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短編小説 長谷川の弟(4)全4回


急にドアが開いて、母親が入ってきた。
俺はあわてて立ち上がった。
「あの二人、今、帰ったとこだよ」
母親は俺のひどい顔を見て、ちょっと顔をしかめた。
「ちょっと、何か焦げてない?」
「ひょっとして、どこかで待ってた? あいつらが帰るの」
「うん、エントランスに、パパの車があったから」
「間に合ったなら、会えばいいのに。母親なんだから、それくらいいいだろ」
母親は無言のままキッチンへ行く。
そして冷蔵庫を開けて、ビールのちび缶を取り出す。
「お、今日はお好み焼き? しかもウェルダン」
俺はホットプレートのスイッチを切った。「どんな約束なのか知らないけどさ。母親なんだから。本当の母親なんだから」
「本当ってなんだろ」母親は缶を手にしたまま、視線をさ迷わせる。「ねえ、恒介。本当の母親って、どんな母親だと思う?」
母親は廊下と、恒平がきちんと片付けていったリビングとの境に立って、ため息をついた。
「知らないよ。俺に聞くなよ」とつぶやいた俺の答えが聞こえたのかどうか、母親は缶をあけてビールをひとくち飲んだ。それから唐突に、「ジュンのにおいがするね」と言った。
「え? そう?」
俺は鼻をひくひくさせてみたが、お好み焼きの焦げたにおいしかしない。
母親は少し微笑んで、何度かまばたきをする。
恒平の長いまつ毛は母親譲りだ。
「小さな子供のにおい。ひなたくさい」
順平がだんだん加乃さんになついていっているのを、母親は気づいているはずだ。
先月泊まりにきたとき、順平は二度くらい「ねえ、ママ」というかわりに「ねえ、加乃ちゃん」と言い間違えた。
だけどそれよりも、母親が今心配なのは、恒平のことだということも俺は知っている。
順平のように無邪気に甘えられる年でもなく、いつも自分の感情を抑えてしまう、静かで優しい恒平。
間違ってる。
何かが絶対間違ってる。
一番大事なことが、抜け落ちてる。取返しのつかない何かが、手の中をすり抜けていく。俺は中心を避けてぐるぐるまわりを回っている。
俺は「ちょっと出てくる」とだけ言って外に出た。

ワイヤレスのイヤフォンでエド・シーランのミックスリストを聴きながら住宅街を駅前に向かって歩いた。
エド・シーランは風花が好きで、俺は洋楽にはあんまり興味がなかったけど、聴いてるうちに好きになり、気持ちを落ち着かせたいときには必ず流すようになった。
気がつくと風花のバイト先のファミレスに足が向いていた。
本当は「来ないで」と言われている。知っている人が来ると、緊張してミスをしてしまうのだそうだ。
だから一度しか来たことがない。でも今日だけは、風花の顔がもう一度見たかった。

ディナータイムで混んでいたが、大人数の席の希望が多いらしく、ひとりの俺は2組抜かして二人用のせまいボックス席に案内された。
風花の姿は見えない。広い店内は通路を境にしていくつかのゾーンに分かれており、それぞれ担当が違うのだと風花は言っていた。

ぼんやりとメニューを見ていると、横に人の気配を感じた。
ハッと顔を上げると、さっきまでとは別人のような風花が立っている。長い髪はひとつにきっちりまとめてお団子にしてあり、ネイルは落とし、リップの色もさっきよりおとなしい桜色だ。
「いらっしゃいませ」
目に「何で来たんだ?」という微妙な表情を浮かべて、風花はコップに入った水とカトラリーセットをテーブルに置いた。
「ご注文がお決まりのころ、またおうかがいします」
去っていく風花の後ろ姿は背筋がスッと伸びて、さっそうとしている。しゃべり方もふだんのだるそうなところが消えて、声までよそゆきに変わっている。
風花の仕事中の姿を初めて見たとき、いつもとのギャップに驚いて、「どっちがほんとのおまえなの?」と聞いた。
「どっちもほんとだよ」と風花は言った。長谷川といるときはオフの自分、仕事中はオンの自分。ただ両方の自分を楽しみたいだけ、と。
でも今日はこの前よりもまた一段と大人びて見えて、風花がなんだか手の届かないところへ行ってしまった気がした。

まもなく斜め前の席に、5人家族が案内されてきた。
一番上が小学校高学年くらいの女の子、まんなかは低学年くらいの男の子、一番下はまだ1歳か2歳といったところか。末の子は父親のひざにのせられている。青いTシャツを着せられているけど、女の子かもしれない。
風花がその家族の席に、座席の上に置いて使う子供用のシートを運んできた。
父親がひざの上の子供をシートに乗せると、子供はいやがって父親のひざに戻ろうとする。
母親はそれを見てゲラゲ笑う。向いの席では男の子がゲーム機を操作し、女の子はスマホをいじっている。
風花が「ご注文がお決まりのころ、またおうかがいします」という同じセリフを言い、下がろうとするのに向かって手を上げた。
「すみませーん、お姉さん。ここにも子供用のシート、ひとつくださーい」
うんとふざけた調子で言うと、風花が眉をつり上げた。
「あと、お子様プレート、ひとつお願いします」
「申し訳ございません、お客様」突き放した調子で、風花は言った。「こちらのメニューは、12歳以下の方限定でございます」
「僕、こう見えて12歳なんですよ~」俺は言って、両手を合わせて風花を拝んだ。
風花は探るような目を俺に向け、鋭い視線で俺の顔から足元までスキャンした。それからちょっとイラっとした声で「どうしたの?」と聞いた。
「だから、お子様プレートを」
「どうしたのって、聞いてるんだけど」風花はトレイを脇に抱えたまま、ビシッと言った。
俺は風花から顔を背け、壁際に立ててあったメニューをにらんだ。
「弟と、何を話す?」俺はたずねた。
「え?」
「おまえもさ、弟がいるんだろ。何を話す? 何を話せばいい?」
「長谷川?」
「わかんないんだよね、俺、最近。弟たちと、何をどうやって話したらいいのか。だから教えてよ。普通のきょうだいはさ、どういう会話してんの?」
俺はテーブルの上にあった、注文票を入れるプラスチックの入れ物を手に取って、いじりながら言った。
風花はちょっとの間、考えてから答えた。

「何を話そうかなんて、わざわざ考えたことないな」そしてのんびりした調子で付け加えた。「話すことがなければ、黙ってればいいじゃん。無理に話さなくたっていいんだよ」
俺は風花を見た。そしてその顔に浮かんだ、いつもの淡々とした、何に対しても動じないような表情を見て、ふいに怒りが込み上げてきた。
「そうかな。それはお前が、ずっと弟と一緒に暮らしてきたからだろ。だからそんなふうに簡単に言えるんだよ。一緒に育つからきょうだいなんだよ。一緒にいるから、家族なんだよ。単に血がつながってるだけじゃ、家族とは言わないんだ」
風花は黙って、少しの間横に立っていた。
それから手元の機械を開いてピッピッと操作し、「ご注文を繰り返します。お子さまプレートおひとつですね」と言うと、機械をパタンと閉じて通路を戻っていった。
俺は目を閉じて、両手に顔を埋めた。

明日俺と母親がうちを出ていく、というその日に、家族5人でファミレスに行った。
すべて決着がついてスッキリしていたからか、それともこれで最後という思いがあったのか、両親は二人そろって上機嫌で、不自然なほど饒舌だった。
離婚のことを聞かされていたのは12歳の俺だけで、恒平と順平は久しぶりの外食と、珍しく普通の夫婦のように仲良く会話している両親の姿に、無邪気に喜んではしゃいでいた。
どういうわけか、一切れだけ残ったピザが目に焼き付いている。
すっかり冷え切って、まずそうだった。
母親が俺に「恒介、ピザ食べちゃってよ」と言った。
食事の間中、何かがのどにつっかえているような気がして俺は食欲がなかったけど、その残ったピザを食べた。なるべくおいしそうに、ガツガツ食べて見せた。
そうしなければいけないような気がした。
ピザは何とかのどを通りはしたが、食道から胸のあたりにいつまでも留まって、それより先にはぜんぜん行ってくれなかった。

気配を感じて顔を上げると、風花が料理を運んできたところだった。
「お待たせしました。お子さまプレートです」風花はまるでお供えでもするように、丁寧に皿を置いた。
それから俺の向かい側の席にすわり、トレイをソファに置いてテーブルに片肘をつき、その上にあごをのせて俺の顔をのぞきこむようにした。
ふとこちらに目を向けた通路の向こう側の家族の父親が、急に客席にすわりこんだウェイトレスを見て目を丸くした。
「ねえ、考えたんだけど」風花は言った。「結局、バカつながりなんじゃないかな」
「はあ? 何の話だよ」
「よく、子供は親を選んで生まれ来るとかっていうじゃない」風花はかまわず続けた。「てことはさ、きょうだいっていうのは何億って男女の中から、おんなじ親を選んじゃったバカ同士ってことだよね」
俺はテーブルをはさんだむこうにある風花の顔をぼんやりと見た。
「なんでこんな親、選んじゃったかなーって自分にあきれて絶望して、ふと振り返ったら、おんなじ親を選んでたバカがまだ他にもいたよ、笑、みたいな?」
「なんだよ、それ」
「あー、なんだ、自分だけじゃなかったって、お互いにちょっと安心するみたいな?」
「アホか」俺は言ったけど、本当は泣きそうだった。
「たぶんそれくらいのことだから。だからさ、大丈夫なんだよ。そんなに心配しなくても」
風花は心に染み入るような優しい目で、俺を見ていた。
彼女がそんな目をするのを、俺は見たことがなかった。
それ以上その目を見ていられず、俺は風花が運んできてくれた料理に目を移した。
お子さまプレートには、てっぺんに日の丸の旗がついたチキンライス、ハンバーグ、えびフライとフライドポテトがのっていた。なつかしいにおいがした。ケチャップと、揚げ油と、肉の脂のこげたにおいが混ざったにおいだ。
「俺はさ」俺は言った。「あの日、ただあっち側にいたかったんだ」
あの日というのがいつのことで、あっち側というのがどっち側なのか、知るはずもない風花が「そうか」と言った。
「あっち側の世界は明るくて、魔法とか奇跡とかでまぶしかった。俺は何も知らないでいたかった。弟たちみたいに、ただ何も考えないで笑っていたかったんだ」
「そうか」
とうとう涙があふれて、視界がくもったけど、なぜか恥ずかしいとは思わなかった。
「恒介」と風花が言った。
聞き違いかと思った。
「え?」
「恒介、もういいよ」
手で涙をぬぐってちゃんと見ると、風花は俺のチキンライスから引っこ抜いた旗を、右手の親指と人差し指でつまんで振っていた。
初めて会った日に俺をノックアウトした、あの笑顔で。
「もう、いいから」
ゆらり、と空気が動いた。
俺はスプーンを取って、チキンライスに突っ込んだ。風花が抗議の声を上げるのを聞き流しながら、てっぺんからすそに向かって、うんと行儀悪く山を突き崩した。

(了)



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