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短編小説フォーマルハウト 5 (全5回)

(楽しそうに帰る父子を見送ったその夜。けたたましいサイレンの音で、奈津子は目を覚ました)


マンションの廊下が騒がしい。サイレンは、救急車1台というような音ではない。
心臓が締め付けられるようないやな気持ちがした。
奈津子はベッドに起き上がった。隣のベッドで、夫が目を覚ました気配がした。
「騒がしいな」不快そうな声だった。「うちのマンションか」
奈津子はベッドからすべりおりる。
「奈津子?」
「行ってくる」カーディガンを羽織り、無意識に手櫛で髪を整える。
夫が驚いた声を出した。
「やめなよ。夜中だよ。野次馬みたいに」
それには構わずドアの取っ手に手をかけると、夫が低い声で言った。
「そんなに、人の不幸が見たいの?」
思わず立ち止まって振り返った。
スタンドの灯りが暗くて、夫の顔の表情まではわからない。
「わざわざ見に行かなくたって。世の中は、そこいらじゅう、不幸だらけだよ。もう、たくさんだ」
苦しそうな声だった。
奈津子は体が震え出すのを感じた。
ここ数か月で初めて、夫が本当に奈津子に話しかけているのを聞いたような気がした。

外のサイレンの音が止んだ。
バタバタと廊下を走る音、話し声が反響する。
奈津子たちの部屋の玄関の前を歩いている誰かが、大きな声で話している。「ベランダから落ちたって。4階らしい」
震えをおさえるために、奈津子は自分の体を両手で抱いた。
「私、行かなくちゃ」奈津子は言った。
「行くなよ」夫は懇願するように言った。「行かないでくれ」
「目を背けるのは、もうやめたの」奈津子は言った。自分でも意外なほど冷静な、しっかりした声だった。
「もう、逃げるのはやめる」

エレベーターは他の階にいたので、階段を駆け下りた。
エントランスの前に救急車が停まっていた。
道の向こうに消防車も停まっている。
結構な数の人がエントランス付近に集まって来ていた。みなガウンや上着の下はおそらく寝間着だろう。
「何があったんですか?」
奈津子は思わず、そばにいた中年の男性にたずねた。
「405の人が、ベランダから転落したらしいですよ」相手は声をひそめた。
「子供ですか?」奈津子はあえぐように言った。勇太君が、まさか。
「いや、大人みたいです。男の人だって」
両足から力が抜け、奈津子は思わずその場にしゃがみこみそうになった。
そんな。さっきの穏やかな丘野の笑顔が目の前に浮かぶ。嘘だ。
「助かったんですか?」
「さあ、僕も今来たばかりで。でも4階ですからね……」
「どいてください、どいて」
マンションの裏手のほうから、救急隊が人をのせた担架を運んできた。
暗い上に、人垣にさえぎられてよく見えないが、担架の上の毛布に包まれた人は、身動きをしているようだった。
パジャマ姿の女性が担架にすがりつくようにして泣いている。初めて見る丘野の妻は背中までのびたまっすぐな黒髪をして、あどけなく見えるほどに若かった。
「ようちゃん、ようちゃん、ようちゃん」と泣きながら呼び続ける声がまるで歌っているように聞こえる。
「奥さん、手を離してください。危ないですから。ご主人、大丈夫ですから」
救急隊員が言い聞かせている。
奈津子は丘野が無事なのかどうか確かめたくて、担架のそばに行こうとしたが、足がうまく動かない。知らぬ間に両手で自分の口を強く押さえていた。
丘野と妻を乗せた救急車は、再びサイレンを鳴らしながら遠ざかっていった。


勇太はどうしているのだろう、とぼんやり考えながら、奈津子はそこに立ち尽くしていた。
住人たちが三々五々、おしゃべりをしながら建物のなかに戻っていく。
「植え込みがクッションになったらしいですね」
「奇跡ですよね。4階から落ちて助かるなんて」
「でもよかった。自殺者が出たマンションなんて資産価値さがるし」
「自殺なの?」
「じゃないの? 相当、借金があったらしいよ」
「違う」奈津子は誰にともなくつぶやいた。
「あの人は、自殺なんかしない」
あの人は、死んだりしない。絶対に。
「星を見てた。きっと、星を見ようとしてたんだ」
フォーマルハウト。秋の一等星。
暗い秋の夜空を照らす、ただひとつの明るい星を。

ふと肩に手をおかれ、振り向くと夫が立っていた。
パジャマの上にガウンを着て、足は裸足でサンダルを履いていた。不機嫌な顔をしていた。だが手にはニットのコートを持っていて、奈津子に着せかける。
「何やってるの。早く帰ろうよ」
夫は言って、向きを変えてエレベーターのほうへ歩き出す。奈津子は黙ってそのあとをついていった。

玄関のカギを開けて先にはいった夫がサンダルを脱いでいる。その背中にしがみついた。
夫が身をよじった。乱暴に押しのけれらるのを覚悟していたが、奈津子が手をゆるめると、夫は体の向きを変え、正面からそっと奈津子を抱きしめた。その胸に顔をつけると、涙がどっとあふれてきた。
「震えてる」夫が言った。
奈津子の体は小刻みに震えていた。
「寒いの?」
夫の胸に顔を押しつけたまま、首を横にふった。何度もふった。
「じゃあ、何で? こわいの?」
「私と別れたい?」
「え?」
「もし離婚したいなら――してもいいよ」
夫が驚いた気配で奈津子から体を離し、顔をのぞきこもうとする。それに抵抗して、奈津子は夫にしがみつき、その胸にまた顔をうずめた。奈津子の涙で夫のパジャマが濡れる。
「そんなこと、考えたことない」かすれた声で、夫は言った。
「ただ、どうしていいのか、わからないんだ」
奈津子はうなずいた。
「いろいろなことが、わからなくなってて、苦しくて、奈津子のことも苦しめて」
「うん」
「そういう自分が嫌で」
「うん」
「でもどうしたらいいのか、自分でもわからないんだ」
――ほんとはみんな、結構ビビリで、弱虫で、泣き虫なんですよ。
「大丈夫だよ」奈津子は言った。「大丈夫だから」
私が考えていたのは、自分のことだけだった。奈津子は思った。
夫のことを考えているつもりで、彼の幸せを望んでいるつもりで、実は自分のことしか考えていなかった。
「強くなる」
奈津子はささやいた。
「え? 聞こえないよ」
「私、強くなるから」
誰かをほんとうに幸せにできるように。
だから、山路さんには幸せでいてもらいたいんです、と丘野は言った。
夫の胸は温かかった。彼の心臓が、生命を支える響きが、奈津子の耳のすぐそばで力強く脈打っていた。
その確かな音に耳を傾けながら、自分の鼓動を感じた。
そのままじっと動かずにいると、センサーで点灯する玄関の照明がふっと消えた。
薄暗がりで、温かい夫の胸のなかで、奈津子は耳をすませていた。
微かにずれていたふたつの鼓動は、お互いに寄り添うようにゆっくりと同期し、やがて重なり合ってひとつになった。

(了)


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