短編小説 長谷川の弟(3)全4回

家のドアを開けると、リビングのほうから恒平が「兄ちゃん、電話」と叫んだ。
食卓の上のスマホが電話の着信音を鳴り響かせている。見ると母親からだ。
「もしもし恒介? コウとジュン、うちに来てるんだって?」
「うん」
「パパから連絡があって」
「こっちにはまだないよ。何だって?」
「今から向かうって。8時までには着くから……」
「うん?」
「会わないでくれって」
「どういうこと?」
「どういうことって……、そういうことよ」
父親が迎えに来るまで、母親は家に帰るなということか。
「そんなバカな話があるかよ。仕事終わったんだろ、今どこ?」
「まだ職場だけど」
今まだ夜7時少し前だ。すぐ職場を出れば7時半すぎ。30分は一緒にいられる。
「帰ってきなよ。自分ちなんだから」
「でも……」
「そもそも、うちに来ちゃったのだってあっちの監督不行き届きなんだし、迎えが遅くなるのだってあっちの都合だし」
「うーん、まあ、そうなんだけど」
母親は基本的にはテキパキとした人なのだが、弟たちのことになるととたんに自信を失うらしく、優柔不断になってしまう。
「なに遠慮してんだよ、自分の子供たちだろ」というと、「そうだよね。じゃ、帰る」と、やっと決心がついたらしく電話を切った。
「ママから?」期待を込めたまなざしで、恒平が聞く。
「うん。30分くらいで帰るって」
「おなかすいた~」疲れたのか少し不機嫌な声で順平が言う。
夕飯のことまでは考えていなかった。冷蔵庫を点検すると、でかいキャベツが目についた。
「お好み焼きでもやるか。今用意するから、テレビでも見て待ってな」
「やったー、ママとお好み焼きだ」
恒平と順平は顔を見合わせてにっこりした。

ホットプレートを見つけ出し、肉や魚介など具になりそうなものを探して冷蔵庫を物色しているうちに、さっきまでのハイテンションの反動が来たのだろう、順平はテレビのリモコンを持ったまま、ソファで寝てしまった。
手持無沙汰の恒平にキャベツを切らせてみると、危なげのない手つきでいい感じに千切りにしていくので「へえ、お前意外と使えるやつだな」と言うと、顔を紅潮させてうれしそうな顔をした。
やっと用意が整って、熱くなったホットプレートに最初の1枚を広げたところで、玄関のチャイムが鳴った。
「おっ、グッドタイミング。悪い、恒平玄関開けて」
恒平が出たら母親が喜ぶだろうと思い、そう言った。
だが確かにドアが開いた気配がしたのに、恒平はひとりですーっと廊下を戻ってきて、ダイニングを通り抜けてリビングのほうへ行こうとする。
不思議に思い、「恒平? ママじゃなかったのか?」と言いながらヘラを片手に玄関に出てみると、スーツを着てネクタイをしめた父親がのそっと立っていた。
「恒介、元気か?」
ここのところ、泊まりに来た弟たちを父親がうちに迎えに来るときに居合わせていなくて、顔を合わせるのは数か月ぶりだった。
何となく気まずくて、うん、まあ、などとモゴモゴと答えると、父親は他人行儀に軽く頭を下げて「迷惑かけて、すまなかった」と言った。そして奥に向かって「帰るぞ」と声をかける。

リビングでは恒平が片づけをしていた。
ゲームソフトをケースにしまい、棚に並べる。順平が風花に見せていたキャラクターの文房具を拾い集めてペンケースに入れ、ランドセルに戻す。
もくもくと作業している恒平の背中はひどく細く頼りなく見えた。
それからさっき順平が散らかした俺のベイブレードを片付けようとするので、「それはいいよ、後で俺がやるから」と声をかけると、振り向いてうなずいた。
そしてソファで口を開けて寝ている順平を揺り起こした。
「起きろよ、順平」
順平はガバッと半身を起こす。
「ママ⁉」
そして半分寝ぼけたまま立ち上がって、玄関のほうへ行く。そこに立っている父親の姿を見て状況を悟り、廊下に立ったまま半泣きになる。
「え、パパ? なんで? ママは?」
「帰るんだよ」恒平が抑揚のない声で言って、順平のほうへランドセルを押しやる。
「やだ! ママとお好み焼き食べるって、言ったじゃないか!」
順平が助けを求めるように俺を見るので、俺は視線をそらして床に落とす。
「いやだ! 帰らない!」順平は叫んで、泣き出す。「恒平兄ちゃん、言ったじゃないか。ママに会えるって、言ったじゃないか。うそつき! 恒平のうそつき!」
恒平が順平の顔を平手でピシャっとたたいた。
恒平の顔は紙のように白い。
ぶたれた順平の痛みよりも、たたいた恒平の胸の痛みが直に伝わってきて、俺は恒平が倒れるんじゃないかと思った。
順平は一瞬驚いて泣き止んでから、今度はもっと激しく泣き出した。
「ジュン、おいで」父親が言うと、順平は走っていって、父親に抱きついた。
「待ってやってくれないかな」お好み焼きのヘラを片手に持ったまま、思わず俺は言う。
「もうすぐ帰ってくるんだよ。ちょっとだけ会わせてやれよ」
「それはできない」父親は静かに言った。穏やかな人で、子供に対しては決して声を荒げない。手を上げることもない。
「こいつら、二人っきりで来たんだよ。手つないで、電車乗って、一目だけでもママに会いたくて、ここまで来たんだよ」
「だからって、何かあるたびに家出されるんじゃ、かなわないよ」
「何かあるって、なんだよ」というと、答えはない。
「夫婦ゲンカかよ。あのころと変わんないな」自分でも嫌味な言い方だと思ったが、言わずにいられなかった。
父親は一瞬黙ってから、つきはなすように言った。
「もう、おまえには、関係ない」
それは本当のこと過ぎて、俺は頭上から落ちてきた巨大なコンクリートの杭で地面に打ち込まれたような気がした。
「それに半月すれば次の面会日だ。今、中途半端に顔だけ見せて引き離すのは、かえって酷だよ。お母さんにとっても。それぐらいおまえだってわかるだろう、もう高校生なんだから」
「わかんねえよ」俺はつっかかるように言った。「ぜんぜん、わかんねえよ。おかしいだろ。この次いつ会うから、いまは会わせないとか、そんなの変だよ」
「恒介?」
「理屈じゃないんだ。今会いたいんだよ。この次じゃ遅いんだ。明日でも遅いんだ」一度しゃべり出すと、自分でもおかしくなるくらい感情が高ぶって、勝手に言葉がどんどん飛び出してきた。父親はびっくりして、まじまじと俺を見ている。
12歳で離れて以来、こんなふうにこの人に対してまともに気持ちをぶつけたことは、今までなかった。
「子供は毎日大きくなるんだよ。どんどん変わっていくんだよ。だから今日会うのと、半月後に会うのとじゃ、こいつらにとっても、お母さんにとっても、ぜんぜん、ぜんぜん違うんだよ!」
けれども頭のすみでは、自分たちの大事なパパに対して俺が一方的に声を荒げていることのほうが、よっぽど弟たちを傷つけていることも、本当はよくわかっていた。
「恒介?」
「頼むよ、会わせてやってくれよ」自分が、ぐじゃぐじゃになっていくのがわかる。こいつらを母親に会わせてやりたいのか。母親をこいつらに会わせてやりたいのか。その両方なのか、それともそんなことはもうどうでもよくて、単に自分の思い通りにしたいだけなのか。自分でもわけがわからない。
父親は黙っていた。ただ俺をじっと見て、何かをつきとめよう、理解しようと努力しているようだった。
しばらくして、絞り出すような声で言った。
「……ごめんな、恒介」
そしてまだ何か言おうとしたが、そのとき俺の肘に硬いものが当たった。
ランドセルだ。
自分のランドセルを背負った恒平が、もう片方の手で順平のランドセルを持ち、俺の横をすり抜けたのだ。
表情の消えた顔で父親の後ろに回った恒平は、もう俺の目を見ようとはしなかった。
「パパ、帰ろう」恒平は父親の袖を引き、ささやくような声で言う。
「あ? ああ」父親は顔を上げて俺に目を戻し、困ったような顔をした。
「早く帰ろう」恒平がせかす。
「うん」
父親は気がかりそうにこちらを振り返りながらも、二人の背中に手をまわして出ていく。

中途半端にその場に取り残された俺はそのまま玄関にすわりこんだ。
「……ごめんな、恒介」という父親の言葉と、「恒介君、大丈夫?」という佐野さんの言葉が頭のなかで反響する。
ごめんなって、何だよ?
大丈夫って、何がだよ?
(つづく)


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