか言うわけですよ。系譜を言う。武士の家だったら必ず言うわけですよ。戸籍をたどってみると、日本橋っていっても外れで八丁堀の北島町ってとこがあるんですよ。それはズバリ与力同心のところなんですよ。どうも同心の住んでたところにいるんだけども、憶測ですよ、実際はお寺の過去帳調べればわかるんだろうと思うけど、そこまで突き詰めないでいるんですけど、どうも同心あたりの軒先に住んでて、そこから名目上、養子縁組かなんかして墓を守ることを引き受けたんではないかなと思うんです。それとは別に明治維新になってからは、爺さんの銀二郎さんは金銭的余裕はあったのに、よその森田っていう名前だけもらったのかというと、これは完全に兵役逃れですよ。この時代は昭和と違って、長男だったら兵役に取られないから。それでどこかの森田さんのところの長男になっちゃった。家での伝承では銀二郎さんは変な人で、ある時アメリカに行こうと思いついたようです。」

川井:「その伝承はどうやって残ってるんですか?」

森田:「おばあちゃんが東京オリンピック前年まで生きてたんで、おばあちゃんから聞いた話なんです。」

川井:「伝聞でね」

森田:「その当時ある程度余裕があった。八丁堀の北島町で、大橋っていうかなり大掛かりな蕎麦屋をやっていて、昭和の初めまでやってたようで、神田の藪蕎麦みたいな大きな蕎麦屋だったみたいですね。お金はあるけどいくらなんでもアメリカへ行く資金なんてないから、じゃあ何を考えたかっていうと、横浜に行こうと。行けば何とかなる。横浜に行ってわかったことは、2つ手段があると。床屋になるか洗濯屋になるか。」

川井:「当時の仕事として、」

森田:「船の中で稼げる仕事が、」

川井:「人材募集があるわけですか?」

森田:「床屋と洗濯屋は船の中で営業できるわけですよ。だって着るもの洗わなきゃならないから。床屋も一緒。それで洗濯屋の方を選んで、洗濯屋の修行をして、そしたらそのあたりで洗濯屋で食えるようになっちゃったんで、いつの間にかアメリカに行かなくなっちゃったという。」

川井:「器用な人だったんですね。」

森田:「その頃に神田に移るわけです。ところが不思議なことに神田の家作自体はもともと持ってるんですよ。その親が子供のために用意してある。その場所が神保町の2丁目23-4というところなんですけど、戦前は一ツ橋通り町という通りで、共立大学の共立ホールの裏の方ですね。それから日教組の本部があの辺にあるんですけど、教育会館って、その3軒となりあたりです。本に詳しい人なら知ってるイタリア書房というイタリア語の本屋さんのとなりなんですけどね。ちょうどその家自体は35年ぐらい前、もうバブルよりちょっと前ぐらいかな、1984年ぐらいに地上げ食らっちゃって、もう家ないんですけどね。その頃もう神保町2丁目、3丁目あたりは人なんて誰も住んでないから。洗濯屋やってられないですよ。」

川井:「はい。」

森田:「洗濯屋ってのがどうやるかっていうと、後で調べたんですけど、大田区の方まで行って、白洋舎って有名なクリーニング店があるでしょ、大きな会社で。あそこの博物館があって、そこで調べたら白洋舎の始めが明治42年で、明治43年なんです。だからすごく早いんですよ。その頃まだほとんどの人は和服着てますから、クリーニングは和服じゃないんですよ。西洋洗濯業って何かって言うと、こういうスーツ、ワイシャツ、特に亡くなられた森田銀二郎は器用な人らしくて、アイロンかけがすごく上手かったんです。新品同様にアイロンをかけると。そういうことが、糊を効かせてですね。当時のワイシャツは今はないけど、襟も別でしょ。必ずカフスを使って二重ですよね。二重で取り外しになっていた。あと前立てってのもあって、かなり複雑なシステムでした。そんなもん着る人は、大学の先生あたりはいますけど、帝国大学があるから、まだ本郷に行く前ですからね。それから基本的に役所なんですよ。」

川井:「うーん。」

森田:「役所って今は霞ヶ関に移っちゃったけど、戦前は役所の中で一番重要な大蔵省と内務省ってのが大手町にあったんです。そうすると、神保町から歩いても行けるわけです。自転車で行って御用聞きして集めてきて、だから大正時代にかなり豊かだったみたいです。まあ関東大震災後はちょっと大変だったようですが。これはまた戦後は駐留軍が来て、GHQで持ってまた大儲けして、だから戦後の食糧難の時期に神田の駅に行くと、僕はまだ生まれてないですけど、コンビーフの缶だとかパイナップルの缶詰だとかがいくらでも山のように積んであるんです。」

川井:「GHQからの、」

森田:「兵隊さんたちが来て、これあげるから優先せよって言われれば、優先するでしょ。」

川井:「なるほど」

森田:「そこが神田の家ということで、私の父は次男坊なんで、大正5年生まれ。家を継いだ父の兄貴は明治34年生まれかな。真ん中に姉がいて姉が大正元年。その3人兄弟でした。姉は結婚して外に行きますから、父は特に勉強ができるというわけでもなかったけれど、神保町だから本を読むのは好きだったんですけども、兄貴は勉強嫌いだったもんだから、兄貴が中学校行き始めて、途中で行かなくなっちゃったもんで、かわいそうにうちの父も高等小学校、そこにある一橋中学ってあるでしょ。あそこが高等小学校で、そこしか出てないんです。その後父は凸版印刷、秋葉原にある凸版印刷の本社でかなり特殊な仕事を、デザイナーですよね、社内デザイナーだから潰しは効かないですけど、お札の模様の、本当は絵が好きだったんで、絵が描ける仕事に行きたかったんだけれど、例えば千円札でもここんところにこういう模様があるでしょ。」

川井:「はい、ありますね。幾何学的な模様が」

森田:「彩文というんですけどね。これを作る仕事をやってたんですよ。こんな仕事潰し効かないんでね。凸版印刷の中でもうお前はいいからっていうんで、凸版印刷って割と社内の福祉はきちっとしてて、後の仕事はずっと用意してくれていて、60ぐらいまで、定年55歳の時代ですけど、後10年ぐらいの仕事は用意してたんですけど、結局彼はそういう職人的な世界にいて、離れると庶務総務的なことは得意じゃないんでね、まあかなり大変だったんだと思うんです。まあ私の父が大正5年生まれなんで、神田の神保町が一番繁盛した時代だったんですよ。昭和の初期ってのは。」

森田:「それは神田の家ってのがあったもんだから、僕にとっての神田は神保町の外れのとこにある、外れですよね、すずらん通りを通り過ぎた所に救世軍があって、救世軍の前を桜通りっていうんですけど、通り過ぎて抜けきって、左2件目ぐらいのところなんです。まあだんだんに聞いてください。僕の話もうちょっとしますから。」

川井:「じゃあちょっと飲みつつ、少し僕もカメラの修正をしつつ、」

森田:「ではいただきます。」

川井:「でも素朴にね、今神田の話とは別になりますけど、思いましたのは、そういう家の家系、NHKでいうとファミリーヒストリーですね、そういうものをさっとしゃべれるぐらい伝承されてるっていうのがすごいなあと思ったんです。それは親がしゃべってくれるというか、常にそういうものを聞かせる家庭環境にあったということですか?」

森田:「それはそういうこともあったんですが、自分で直接聞いてることもあるんですよ。私は二人兄弟で、姉がいて姉が神田の学校で、小学校は近所ですけど、中学高校大学とずっと共立なんですよね。共立ってことと関係あるのかわからないけど、姉が共立中学の時の課題で家の系図を作りなさいとかいうのがあったんです。学校の課題があって、それで最初のきっかけがあったみたいです。」

川井:「今時やらせなさそうですね。いろいろ問題もありそうで。」

森田:「そうですね。最近では問題ありそうですね。まあ共立あたりだから来る層はある程度決まってるから、公立じゃあできないでしょうね。それで覚えてますよ。姉が調べてて、父方の方は八丁堀のどうも同心が住んでた八丁堀あたりだと。そして母方の方は、母は実は静岡県なんですけど、沼津と三島の間の雑穀問屋で没落したところがあるんですけど、そんなのを調べて、姉が60になった時ぐらいかな、もう一度調べ始めようということがあって、仲がいい兄弟ですから一緒にあちこち八丁堀の方を歩いてみたりしていたこともあるんです。僕自身はそれほど強い関心があったわけではないんですけど、その神田の家ってのが、バブルのちょっと前、86年かなんかになくなっちゃった洗濯屋とか、面白かったですね。別に部屋はそんなに広い家じゃなかったんですけど、父が独立して結婚して建てた、敷地が33坪ぐらいかな、それと比べてもすごい狭い、町家ってのがいかに狭いところにたくさんの人が住んでるかって、13坪しかないわけですよ。間口は2間ぐらいあるけど、奥行きはやや長くて、そこは震災直後に建てられた建物、そのあともう1回立て直すんですけど、最初の3階建のところに何人人が住んでたのかな、十何人か住んでるんですよ。当時はみんな住み込みで職人さんがいて、女中さんが二人いてみたいな感じでした。」

川井:「どこから紐解いていくといいのか、森田先生と話しているともうwikipediaのようにいろんな知識がどんどん出てくるんですけど、僕は最初の神田との縁でいうと、外神田に4〜5年いたんですよ。」

森田:「3331ですね。」

川井:「そう3331です。練成中学校のあったあたりですね。そして今度神田司町に来たときに、司町だって聞いて司町の交差点に行くと、信号の表示があって、そこには「つかさまち」って書いてあるんです。」

森田:「おかしいでしょ。」

川井:「まちって書いてあって、でもみんなご近所さんは「つかさちょう」としか言わないからまちじゃないと。今度小川町は、「おがわちょう」とかいうと凄い怒られる、近所の人からね。まちとちょう、この文化というのは江戸時代から引き継がれているんだと思うんですけれども、その境界線みたいなものがこの神田、駿河台、大手町のあたりにあったんでしょうか?」

森田:「これがですね、基本的にまちというのは、自然発生的にすでに集落があったところなんですよね。例えば谷根千のね、谷中町ってのがあるんですけど、これやなかちょうじゃなくてやなかまちなんですけど、谷中村ってのがあって村の中で住戸がある程度集まってるところはまちなんですよね。それと下町のところにある町地っていうんですけど、町屋は建物のことだから、まちにちって書いて町地、ちょうは田んぼがつかない一丁目二丁目のちょう、この字でまちって読まないでしょう。」

川井:「出前一丁の丁ですね。」

森田:「そう、例えば小川町(おがわまち)ってのは、広域地名で幕府が旗本の屋敷をいっぱい入れるんですけど、そうする前からすでにそこに集落があったわけです。それはもともとあった集落だから、まあ村みたいなもんですよね。まちってのは村みたいなもんだっていうのは、また話がごっちゃになるんだけれど、小川町ってまちがあったと。そしてもう一つ飯田町、飯田橋の、飯田橋はすごく新しい橋なんですね、あっちは麹町区ですけど、九段の九段坂の一本北のほうに、九段中坂ってのがあるんですけど、その坂とその下降りたあたりに、滝沢馬琴の硯の井戸なんてのがあるんですけど、そのあたりはまちとして残っているんです。飯田町と小川町は「まち」なんです。それ以外は全部「ちょう」です。しかも面倒くさいのは、淡路町(あわじちょう)なんてのは、もともと武家地だったところがまちで、町人地はちょうなんだけども、武家地ですからなんかちょうって付けちゃった。」

川井:「本当はあわじまちだったかも知れない。」

森田:「つかさまちについては、これは名前をつけた人が、神田明神の宮司さんなんで、宮司さんが司という文字をやって「つかさまち」と、訓読み音読みとなるのは変で、訓読み訓読みとなるよう「つかさまち」としたってことでしょうね。」

川井:「うん、なるほど」

森田:「ところが庶民が住んでるから、自分たち庶民が住んでるところはちょうだから、つかさちょうでないと変だということになった。」

川井:「なるほどー」

森田:「隣の美土代町(みとしろちょう)なんてのは、もうちょっと変なもので美土代というのは神田の言い換えなんですよね。神様の田んぼをもうちょっと古い言葉で優雅にいうと美土代ということになる。ところが美土代町は、この間前回の時も話しましたけど、なんで有名になっちゃったかというと、これもまた神田で伊勢神宮ゆかりとか、神道に関係の名前をつけたにも関わらず、今はもうなくなっちゃいましたけど、今は住友不動産の高いビルになっちゃいましたけど、YMCAがあって、これが日本の近代史におけるすごい重要な建物で、昔の呼び方で神田青年会館っていうんです。神田青年会館ってのがあって、これはどっちかっていうと左翼運動ですね。労働運動なんかの会合は全部そこで行われたんです。」

川井:「ほう、なるほどね」

森田:「神田についていろいろあって、最近共立女子大の子が古い建物で神田を盛り上げようと、今日も図書館行ったらやってましたけど、古い建物がいっぱいあるんですよね。その中で特徴的なのはキリスト教関係がすごく多いんですよ。YMCAはなくなっちゃたんですけど、駿河台にはYWCAは今でもありますし、YWCAはご存知ですか?」

川井:「どこにあるんでしたっけ」

森田:「明治大学のすぐ真向かいに、裏にあるんです。」

川井:「ああ、角見たなところに、楽器街の」

森田:「そう楽器街の中に、YWCAがあって、YMCAと対ですよね。ヴォーリズのすごいいい建物だったんですけど、それから後は救世軍です。さっき言った救世軍Salvation Armyが、昔からすずらん通りのところさくら通りの入り口、有斐閣の隣にあって、そして奥まっているからあまり行かれる方は少ないですけど、カトリックの神田協会があるんです。ご存じないでしょう。水道橋行く通りのちょっと右側奥に入ったところにあります。猿楽町ってとこにあるんです。少なくともカトリックがあって救世軍があって、救世軍もYMCAもプロテスタント系ですから、そしてあとニコライ堂があって、キリスト教だけでも重要なのがいっぱいある。」

川井:「うーん」

森田:「神田自体はいろんな面で見て行かないと面白くないのに、僕は割と神田研究をやってる人たちはこの辺のの地元の多町の人たちは、さすがにたくわさんみたいななんでも知ってる人は別として、ふらっと神田って言うと神保町の本屋街でとか、カレーの街でとかね、一つのことで切るんですよね。もうちょっと複雑ないろんなものがあるから、ごちゃごちゃしてて面白いわけじゃないですか。」

川井:「そうですね。」

森田:「東京全般に、もうちょっと見方を単層的に見ないようにすることが必要じゃないかなと思っているんです。」

川井:「なんかこう地形も面白くて、駿河台があって、そこを御茶ノ水がつききってると、僕らが現代に生きていると、どこを切り崩してどこに土を持って行ったか見たいな歴史まではわからないから、実際日比谷も今まさに話題のミッドタウン日比谷のところも、昔は入江だったわけで、ほぼ皇居のところは、海岸線みたいなところだったわけですよね。」

森田:「ミッドタウンのね、あれが建つ前のすごいいいビルだったんですけど、三信ビル。三信ビルは外の外観じゃなくて、中が最高だったんですよ。これに載ってますよ、先ほどの」

川井:「今日は図書館からいっぱい本をわざわざ借りてきていただきまして」

森田:「加藤峰雄さんのね、日比谷映画街、素晴らしい三信ビルの中、38ページに、映像では見えないかもしれないけどこの空間見て、おしゃれでしょ!」

川井:「顔の横に出してもらえれば見えます。」

森田:「この感じ、アールデコのね、2階のところをずーっと歩けるわけですよ。ここは今のショッピングモールの高い空間、天井高を高くする走りなんですよ。2フロア分でもって中2階にしちゃって、」

川井:「しかもこう丸くしちゃって」

森田:「おしゃれだったですよ。」

川井:「じゃあこれのオマージュで街の中に街を作っているんですね。」

森田:「たぶんそうだと思います。大正から昭和初期の、何年か書いていないけども一番最初でしょ、いろんな実験的なものがあったんです。なくなっちゃった丸ビルの地下なんかもすごい面白かったですよ。」

川井:「この本(昭和の東京3)、僕も買ったんですけど、この本が素晴らしいのは、ある一人の方の写真をなるべく多く載せようというコンセプトで、昭和20年から30年ごろの東京で、撮影ポイントが全部入っているんですよね。現在のここからページ1のなんとかって言う写真を撮ったとあるから、いちいち調べなくても、ああここかって、行ってみようと、比較してみよう、何が残っているのかと思うんです。」

森田:「ただね、先ほど言ったこれにYMCA載ってないんですよ。それから救世軍もない、救世軍の近くの写真はあるんだけども、救世軍の建物ってすごくいい建物だったんですよ。建て替える前の。だからあれって、丸の内の方は建物を一個づつちゃんと撮ってるんだけど、モニュメンタルなやつは、どうも加藤さん自身が、もう亡くなられた方ですけども、旧麹町地区にはモニュメンタルな建物を求めて、旧神田区の方は、人の雑踏を求めたんじゃないかなと」

川井:「ああ、庶民の生活とかですかね。」

森田:「どうもそういうことかなと感じました。」

川井:「その人の足跡がね。」

森田:「前の方は大きい建物がいっぱいあるんですが、後半になるとところどころは松屋とかは撮ってるけれども、全体としては雑踏が多い、人を撮るっていう感じですね。それなんだろうなと。こういうとき僕はいつも一夜漬けで、ちょこっと図書館へ行ってバタバタっと調べるんだけど、」

川井:「森田先生は調べる速度がすごいです。」

森田:「前読んだ本でも全部は覚えてはいないんですよ。こんな有名な本があるんです。」

川井:「明治100年を語る古老の集い」

森田:「素晴らしい本ですよ。」

川井:「昭和44年5月寄贈!まだ僕は生まれていないですね。」

森田:「これは文京区の図書館から借りてきたんですが、文京区は割と安直に貸してくれるんですよ。なんとね、どういう人たちの座談会かっていうと、明治14年生まれ、まだ生きてたんですよこの頃、一番若い人で明治35年生まれ、」

川井:「一番若い人で明治35年生まれ、江戸時代を知ってる人でしょうか」

森田:「80歳とか90歳とかの人がずらっと並んでいるんですね。そうするとやっぱり頭に叩き込んだつもりだったんだけど、改めて読んでみて、今回前から気になってたことなんですけど、江戸っ子の自慢は水道の水で産湯を使ってたと言いますでしょ。神田上水があって玉川上水があって、そっちが江戸の裏町で長屋にあって、長屋の井戸は掘抜き井戸ではなくて、神田上水が分かれてって、それを汲む場所なんです。」

川井:「地下水ではないと」

森田:「ところが、このお茶屋さんが、語ってるのがあって、貴重な発言でね、東京の茶屋、お名前はいいんですけど、お茶の話が出ていて、」

川井:「その本自体が昭和初期の本というか、」

森田:「昭和初期ではないですけど、まあ半ばで、この本にはこんな記述があります。「神田には昔はいい井戸が随分ありましたがビルでみんなつぶれてしまいました。」井戸があったって言うんですよ、神田に。もしそれが神田上水の水だったらとしたら、早くに廃止されてますから、いい水なんてことはないわけだから、」

川井:「人工的な、本当の井戸があったわけではないと」

森田:「地形の話になるんですが、本郷の台地から途中神田川でぶった斬れられますけども、そのあとずっと地下水っていろんな層があるから、神田川の下を流れてる水もあるんで、というのはもうちょっと下流、江戸前島って言うんですけど、日本橋のところ、銀座の途中ぐらいのところまで島だったんです。長い半島だったんで、その途中で日本橋のすぐ先に、今は東急のコレド、日本橋コレドの1号館になっちゃったところに、昔は白木屋っていうデパートがあったんです。」

川井:「はい、火事があったところですね。」

森田:「そう火事があったんです。有名な話で。その白木屋の井戸というのは有名な井戸だったんですよ。僕は前市場の歴史をやろうとした時に、日本橋の魚市場が魚を処理するのに、よく考えてみればわかりますけど、水を大量に使うでしょ。日本橋川がすぐ埋まっちゃうんで、江戸時代はそれを維持するシステムができてたんですけど、明治政府がその辺よくわかんないから、ちょっとほっとくと10年ぐらいですぐ埋まっちゃうわけですね。で大変だってことで浚渫することにしたんです。一時期、その時日本橋の橋のたもとにあった魚の市場を、箱崎に移転するんですね。ところが、移転してなんとか半年やったんだけど、みんな文句たらたらで、というのは箱崎だと隅田川に近いもんだから、隅田川って汽水ですから、純粋な真水じゃないから、井戸掘っても塩水が入ってきちゃうんですよ。」

川井:「ほうほう」

森田:「そうすると、やっぱり真水じゃないと洗い流したりするには良くないみたいで、これはダメだと。それで実は最初に移転の候補地として、箱崎って言われてたんだけど、箱崎はなしになって、結局築地に移転するということになりました。それには50年ぐらいかかるんですけども。ということは、当時の日本橋の断面図なんかを見ると、船で運んできた魚を上げて、そのすぐ隣に、井戸がずっと並んであるんですよ。その井戸は神田上水の井戸じゃなくて、本当に湧き水があったんだということらしいです。神田の、日本橋の井戸については白木屋の井戸があるからいいんですが、果たして神田はどこに井戸があったのか、わかんないんですよね。」

川井「うーん」

森田:「御茶ノ水っていうじゃないですか、御茶ノ水ってのはもともと将軍がお茶を入れるのにいい水があそこの湯島側にあったわけですよ。だから駿河台から井戸水が汲めたわけなんです。あの大きな渓谷ができたところで、それで完全には分断してなかったんです。」

川井:「あれも知らない人が見ると、自然の川に見えるかもしれないけど、掘ったんですよね。江戸時代に。わざわざあそこを全部。この前先生がおっしゃってた、駿河台なんとか山だったかな、なんとか山の土をこっちに持ってきて、」

森田:「神田山ですね。」

川井:「神田山でしたっけ。その話をちょっとお聞きしたかったんですけど。」

森田:「ええ、ただ神田山がどこかっていうことは、わからないんです。僕の友人が大学の先生やってるんですが、もともと出版社の社長だったのが、今どこかの女子大の先生やってまして、彼が言うには、地形的にですね、かなりおかしいのが明治大学の裏あたりだそうです。明治大学の側があって、アテネフランセ知ってます?」

川井:「ええ、はい。」

森田:「アテネフランセのところなんて、本当に急な崖ですよ。あそこの急な崖がもともと小石川って川とか、平川って川とかが流れてて、それの浚渫によって削られたとは思えないと。あそこから大量に土砂を取ったのではないかと。ところが文献に出てくるのは、柳川というどちかかといえば秋葉原川の方なんですよ。だからまだ神田山を突き崩したっていうけれども、どこを突き崩したかわかってないみたいです。」

川井:「うーん」

森田:「結局深層だとわかるんですが、表層なんてそう簡単に地形学的にわかるもんじゃないみたいですね。」

川井:「僕は高円寺に住んでいるので、神田に来るのに中央線か総武線を使うわけですけど、珍しく地形が面白いですね。この路線は。山手線なんかは乗ってても地形がわかるようなわからないような、もう開発され尽くしているから。でも、原始的な四谷の赤坂の下をくぐり、四谷見附っていう不思議な堀の中にある、これはなんだったんだみたいな場所をいっぱい通るんで、面白いなと。駿河台ってのもいまだとビルがいっぱいあるから、何が台なのかよくわからないけど、ニコライ堂が一番高い建物だったんですよね。当時は。」

森田:「あのね、今の線形になったのは、ある程度説明はつくんですよ。2つ候補があったっていうんです。外堀の間は四谷のところまでは、四谷っていうか市ヶ谷かな、あの辺までは堀をうまく使うってことを考えた。そこから先をどうするかでもって、」

川井:「それは電車の話ですか?」

森田:「そう、電車。2つ候補があって、一つは靖国通りをまっすぐ行く路線と、今の代々木、代々木は遠回りだからなんで行ったのかっていうと、一つの説明は、今の神宮外苑があそこ演習場ですから」

川井:「軍事的な」

森田:「そう軍事的、日露戦争の時の兵員輸送のためにということで、だいたい明治の初めから軍はあまり鉄道に対して賛成じゃないんですよ。どうしてかっていうと、東海道線っていうのは随分ギリギリまで東海道線じゃなくて、中山道の方、つまり中央線の方を優先すると考えたんです。だって砲撃されたら、艦砲射撃されたら一発じゃないですか。」

川井:「海沿いは」

森田:「海沿いは。軍事的にかえって。あとは敵が攻めてくるんですね。この間新橋の方に聞いたんですけど、一番最初の明治5年の東京横浜ですら、品川のところまではいいんだけど、品川からこちらに関しては軍が反対して、なかなか軍用地を使わせなかったんです。しょうがないから、海の上に土手を作って走ったから、海から見て丘の上を走ってるから陸蒸気だったんです。」

川井:「へえ、陸蒸気ね。」

森田:「それはもう海上に作ったんです。」

川井:「船が蒸気船だったから、陸地を走るのが陸蒸気というわけなんですね。」

森田:「ええ、それはもう軍としては、攻め込まれたらもうどうしようもないだろうと。よく言う話はある本で読んだんですけど、横浜の山手のところに軍をイギリス軍かな進駐させて、租界になる可能性があって、そのせめぎ合いでかろうじてならなかったというのがあるんですね。一時期は大規模じゃないけれど、イギリス軍、フランス軍が進駐してたんですよ。だからいつでも来ると考えていたんですね。」

川井:「今地形の話から始まりましたけれども、」

森田:「それでねもう一つ、なんで靖国通りじゃダメなのかということですが、すごくわかりやすいんですよ。山手線がもう、山手線て支線ですけど、赤羽から品川までの線が出来てるでしょ。その後甲武鉄道作りますでしょ。もしまっすぐ行っちゃうと、直行しちゃうんです。秋葉原みたいに。当時のこと考えてみると、それじゃあまだ山手線できる前ですから、ある時期のの字運転っていう、あっちにも行けるこっちにも行けるという、代々木と新宿の間は平行してますよね、あれが必要だったわけです。」

川井:「のの字のカーブのために」

森田:「スイッチバックしなきゃいけない。当時は逆転することはできなかったんです。」

川井:「ああ、ターンテーブルとかなかったから」

森田:「一台だけなら大丈夫だけれど、列車になって車両が数台あったら、最長2両連結ぐらいなもんですけど、機関車があって後ろに何両かって時、方向を逆転できないじゃないですか。」

川井:「今のように車掌が運転席に行って、逆方向に行けなかったんですね。なるほど。山手線も何かの輸送ラインだったんですよね。最初は」

森田:「山手線は高崎の方から生糸を横浜で輸出するためですよね。まあその鉄道の問題が、神田の発展にすごく大きな影響、変化をもたらしているんです。この本にも載ってましたけど、秋葉原っていうのは明治22年に秋葉原に駅ができるんだけれども、長らく昭和の初めまで単なる貨物駅ですから、上野で電車は止まってたんですよね。貨物線だけが秋葉原まで来ていた。しかもあそこは貨物が来たらすぐそこで積み下ろして、すぐ船に乗せて、今のヨドバシカメラのところが大きな堀で、あそこに船を浮かべて、船に乗せて神田川からあちこちに持って行った。だから何かっていうと、いろんなものがあるんですけど、特に重要だったのは、仙台平野でとれた米なんですよ。まだ新潟の方が米どころじゃないんですよ。信濃川の分水がまだできてなくて、新潟の方は胸まで浸かるような深い田んぼしかなくて、米どころじゃなかったんで、東北地方の米ってのは仙台だったんです。仙台米ってのは本当に重要で、それがどんどん来るわけです。」

川井:「うーん」

森田:「そのために神田川沿いに、神田川っていうと米問屋の支庁になるんです。江戸時代以来深川には米問屋があるんです。もう一つ米ってのは江戸時代以来、投資対象なんで、人形町の蛎殻町のところに投資対象としての米の市場があって、その市場では正米(しょうまい)って正しい米と書くんですが、米自体の市場は深川と神田川にできるんですよ。神田川は今のヨドバシカメラのところ、駅の細長いちっちゃな公園があるのご存知ですか?あの公園がもともと水路だったんです。その水路から、神田川に出る出口のところのビルの中にその市場があって、あの辺はもう米問屋ですから、大金持ちがいっぱいいて、その息子の一人が仏文学者の鈴木伸太郎っていう東大の先生やったりした人です。」

川井:「今ちょうど地政学の話から、その文化を形作った人の話になってきそうなんですけど、先ほどの青果市場があったり、今もうないからわからないけど、繊維街もあったりとか、神田は今とは違う形で色々なものが集積していたという文化を感じるわけですよね。」

森田:「今の秋葉原のところの万世橋って橋がありますよね、万世橋ってのは明治になって、もともとあそこは筋違門という筋違いと書く」

川井:「侵入されないように、筋違いに」

森田:「それは違うんですよ。そっちは四谷の方なんですよ。四谷御門のすぐ隣の門が食い違い門っていって、似てるんだけども、こっちは食い違いなんですよね。それは入る時に食い違いになってギザギザになっていて、珍しく枡形というのがなくて土手しかないような、なんでそうするかっていうと、いざという時に最後の逃げる門なんです。江戸城ってのは最後に負けた時には、甲州街道をずっと逃げていくというプランなんです。向こうから入ってきた時にですね。それに対してこっちはすじかいという、すじかいって建物に斜めに木を打つじゃないですか、あれがすじかいですね。日本橋から本郷の方へ行く中山道っていう通りと、お城から上野に行く御成道(おなりみち)御成街道っていう道があって、それがぶつかるところなんですよ。すじかいなんです。そこにさらに神田川も、最初期はともかく改修してからは、舟運がありますから、紅梅河岸とかいろんな河岸がありまして、通線屋敷なんてそういう拠点もあったりして、近代の話、もともと米屋が、秋葉原の駅ができてからですけど、それ以前は佐久間河岸っていう今の秋葉原のところですね、秋葉原のところの神田川沿いは佐久間町というところなんですけど、そこの河岸はだいたい材木とかとか竹ですね。だから衣食住の住関係の材料を用意する場所だったんです。全体に神田川沿いっていうのは、江戸の町全体に対するバックヤードの役割を果たしたんですね。」

川井:「ふふーん」

森田:「今考えれば常識的な話なんですけど、お殿様とかお姫様はともかくとして、新しい着物なんて高いものですから、今よりもっと高い、一着何百万するようなもの、そんなのを庶民が着られるわけはないわけで。ちょうどイメージとしては、高円寺ですよ。」

川井:「古着屋さん!」

森田:「高円寺とか下北沢とか、古着屋さんですよ!古着屋さんが庶民の普通の生活なんです。」

川井:「ファストファッションですね。」

森田:「ファストファッションがそこの柳原っていう今の秋葉原から東の方へ隅田川までずーっと、さっき言った筋かい御門という万世橋の50メートルぐらいずれたところ、今マーチがあるところ、あそこからずーっと隅田川まで両国橋のところ浅草橋ですけどね、柳橋のところまで高い土手があるんですね。この土手は二重に、水害を防ぐことと、それから防火の二重の意味を持っていたんですね。水害は当然隅田川が氾濫した時に、ギリギリあそこで止めておこうと。」

川井:「ふーん」

森田:「実は何重にも堤が作ってあって、その一つが吉原なんですよ。吉原は単にあそこに吉原作っただけではなくて、吉原から浅草寺の裏のところまで、山谷堀って堀があるんですけど、これは土手と俗に言うんです。本当に高い土手があって、土手の上をみんな歩いて行くんです。その土手はいざという時、水をあそこで遮る。つまり台東区の南と北を遮るぐらいのところで、そこで切って、向かい側は隅田川の墨堤ですよね。そして完全に塞いじゃうとそこであふれちゃうから、じょうご状にしてあって、利根川が大氾濫を起こすと、そのじょうごを通って徐々に隅田川に流れて下流に行くようにしてるんです。町が洪水になんないように。でもそれも突破するかもしれない。突破したら最低限、神田川のところで柳原の土手で整えると。かなり色々考えてたところです。」

川井:「ふーん」

森田:「それで土手があるから常設のものは立てられない。だから仮設で屋台みたいな店で、そんなところで扱うものっていうと古着なんです。」

川井:「なるほどー」

森田:「古着屋は昼間だけしか営業を許されませんから、夜になると閑散としたところになって、今度は夜鷹っていう娼婦たちが来るわけです。それはもう古着の話も娼婦の話も江戸の川柳にはもう必ず出てくる、落語とかにも出てくるような話です。」

川井:「防災を理由にそういう風になってたっていうのが面白いですね。」

森田:「なにしろバックヤードで、片方に古着街があると、真ん中に八百屋の市場があって、幕府に入れるのは一部であとは一般に売れるんですね。江戸の三大青物市場っていうのが、一つは千住、北千住です。南千住じゃなくて。一つがこれは分かりづらいんですけど、南北線の本駒込っていう地下鉄の駅あたり、土物店っていうんですけど、ここの場所ってどういうとこかっていうと、中山道っていうのは、日本橋からこう来て神田明神の前を通って、本郷通りをずーっと行くんですけど、東大の前を通り過ぎた法学部のところ本郷追分で二つに分かれるんです。左のほうへ行って、駅でいうと巣鴨のほうへ行くのが中山道で、巣鴨から板橋のほうへ行く、それに対して、まっすぐ行って駒込駅から王子のほうへ行くのが、これが岩槻海道。これはかなり重要で、何かというと、将軍が使うんです。将軍が日光に参拝するときに、日光街道自体は、違うな、本来は浅草寺、隅田川沿いに浅草寺のところを通って、ちょっと内側を行くと、吉野通りってあるんですけど、地下鉄の南千住の駅を通って、千住大橋からってなってるんですけど、そっちは低地だから、将軍の一行は防衛上問題があるんですよね。」

川井:「うーん」

森田:「危ないじゃないですか、いつ暗殺されるかわからないですからね。そうすると少なくとも江戸の中にいる間は、台地をずっと追っかけて行った方がいいんで、尾根道ですよね。それで東大の前を通って、一度下に降りるけどまた台地登って、赤羽まで行って、赤羽から岩堀っていうところを通って、川口に渡ってって感じで行くんですけども。江戸の道ってのは、古くの鎌倉街道からちょっとずつ微妙に変化しながらきてるわけで、道のことをわからないと東京のことがわからないですね。南の方も渋谷にしたって、五反田にしたって、古い道があるから街があるんで。」

川井:「なんか千代田区はその場所にまつわるエピソードとか、そういう歴史が書いてある板があるじゃないですか。あれで見ると江戸時代の古地図なんかもあって、今でいうと外堀通りが大きくて目立つけどあれはわりと最近の道で、ヒマスタの前にあるこの道なんかはわりと古道らしいですね。生地町と言われて、職人がろうそく作ったり、」

森田:「ろうそく町もありますからね。」

川井:「そういう話を聞いて、結構江戸の昔から町割りはこのあたりは少し名残があるんだなと、思いましたけれども」

森田:「これは前回も申しましたけども、なにしろ江戸時代以来のすごく重要な万世橋ってのがあるところだったものですから、四方八方からの交通が一箇所に集中するわけでしょ。だから大変な状態になって、本で書いてあるだけじゃなくて、僕の場合江戸博の仕事をやった時に、お名前は覚えてないですが、おばあちゃんが昭和初期のことを思い出して、なにしろ自分の家の前で迷子になっちゃったんだって。」

川井:「それは」

森田:「まあ事実じゃないと思うんですが、そういう風に言われている土地だったんです。もうすごい雑踏で、」

川井:「それぐらい人が多いと、」

森田:「ええ。」

川井:「自分の家に帰るのも大変だったと」

森田:「乗り換えしげき須田町の交差点って言ってたんだけど」

川井:「神田は古い老舗みたいな蕎麦屋さんとか藪蕎麦とか、あんこう鍋の店とか、ああいうのがわりと須田町に密集してますよね。今須田町って見ると、特に駅もあるわけではなく、淡路町はあるけれども、なんでだろうと思うと、都電のものすごい駅だったんですね、あそこらへんは。ターミナルというか。」

森田:「ええ、だからすごく人の混雑してるところだから駅ができたんであって、駅前だから繁盛したっていうわけではないんですよね。先にもう人の動きがあって、だって先のことを考えれば今でこそ中央線で、みんな向こうのほうに住んでるんだって、あんなの関東大震災以降ですからね。甲武鉄道があったからといって、そんなにあれなわけじゃないですよ。シンボリックなもんで、万世橋駅は本当に立派なレンガ造りの駅で、あと新橋も立派な駅で、それと東京駅と3つ対にして、東京駅あれは天皇陛下の駅として作って、庶民の駅は万世橋、神田の人間のための万世橋駅と、銀座の人間のための新橋駅という感じの組み合わせだったんです。その次の時代になると、ほんのちょっと10年ぐらいの間なんだけど、神田駅ができたときは神田駅なんかは駅舎もない、純粋に実用駅なんです。」

川井:「神田駅って、こう曲がっているじゃないですか。町をカーブしてるから。昔通すのも大変だったという話も聞きましたけれども、方向感覚がわかんなくなりますね。」

森田:「そう、わかんなくなりますね。」

川井:「どこに出ても似たような街だから、神田慣れてない人って西口なのか北口なのか東口なのか、出た瞬間に迷っちゃうみたいな」

森田:「でも、距離の問題もあり、東京駅と近すぎるんじゃないかって話もするんだけど、」

川井:「もう見えてますからね。」

森田:「あそこはどうしても中央通りだから、あそこに駅を作らざるを得ないんですよ。だから駅というよりも、ほんの10年ぐらいの間に、まだ万世橋駅を作った時点では、まだ鉄道ってのは蒸気鉄道が中心で、駅っていうのはかなり遠くまで行くためのホテルみたいなものだったんですよね。駅そのものが。東京駅にも東京ステーションホテルってあるでしょ。なんか都市における大きな儀礼の場所みたいなみたいなもの。」

川井:「儀礼の場所」

森田:「万世橋駅の2階に芥川龍之介が好きだったんだけども、カフェがあって、そこで食事をするってのがあるステータス見たいな感じだったんです。待合室って感じの」

川井:「なるほど、今でいう空港のファーストラウンジだよなうみたいな感じですね。」

森田:「そうそう、空港ですよ空港。空港だった世界からほんの10年で実用的な世界に移っちゃうわけです。」

川井:「なるほど、上流階級しか駅というものを使わなかったわけですね。」

森田:「ええ、それは微妙にほんのちょっとの間だから、私の父は大正5年生まれだから私の父あたりがちょうど転換期だったんですね。彼らにとって電車っていうのは路面電車のことなんですよ。戦前市電を都電と言ったもので、それが昭和10年になると、完全にもう当時の官営鉄道の言い方は省線っていうんですが、省線は通勤用になっちゃうんですよ。」

川井:「はい。」

森田:「最初は京浜東北線、京浜線かな、あっちの京浜東北線ですけど、中央線沿線に関東大震災の後、みんな住むじゃないですか。みんな中央線で通勤するわけですよ。通勤電車ですよ。その辺りが今の大宮の鉄道博物館行くとよくわかりますよ。」

川井:「なるほどー」

森田:「今と違ってカラフルじゃないけど、みんなこげ茶色のあれだけども、中の作りは木で作ってるけれども、だいたい今の電車のスタイルになってるんです。」

川井:「昔はエアコンもないし広告もないから、ああいう車両を展示で見ると、すごく天井が高く感じますよね。」

森田:「ええ、そうですね。」

川井:「あれ、こんなスカーンとしてるって。しかも京浜東北線は確か地形に沿って、台地と丘陵地帯の間をほぼ引いたっていう話がありますもんね。僕も今高円寺から神田に来てるんで、高円寺自体も高円寺とか三鷹とかあっちの方ですね。関東大震災で焼け出された人たちが家を無くして、あれは政府主導でこっちへ移れということになったんでしたっけ?」

森田:「いや、あのね、もう本当に下町が嫌になったんですよ。」

川井:「それはあまりにも壊滅的に」

森田:「壊滅的だから。まとまって移動するんですよね。」

川井:「そこが面白いですね。」

森田:「僕が聞いてるのは、地元の高円寺ね。高円寺の北口のほうの、西のほうの商店街、駅のすぐ前は結構あれだけど、ずーっと行って高円寺中通り北商店街ってあってちっちゃいところ、そこの話を商店会長から聞いて」

川井:「商店会長から聞いてってすごいですね。」

森田:「そこは、どこからとは言わなかったけど、下町からまとまって移転してきたんだと。だからみんな下町の人間なんですよって。」

川井:「でも下町の人にとっては、いくら壊滅したからって、今までそこで商売していて、そこにマーケットがあったわけじゃないですか。それがいきなり中央線に出てきて、距離感でいうと今より遠いと思うんですけど、中央線の新宿の先のそんなところに、」

森田:「なぜ可能だったかっていうと、今は無くなっちゃったけど、戦前の軍隊の施設があったんですよ。」

川井:「そうか、そこにマーケットがあったんですね。」

森田:「陸軍の気象隊ってのがあって、」

川井:「気象神社ってありますもんね。」

森田:「本来はあそこの先のなんとか公園があってあそこの部隊が広い敷地が気象部隊だったんです。」

川井:「なるほど、なるほど」

森田:「陸軍の部隊があれば、商売は成り立ちますよ。」

川井:「そっか、そういうのも見込んで、あっちへ行ったと。それが中央線沿線に散らばったというか、」

森田:「ええ」

川井:「そういうことですね。似てるんですよね、庶民的で活気がある感じが。なんか同じとこから同じとこへ移動してるような感じがしていて。」

森田:「下町の人間なんですよ。だから下町の人間が来たところでは、もう一つ知ってるのは、世田谷区の三軒茶屋、」

川井:「三茶」

森田:「三軒茶屋のど真ん中じゃないですけどね、ちょっと外れに下谷商店街、今はもう寂れちゃってあれなんですけど、昭和の終わりぐらいまではかなり活気のあるいい商店街だったんですね。そこが下谷から来たんです。下谷って上野の。上野あたり震災で焼けたからあっちへ移ったという。」

川井:「なるほどねー」

森田:「そういったものってね、杉並区、世田谷区にはずいぶんあるわけですよ。杉並区ってすごい下町っぽいところと、高級住宅地みたいなところが、まだら状態であるじゃないですか。」

川井:「うーん、ここでちょっと閑話休題的にね、森田先生といえば居酒屋ハンターとか、闇市ハンターとしてもいろんなお店に行ってらっしゃいますが、今日は神田の文脈で話してますが、森田先生が魅力を感じる飲屋街は、どんなとこで、どんなものがあると、森田先生がぐっと惹かれるんですか?」

森田:「もともとは僕は新宿のゴールデン街しか知らなかったから、ゴールデン街だけですからね。」

川井:「あ、そうですか」

森田:「四十過ぎて、というか五十過ぎてからか、mixiでもって若い友人とやり取りして、ちょうどその頃が居酒屋ブームで、居酒屋ブームって第何次かあるけれども、太田和彦さんあたりはやや高級だけども、居酒屋案内人としては、一番好きなのは、なぎら健壱さんですね。なぎらさんが好む店はだいたいいいんだよねー。太田和彦さんのはセンスいいんだけど、ハイブラウ過ぎてね、」

川井:「価格的にもね(笑)」

川井:「いいですね。居酒屋というと僕らも本読んでたら、せっかちな江戸っ子が酒屋に行って酒を買って、それを店先で飲み始めて、酒屋がじゃあつまみでも出すかとつまみを売り始めて、酒屋に居座ることを居酒屋と言い始めたみたいな話で、せっかちな江戸っ子という話を聞いて、」

森田:「せっかちかどうかはさておいて、庶民層がお店で料理したものを食べるなんてそんな余裕はないですから、私の父は凸版印刷で、毎晩酒飲むような人ではなくて遊ぶタイプの人ではないんですが、職場の同僚と必ず夕方、昔の人って定時9時ー5時じゃなくて、8時ー4時だったから、それも自分で全部裁量できる労働だったので、本当に裁量労働で4時に仕事が終わって定時で帰ってきちゃうんですよ。」

川井:「今よりブラックじゃなくていいですね。」

森田:「全然ブラックじゃない。定時で上がって、30分だけ同僚と一緒に酒屋へ行って、角打ちして、缶詰で、お腹にたいして入らないようにして、家に帰ってちゃんと夕食するっていうことです。」

川井:「ああ、いいですね。神田も出世通りにいい角打ち屋さんがあって、見るといつも賑わってるけど、なかなかさっとは入りにくいなと、見てるんですけどねー」

森田:「角打ちは僕は好きなのは、人形町にあるんですけどね、人形町の駅からはかなり離れてて、500メートルぐらい離れたところにあるんだけど、何てたっけなー、いいんだよ。本当に毎晩いっぱい人がいるけれども、その時間以外は普通にただの酒屋さんなんです。」

川井:「角打ちって飲むお酒は缶ビールだったりつまみは乾きものじゃないですか。また行く角打ちは、何がいいんですか?どこが分岐点なんですか。来てる人が面白いんですか、それとも女将が面白いんでしょうか。」

森田:「あんまりそれはねえ、それを意識するのは変ですよね。」

川井:「ああ、あまり意識しないと、足が向くかどうかという」

森田:「あんまり角打ちの親父さんが愛想良かったりしたら変じゃないですか。」

川井:「飲食店じゃないんですからね。なるほどねー。そうですか。神田も闇市の跡がまだいろいろ残っていて、高架下なんかもかなり、今再開発が入って、」

森田:「あそこねー、この間歩いたら、今川小路が完全に全くなくなっちゃって、」

川井:「今川小路もなくなっちゃって、僕は中のお店に入ったことないんですけど、浅丘ルリ子がいたとか話に聞きましたけど、あの一帯は戦後のすぐの時代からあったわけですよね。」

森田:「僕も知らないですよ。今川小路はさすがに入れなくて、雰囲気壊しちゃ悪いじゃないですか。常連さんが飲んでるのに。」

川井:「新参者として」

森田:「変な奴がいるとこっちもそういう目で、だってこっちがゴールデン街でやってるから、」

川井:「何をやってるんですか?」

森田:「ふらっと入ってくると、あっなんか嫌な奴はいってきちゃったなみたいな感じで目で見ちゃうんですよ。」

川井:「ええーっ、そうなですか!そんな閉鎖的なの。」

森田:「そりゃそうです。ゴールデン街はどうしたってそうですよ。一軒ずつ違うから、はしごするんで、ちょっと雰囲気変わったら他へ逃げちゃうという。」

川井:「へえー、でも森田さんも休肝日がなさそうなライフスタイルに見えますけど、イメージですけどね。」

森田:「前はそうでした。今は全然違いますけど。」

川井:「今は体重のレコーディングダイエットをやってらっしゃいますけどね。」

森田:「糖尿病の数値が高くなってからは、全然もう、毎晩飲むことはないけれども、まあ20代、30代、40代、50代の半ばまで、ていうか50代いっぱいぐらいまでだなあ、還暦まではほぼ毎日飲んでましたね。」

川井:「次は飲み物何にしますか?」

森田:「じゃあハイボールで」

川井:「ではお作りします。でも飲み文化というか、そういうのも街を形成する歴史の中ではすごく重要ですよね。神田は今も飲み屋多いですよね。これはもう昔からでしょうか、新橋なんかも多いですけど。」

森田:「新橋ほどじゃないですよね。」

川井:「飲み屋としては」

森田:「層の厚さというのは、だって新橋は一辺1キロメートルどころじゃないでしょ。1キロ四方べったり全部飲み屋だもんね。」

川井:「やっぱり抱えている会社員の数が違うんですね。勤めてる人の違いなんですかね。」

森田:「神田の場合には、駅の近くは幅50メートルぐらいはあるけれども、ちょっと離れると、バラバラに通りだけですもんね。中野がすごいじゃないですか。中野の北口なんて、面として幅300メートルかける700メートルぐらい」

川井:「昭和新道のあたりですね。あそこもいいですよね。」

森田:「ただべたーっと面として酒場があるからといって、すべての店に行くわけじゃないですよね。その中のごく何軒かだけだから。」

川井:「そうですね。神田の人と僕もそんなに密にお付き合いがあるわけではないですが、ミッドスタンドの宅間さんなんかは、まさに僕にとっての下町文化の案内人というか、イメージそのものだったりで、あと森田先生もそうなんですが、落語の世界から飛び出してきたような威勢の良さ、これは何か時代劇の中野人物のようなキャラクターが強い方が多い印象が、外神田の時はそういう人にあまり出会わなかったんですが、この内神田だと、」

森田:「外神田と内神田はかなり違うと思います。本当に多町の人たちはすごいんですよ。「東京人」の一昨年の号があったじゃないですか。ディープ神田って本。あそこに全員いますよ。田畑さんや後藤さん立山さんと。まあ、みんなすごい方で」

川井:「後藤さんにどうやって近づこうか考えてるんですけど。なかなか近づけなくて」

森田:「後藤さんはやっぱりね、ちょっと怖い。」

川井:「怖いですよねー。俺も最初結構怒られたんで。」

森田:「本当に怖いのは立山さんでね。立山さんはびしびし言うから。後藤さんはわりと皮肉混じりに言うから、また怖いんです。純粋江戸っ子は田畑さん。田畑さんところ角はまだ行ってないですか?」

川井:「お会いしたことはありますが、行ってはいないです。早く終わっちゃうんですよ、結構時間がね。8時ぐらいで終わっちゃう。」

森田:「そうですよ。一人だもん。自分が飲むための都合で」

川井:「確認はしたんですよ、ここが角だなと」

森田:「でもいいですよ、角は。だいたいわがままなんだから。江戸っ子のわがままさってのはいいんですよ。」

川井:「それは慣れてらっしゃるから。初心者にとってはアドバイスしてくださいよ。最初にこう言われるけど驚かない方がいいよとか、こういう言い方をするよみたいな。」

川井:「でも面白いですよね。神田の下町文化っていうのは、例えば連雀亭があったりとか、落語の場所があったりしますけど、もともとは町人街というか職人街で、そういう人たちの」

森田:「それも本当にね、多町二丁目だけはそれが残ってるんですよ。変な話で多町というのはもともとが市場町だったのに、後藤さんなんかは代々の棟梁ですからね、大工の棟梁の息子がね、彼は家を継がなかったんですが、某スーパーゼネコンの社員なんですよ。同じじゃんとも言えますが。一級建築士になったんで親は喜んでくれたようです。」

川井:「へえ、そうなんですか。」

森田:「それで後藤さんの家のお向かいが、山路さんって鳶のかしらですよ。それもいろはのい組かな?」

川井:「いろはのい組!すごいですね。」

森田:「後藤さんちがあって、隣に宿場があって、向かいが山路さんで、なんかあれなんですよね。多町が神田の中心だったよね。本当は鍛冶町あたりが神田の中心だと思うんだけど、鍛冶町のほうは、立山さんの東京人の号を改めて読んでみたら、やっぱり企業化して、ビルの中の商社になっちゃってるんです。そんな巨大な三井物産とかのようなスーパーではないかもしれないけれど、そこそこ年商何十億かみたいな商社で、ビルの何階かにあるわけです。そうすると個人商店ではもうなくなっているという感じはしますね。」

森田:「金山神社って知ってます?」

川井:「ちっちゃい神社ですか」

森田:「駅の向こう側にあるんですけどね。そこは金物通りって、一時期はねじ屋さん、ねじの問屋さんだけで25軒もあったって東京人に載ってましたよ。駅のところは鍛冶町だから、そういう関係なんですね。金属関係がずーっとあって。そことさっき言った柳原の通りはもともと古着屋さんだったのが既成の服屋さんになって、それから付属品、ボタン屋さんだとかリボン屋さんとかそういうのが並んでって、その中間に、僕が家庭教師で行ってたことがあるんだけど、岩本町あたりには瓶屋さんの問屋さんだとかがありました。なんてことなくても、神田だからビル1本持ってると、資産はウン億なわけですよ。」

川井:「確かに。」

森田:「神田の人はウン億は持ってるのが当たり前というね」

川井:「そういう余裕が、高等遊民ですね、皆さん」

森田:「だから神田学会で会合があると、100人ぐらい集まると、一部丸ノ内から会社から派遣されてくる人もいますが、ほとんどがだいたい社長さんが来てます。宅間さんみたいな人がずらっと並んでるんです。これは全員の資産合計したら大変な話だなと」

川井:「合計したら!下々の者とは違いますね。やはりね。」

森田:「でも維持するのはみんな大変だから、」

川井:「でも動きもいろいろあって、入れ替わり激しいですよね。神田もお店とか」

森田:「そのへんのとこですね、今日もテーマの神田文化っていう話ですけども、私の死んだ父なんかも新しもの好きで、何か行事があると飛んでいくんですよね。それは音楽でも。一番驚いたのは、いやみだったかもしれませんが、テレビのシルクロードかなんかの番組で喜多郎をやってて、シンセサイザーを父が聴いてるから、それはねえだろうと思って、当時はまだLPだったからLPレコードを買ってきて、ドイツロックのタンジェリンドリームのクラウス・シュルツェのを持ってって、ちょっと置いといて、こんなのもいいよって言ったら、そのうち聴き始めるんですよ。」

川井:「お父さんが。いいですね、息子からの」

森田:「もともと神田の街ってのは、今は無くなっちゃったけど、戦争で焼けたとこはそんなに多くないんだけども、戦前は新天地というカフェー街があったんです。父は遊び人じゃないから、喫茶店でクラシック喫茶があって、アイネクライネって。そこに通ってたんですね。戦前のことだから仕事があっても、夕方には終わっちゃって帰れるんですよ。そうすると当時まだSP版ですよね。SP版でドイツ直輸入のグラムホンから送ってきて、誰の演奏が来たって待ってるわけですよ。そんな感じだったんですが、戦争4年行ってたんですが戦後復員してからは、日比谷公会堂がGHQのレコードコンサートの場所だったんですよ。あそこでシェーンベルクなんかを聴いていたようです。割と早くからいわゆる現代音楽ってのを聴いていたわけです。なにしろ新しいものだったらなんでも好きなんですよ。」

川井:「好奇心旺盛なんですね。今現代の神田で、森田さんがよく行くというか、面白い人に出会えるというか、そんなポイントはありますか?」

森田:「いや、ないですよ。」

川井:「ないですか(笑)飲み屋さん言ったら、だいたい同じ人と喋ってますよね。」

森田:「10年ぐらい前かなあ、震災からもう8年だから、7年か、その震災の2年ぐらい前まで、神保町に「人魚の嘆き」という店があって、谷崎潤一郎の小説の名前なんですが、松本さよこさんというのがやってて、そこは溜まり場で、小学館の社長が来たり、毎日新聞の記者が来たりして、そういう溜まり場的なところはありましたけどね。」

川井:「それは店主のキャラクターに惹かれてということですね。店主の」

森田:「だからあんまり会員制っぽい店ってのは、もう行きたくないなあと思います。今でも行く店は新宿にはあるんですけど。神田ではそこ「人魚の嘆き」が、10年ぐらいやってたかなぁ、2011年にはやってなかったから2000年から2010年ぐらいかな、震災の頃には彼女もう店はやめてどうこうしてたから。」

川井:「神田司町つながりで言えば、フィガロ亭という店が面白かったよという話を聞きました。」

森田:「フィガロ亭面白かったですよ。それはmixiでの付き合いで、この前いた連中ですよ、ホッピーの話題。今度王子で花見があるんで行きますけど、もう花はないけど。」

川井:「もう来週は花はなさそうですけど。そうですか。」

森田:「神田のこれからったって、この手のガイドブック見てても実によくできてて、お店のことばっかりだけども、やっぱり「東京人」でディープ神田をやったのが、大きいんでしょうね。これも琴田さんが案内してるから、きちっと的確に書いてますね。」

川井:「ツボは押さえている。」

森田:「よくなってるんだけれども、いい店いっぱいあるんですよと、ノスタルジーはいっぱいあるんだけれども、この新しい切り口が神田っていう風には、僕はエイ出版社ってのは好きなんですが、よく編集されてると思うんだけど、じゃあ神田が新しい何かを生んでいるのか、とまでは切り込んでいないなと思います。」

川井:「ふーん」

森田:「それほど悪くもないよって感じにしか見えないんだよなぁ(笑)」

川井:「なるほどー。やっぱり森田先生はいろんな図書館行ってるから、どこの図書館にどんな本があるかをだいたい知っていて、あれを調べるんだったらあっちだなと、」

森田:「調査仕事が長かったんで、今はもう離れて10年近くなっちゃったんですが、15年ぐらいまで前までは、ある時突然上司がこれ調べろって、バタバタって調べるっていう、それが勤め先の仕事もそうだったし、小学館でやってたサライのやつもそんな感じだったんです。」

川井:「サライもやられてたんですよね。」

森田:「情報発信では、ここ10年の東日本大震災からのこの10年って、肉バルとクラフトビアがすごいでしょ。」

川井:「クラフトビアまた新しい店があそこにできたんですよ。」

森田:「神保町ってついこのあいだまで、カレーの神保町だったのが、今はクラフトビールの神保町って感じでしょ。だいたいクラフトビールと肉バルがなんか交互にあるみたいな感じですね。」

川井:「学生街があっちから来てるから面白いですよね。」

森田:「ただ高円寺とか下北沢のような若い人の街ではもうないなって感じはしますけどね。そのへんどうなんだろうね。」

川井:「それは本離れってことですか?そういうことじゃなくて」

森田:「本っていうのはあまり関係ないと思うんですよ。住んでないというのは、もう昭和初期に、昭和の10年戦前一番豊かだったその頃を境に、それまで昭和の一桁の頃は、神田にみんな学生が住んでたらしいんですよ。あの頃から中央線がどんどん開けてきて、中央線から通学するっていう形に、地方から来た学生も。高度成長期にはもうみんな高円寺、阿佐ヶ谷でしょう。それほど遠くまで行かなかったけれども。だいたいあのへんで。だから高円寺、阿佐ヶ谷はいつまでたっても若者の街であるのは、昭和30年ぐらいから50年ぐらいまで続いてるんですよね。なんで高円寺は若者の街なんだろうね?」

川井:「いや、物価が安いですもんね。定食とかびっくりしますよ。400円とかでコロッケ定食とか食べてますから、やばいなっていう感じですね。神田も僕も最近こういう配信スタジオやってるから、スタジオとか飲食店ではないんだけれども、何かカルチャーを発信しようとしてるところは気になっていて、さっきも近くにできた音楽スタジオに、偵察というか見学に行ってきたんですけど、横のネットワークを作ってお互いに、コンテンツを作る側ですよね、発信する側で何か連携できないかなてのは、ぼんやり思ってるんですよね。そういう場所がもっと目立って、人を惹きつけられたら面白いなって思います。」

森田:「川井さんのお仕事の中での近い業種の人たちとの連携作業ってのは、神田ほどやりやすいところはないんじゃないかと思うんですよ。」

川井:「リッチとして」

森田:「それぞれが関心を持っていて、神田にたむろしている間に仕事が発生しちゃうような感じって」

川井:「そうですね、仕事の発生もそうだといいですが、まだそこまで行けてないかもしれないですね。ちょっとまだ外から呼んでいる感じはあるけど、近所の人と連携したいな。」

森田:「でもクリエイティブ系で言えばね、博報堂も本拠地あるんだし、電通だってクライアントから来てるものを具体的に形にできなくて困ってる案件がいくらでもあるはずなわけですよ。こういうやつとこういうやつさえいれば、そういうのが、その時だけ一致してできるような工房ってのが、十分可能性があると思うんですよ。」

川井:「プロデューサーハウスとかがやってるとこだなあ。あの神保町の」

川井:「じゃあだいぶ予定より長くしゃべっていただいて90分ぐらいになってきたんで、そろそろ締めたいと思うんですが、森田先生にとって数ある街の中で、神田というのはどんな魅力を持っているからまた行きたくなる街なんですか?」

森田:「うーん、・・・なんていうか」

川井:「人なんですか、それとも場所というか」

森田:「人に会ってるわけではないですから、神田に来てもね。行きつけのバーがあればそこで人に会ってるけども、どっちかっていうと、今も神田にしょっちゅう来るし、古本屋よりも新刊書屋に来る方が多いので、新刊書屋へ寄って、人と話してるわけじゃないですよね。駿河台下降りて、ちょっと行ったところに南洋堂っていう建築専門の本屋があるんですよね。」

川井:「コンクリでできてるかっこいい建物ですね。」

森田:「そうコンクリで。ここはなんと古本と新刊とが同時に置いてある店なんです。」

川井:「分け隔てなく置いてあるというか」

森田:「どういうことかっていうと、ニーズに合わせて店が作られてる。だから建築学生は必ずあそこへ行くわけですよ。課題が与えられた時にあそこに行けば、課題に必要な情報は全部手に入るんだから。図書館に行くよりも能率がいいっていうね。僕は建築学生じゃないけれども、関心ある都市関係のものはあそこに行けば、まとめてあるから覗く。店としても行く店はいくつかあるけど、ここんところ頻度は多くないかもしれないです。この辺りもフィガロ亭なくなっちゃうとね、フィガロ亭ある間は行けば誰かがいるっていうコミュニティでしたよね。でも神田でおとといあたりも、もうちょっと南の錦町のあたりを、いくつか歩いてましたけど、やっぱり面白い、廃墟化したところもそれなりに。それが何が面白いのかっていうと、知ってるから面白いのか、知らないことがあることが面白いのか。だってつまんない用事で来るんですよ。錦町にある神田橋から歩いて300メートルぐらいのところに薬局があって、そこで血糖値のチェックを500円でやってくれるところがあるから、月1回寄ることになったんです。そこの薬局のお姉さんたちとは、いろいろ糖尿病話をするんだけど。それは常連になればいいですよね。」

川井:「僕ね、まだ2年ですけれど、神田のこの司町ってとこに事務所を構えて、読む本読む本まさに江戸とか東京とか、東京考古学みたいな本を読むと、まず絶対に登場するわけですね、このエリアが。それがやっぱり面白いですね。高円寺も登場するけど、ページ面でいうと、中心じゃないから、そんなに頻繁に出て来ないじゃないですか。郊外じゃないですか。」

森田:「そういう意味でね、東京で一番好きな街ってどこかっていうと、西荻窪。」

川井:「西荻窪!西荻窪なんですか?それはなぜ。」

森田:「それは好きな店があるっていうだけなんですけど。別になんてことない戦後すぐ風の珍味亭っていう台湾料理っていうか単にモツを焼いた、豚足とかそういうのが5〜6種類あるところなんですね。カウンターだけの店なんだけど。西荻って言ったことあります?」

川井:「ありますけど、そんなに詳しくはないです。」

森田:「西荻はね、南口の闇市空間が、もともとのママさんたちがもう今は年取って、店交代して世代交代して、そこがエスニック系に変わったんですよ。タイ料理屋さんとか。」

川井:「確かにエスニック多いですね。西荻に」

森田:「ずらーっとあって、ある意味交代交代ですごい元気いいんです。しかもそれはすごい狭い空間だけで、50メートル離れると、結構いい住宅地がザーッと広がってるじゃないですか。北のほうは東京女子大まで行く曲線の道がずーっとあって、東京女子大までの通学路に、いわゆる中央線系のカフェがあり、カフェっていうか喫茶店ですよね。古本屋が3軒ぐらいあって、なかなかいいんですよね。しかも通りをちょっと向こうへ行くと、もう住宅地が広がってるでしょ。」

川井:「西荻ですねー。いいですね。」

森田:「評論家の三浦展さんているでしょ。彼が西荻に住んでるんだけど、東京は西荻と下町さえあれば他はいらないって言ってるんです。西荻は下町じゃないんです。下町じゃないんだけども、山手の中の特異点で、みんな吉祥寺がいい、いいって言うけど、井の頭公園はいいけれど、もう吉祥寺の商店街は何も面白くないじゃないですか。地元の人がそう言ってるんだもん。地元の人に案内してもらったら、経済的にはうまくいってるんですけど、ほら御覧なさいチェーン店ばっかりでしょと。地元の人は全部いなくなっちゃって、」

川井:「やっぱり面白い街の一つの理由は、それは好みなのかもしれないけれど、そこにしかない個人商店が面白いっていうことでしょうか。」

森田:「個人経営の方がいいでしょうね。」

川井:「それが時代によってどこが面白いのかっていう時に、今西荻が面白いと」

森田:「西荻は面白い。だからやっぱりベンチャーなんですよ、ある種の個人の、」

川井:「地価も安いし、そういう人がいて」

森田:「そんなにお金かけてないというか、安くないかもしれないけれど、10万20万てことはないけれど、100万200万はかかってるかもしれないけれど、多分200万ぐらいでもって、一つの場所を城を設けて、ある世界を切り開いているわけですよ。やっぱり分散的な何か、吉祥寺全体がダメなわけじゃなくて、僕は吉祥寺の駅から道路を越して、井の頭公園に行く道筋の新しく出来た店は魅力的だと思うんですよね。」

川井:「いやあそうですか」

森田:「だから企業規模の問題ではなくて、大企業でもいいから、ここしかないってことをやる」

川井:「ここしかない!それが文化の発信にもつながるし、人を惹きつける魅力が、」

森田:「ええ、だって今チェーン店でどこの町に行っても同じ店があって、あれじゃダメですよね。」

川井:「そうですよね。」

森田:「賢いチェーン店は名前を隠しますよね。」

川井:「ああ、なんとかグループじゃないように見せる。レシートでわかっちゃうみたいな(笑)」

森田:「ええ、だから本物が偽物を真似するということがあって。この話前しましたっけ?池袋の駅前に昭和20年からずっとやっている焼き鳥屋があるんですよ。そこがビルの2階なんですが、ビル自体は持ちビルかもしれない。そこは何をやったかっていうと、今はやりの三丁目の夕日系のインチキ戦後になったんですよ。」

川井:「ああ、フェイクのね。」

森田:「そうフェイクの。本物の戦後の店が、偽物の真似をしたんです。偽物の真似してるからそれで大繁盛してます。」

川井:「大繁盛!いい話ですね。」

森田:「本物が本物のままでいたらただ汚い店だから、若い人入らないじゃないですか。」

川井:「少しファンタジーを入れて、」

森田:「偽物にすれば、看板とか並べて、」

川井:「石原裕次郎のポスターとかありますよね(笑)フェイク系か、」

森田:「だから僕は偽物って悪くないんじゃないかと思うんですね。」

川井:「あー、面白いですねー」

森田:「実感がどちらが感じられるかの問題で、単に汚い中華料理って入らないでしょ。もう誰も。」

川井:「変な匂いしたりとかね(笑)」

川井:「いやあ、ありがとうございます!でもそこにしかないものを作る店が集積していくとこが好きだってことですよね。」

森田:「だから僕ね、神田の駅からこっちに向かってできてる、段々に勢力が広がってきていて、さすがに駅から50メートル内はチェーン店なんだけども、50メートル超えると、明らかにチェーン店じゃないですよね。なんか神田のおこぼれを得ようと思って、一生懸命個人が努力している、それいいじゃないですか。」

川井:「そうですね。」

森田:「満員だと流れてくるから、そこそこやっていけるんじゃないかと。今日は本当にとりとめのない話ですみませんでした。」

川井:「今日は長い時間ありがとうございました。」


インタビュー収録日時:2018年4月3日
インタビュー開催場所:ヒマナイヌスタジオ
テキスト起こし:田附克巳

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