新元号/闘志いだきて丘に立つ

新元号が発表された。私の所感は「おそろしい」、これに尽きる。

新元号の出典は、『萬葉集』だった。

于時初春令月 気淑風和 

よみくだせば「初春令月の時、気淑く風和らぐ」。「令月」は「よい月」、「風和らぐ」はそのまま、「風がおだやかだ」といったところだろうか。「令」の字は「玲」などの字とも通じる。

たしかに一応、美しい二文字だろう。「安」の字が入るのではないか…などと戦々兢々していたころを思えば、たしかに随分穏やかに見える。しかし、わたしはどうしても『萬葉集』が出典に選ばれたという事実がこわい。「和」の字がこわい(令の字にも諸々思うが、今は収集がつかないので割愛。令月も風和も、元号の出典にするのにふさわしい格や独創性をもった言葉には見えないが、同じく割愛)。


漢字はもとより多義的なものだ。出典の中での意味合いがどうであろうと、「和」の字が日本の国のシンボルであることは、漢字文化にある程度通じている人にとっては(日本語話者でなかったとしても)、自明すぎる。このことと、前例を破って漢籍から選ばなかった、日本語独自の文芸である和歌の、最初のアンソロジーから選んだということを合わせてみれば、やはり、自国中心主義、脱中華文化圏という傾向は否めないのではないか。報道をみていても、「国書」などという古びた言葉が跋扈している(国書総目録の完結は1976年だぞ!その後も補訂するとはいえ…)。


しかし本当に恐ろしいのは、この危惧を強く打ち出せないことだ。この二文字の出典は、さらに詳しくいうと、『萬葉集』巻五815番~の、大伴旅人邸で行われた梅の花の宴での32首に付された序文である。

この歌群は「梅の花」、当時最先端の文化国であった中国原産の花を囲んで、太宰府の官人たちが文雅の宴を催した際のものだ。歌を詠むに、実際はまだ梅の花は咲いていなかったようだから、文学的幻想としての梅を皆で共有し、詠みあった歌というほうがより実態に近いだろう。

それらの歌には、梅の花という素材に代表されるように、多々漢詩文由来の発想が見える。宴の主催者、大伴旅人は漢籍に通暁した知識人であった。当然のように、その32首に付された序文も、四六文(四六駢儷文)、すなわち中国生まれの、韻文とも散文ともつかない美文の形式をとる。従って当然、表現の典拠は漢籍だらけだ。「令和」も例外ではない。

そもそも、詳しく調べたことはないけれども、和歌に美文の序文をつけること自体、もともとは漢詩文の序にならったものなのではないだろうか。一般に和歌に付される題詞、左注、詞書などは、詠歌状況の説明など、鑑賞に必要な情報提供の務めを果たす。それらの周辺情報の補足とは、この序文は明白に性格を異にしている。この一連の歌群の題詞は「梅花歌三十二首幷序」である。この記述は、この序文が、32首の歌とともに一つの作品群を形づくる文芸として認識されていることを示す。

つまりこの出典は、たしかに日本独自の文芸をあつめたアンソロジーを出典としていながら、強く中国趣味――すなわち当時最先端の、もっとも洗練されていた国際文化の趣――をたたえている。これがあるから、わたしはこの元号をナショナリスティックだと批判しきることができない。絶妙なところをつかれた…という思いだ。


さらにいえば、これはあるいは、日本中心主義に走ろうとする何かの力に対して、誰か(あえて敬称など使わず「誰か」としましょう)が精一杯抵抗を試みた結果ではないのか、とも思う。形としては日本の古典籍を出典とさせつつも、国際的な視野を失わないように、漢字文化圏と断絶してしまわないように、水際で頑張った結果なのではないか……あるいは、「国書」を出典とさせたい何かの鼻を見事に明かしてやった結果なのではないか……こうも想像できて、よけいに身動きが取れない。

その上に、その心深さが、結局は前述のように批判をふさぐ要素となっているのだから、まったく誰かの掌の上ではないか。(自分で自分のことをそういうのは気が引けてしまうが)この元号を定めた人の深謀遠慮を思いやれるだけの教養がある人ほど、心に思うところがあっても、なにも言えなくなる構造だ。

しかも一般には、その心深さは伝わっていかないだろう。一般には、その心深い人も「何となくおめでたい」という風潮を醸すのに貢献した一人と見なされてしまうだろう。大変に悔しい。

もうこんなことを書いてしまっては、わたしは学問や文芸の非力を認めているも同然だ。結局わたしは二重三重に口をふさがざるをえなくなる。

旅人たちの風雅を、また今この時代にあって『萬葉集』を読んでいるたくさんの先達・畏友・後生(以文会友!)を、人質にとられたような気持ちだ。


しかし、どれだけ口を塞がれても、まだなにもかも言えなくなったわけではない。元号の決定は政治の話だろう。そして『萬葉集』は日本語の文芸である。今日、日本の、日本語の文学は、第二次世界大戦以後まれにみるような明確なやり方で、政治に利用された。これだけは断言できることのはずであり、その恐怖だけは、本物のはずである。

史書ではなく、よりによって和歌が選ばれた恐怖。たかだかこの百五十年ほどの、ヨーロッパから輸入してきた国家の体制を日本の伝統だと勘違いできるような人、たかだか百五十年ほど前の人が書いたくずし字もろくに読めない人、つまり日本のことも日本語のことも本当は好きでもなんでもなくて、知ることすらできていないような、それでいて自分は愛国者だと思っていられるようなおめでたい人たちに、この苦しさはわかるまい。一世一元制などというものは、少なくとも日本の伝統ではない。大陸では前近代から行われてきたが、日本では完全に近代以降の、ごくごく若い制度だ。

ひるがえって三十一文字の歌こそは、文字が生まれる前から現代に至るまで長らえ拡大し続けている、日本文学史上最も長命なジャンルである。その道行きのなかで、連歌、俳諧、俳句といったそのときどきの時代を代表するジャンルを産み落とし、物語は無論のこと、能などの演劇、美術、侘び茶、さまざまな諸芸術に影響を及ぼしてきたジャンルである。その和歌が今更、このようなかたちで政治に利用される衝撃を、せいぜい数百年程度の視野しか持ち合わせない人には、理解できないだろう。


特に『萬葉集』は国学者にもてはやされた末に、国粋主義的な思想にも利用された。「国民的」和歌集の地位に祭り上げられ、狭苦しいイデオロギーに組み込まれ、戦時下、若者を戦場に追い立てるために使われていった。『古今集』『伊勢物語』『源氏物語』『百人一首』などと比べても、もっとも近現代人の恣意的な享受(むしろ投影)に振り回された古典の一つといってよいだろう。その『萬葉集』がまた政治に利用されたことを、わたしは率直に言ってとてもつらく感じる。

出典となった『萬葉集』の序文を持つ和歌三十二首は、奈良の都から遠く離れた太宰府に赴任してきた官人たちが肩を寄せ合って詠んだ歌だ。宴の主催者、大伴旅人はこのとき齢60を超えており、左遷人事との説もあった。不安、望郷、いろいろな思いを抱えながら、ともに梅の花の幻をめでた人たちの歌、一つの邸に集まって、その場限りの文学的幻想に遊んだ人たちの歌、その序文が、どうして元号などに利用されなくてはいけないのだろう。

我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れくるかも(822、大伴旅人)

この梅の花は「我が園」に散ったのだ、広い広い「天」から小さな「我が園」に降ったのだ。それが、元号だなんて。冒涜的にすら感じる。


それでも、もう決まってしまったものは決まってしまったのだから肯定的に捉えよう、だとか、『萬葉集』を広める機会と捉えよう、と考えることもできるだろう。しかしそうやって何でもなしくずしに現実を追認していったら、また数十年前の轍を踏みかねないのではないか。私は怖い。

いきなりそうやって、極端な懸念に持っていっていては、また無用の(そして往々にして不毛な結果をうむ)批判を呼び込みかねないのはわかっているけれども、でも、今は警戒をしすぎてもしすぎることはない時代だと思っている。

第二次世界大戦開戦時、開戦してしまった以上は仕方がないと時局に従った文学者たちが、この国には少なからずいた。彼らがみな戦争を是としていたわけでは無論ないのだが、その美辞麗句がどれほどの若者を戦場に赴かせたかを考えると、わたしはどうしても、彼らを許すことができない。

文学のみに限らない。わたしは心から、戦争に協力してしまった芸術家たちのことをいとしく、悲しく思う。だから絶対に許さない。一つには、もう、彼らの失敗を絶対繰り返さないことでしか、彼らを救うことはできないと思うから。もう一つには、わたしも、追い込まれれば彼らと同じことをするだろうと思うから。

こうなった以上、わたしはもう、政治と文学について、今のようにナイーブなままではいられない。今の時点ではこのような幼い文章しか書けないが、これから学んでいかなくては。

わたしは愛国者ではない。「国文学」なんてものを愛した覚えはない。しかし、日本語の文芸のためなら、何だってできる。その自信がある。冷たい春の雨風に吹かれて、ちょっと虚子気分で帰宅した。勢いに任せて、ろくに考えずに書いた文章だから、これも今少し推敲せねばならないが、とりあえず公開しておく。







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