「かしら」と生きる

幼い頃は、「〜かしら」という言葉を聞く機会なんてフィクションの中でしかなかった。好きではなかった。
役割語としての「かしら」、「女らしさ」「優雅さ」みたいなものの記号として使われる「かしら」は、今も嫌い。

しかし長じてからは、男性が「かしら」というのを何度か聞くようになった。というか、男性ばかりから聞く。
それは、わたしがアカデミズムや出版の世界に近い(その外をあまり知らない)からなのかもしれないが、
とにかく、わたしの中の「かしら」は幻想の役割語ではなく、現実の人の思惟の中にも姿をあらわす言葉になった。
そうしたらば、不思議と好きになってきて、今はむしろ自分でも使う。
これはいったいなぜ?


こう思って、漠然と、この言葉の古いかたちはどんなものだろう、漢字をあてるならばどんな字だろうと考えた。思い浮かんだ。

何か知らむ。
何なのか、知ろう。

とりあえず学校文法に則しておくと、「か」は疑問の助詞、「しら」は動詞「知る」の未然形、「む」は「~したい」という意志の助動詞。そしてその「む」が発音上の都合から、落ちる。
「かしら」はそんな成り立ちだろうと思う。たぶん。


もしそうなんだとしたら、わたしの持つ「かしら」への好意もわかる。

「かしら」の中には、疑問に思う気持ち(「か」)と、それを知りたいと思って知ろうとする意志の力(「む」)がある。
疑問に思う気持ちが、そのまま知ろうとする意志に直結する健やかさがよい。好奇心が生動するようだ。

しかも、ひとり言めくのがいっそう好ましい。
それが何なのか疑問に思い(「か」)知ろう(「む」)とする思考のステップはすっかり自己完結していて、他の人の入る余地がない。
自分の思考の動きでもあり、同時にそこからのびてゆく行動でもあるような、この上なく単純で、ひとりぽっちの好奇心の表れ方だ。


それにひきかえわたしは、疑問のふりして自分の意見を主張するような言葉、疑問のふりして他者を難じるような言葉に慣れすぎてしまった。 そんな言葉たちには、疲れた。

もちろん言葉なんてものは実に身軽で、簡単になりたちから離れてゆく。
会話のなかで使われれば、「かしら」もひとり言めいた性格をあっさり捨てるだろう。他の疑問の表現と同じく、相手に対する働きかけを含むようになる。相手がいるのだから当然のことで、それは避けられない。
今わたしが「かしら」に好奇心の躍動やひとりぽっちの純粋さを認めることができるのは、「かしら」が現代ではやや古風な表現になり、あるいは虚構的な役割後語になり、日常会話の中では使われにくくなっているからに他ならない。


でも少なくとも、わたしがこれまで耳にした「かしら」は、ひとりごとの響きを持っていた。会話の中であっても、その人の思惟が眼前の相手から離れて、ふと内向したときなんかに使われているように見えた。

今のわたしも、「かしら」を使うときは、そばに誰がいようとひとり。
だからわたしは「かしら」を使うし、他の人が「かしら」を使うのを見るのも好きだ。使われることでいずれ「かしら」が今の「かしら」でなくなるのだとしても、それでも、「かしら」が使われるのを聞くのが嬉しい。

それが生きているということだ。生き物だって、運動すればするほど体を壊すリスクも負うようになる。危うげにほそぼそと生きている「かしら」のことが好きだ。


さらにいえば、いかにも書き手・語り手等に役割語「かしら」を使わさせられそうな淑女の皆さまにも、鬱陶しい桎梏をさらりと抜け出して、意志の純粋さをそのままに「かしら」と言ってもらえたら。
女だからではなく、知りたいと思ったとき、知りたいから、知りたいことに「かしら」と言ってもらえたら。

わたしは「かしら」という言葉に代わって小躍りすることでしょう。



ここまで、わたしは2017年の春に書いていた。
今読み返して、「かしら」という言葉に感動した日があったこともすっかり忘れて、何もおもわず、感じず、ときには他者への働きかけとしても「かしら」を使うようになっていた自分に気づく。
そう、つい昨日だ。少し大勢の人の前で話した時、問いかけの表現として「かしら」を使ったのは。そのときも、一応ひとりごとの性質はあったけれども、わたしはもうそれを意識していなかった。

それが、なるほど、生きている言葉であるということだろう。すべてのものは無常で、生まれたときそのままの姿ではありえない。言葉だって生まれたときのそのままではありえない。生きるということはそうやって摩滅していくことなのだろう。

でも、こうやって文章にしておけば、わたしはわたしの中で「かしら」という言葉が生き始めた、このときのことを思うことができる。
文章を書くということは生きることではなくて、こうやって生きている自分にストップをかけて、生き直すことなんじゃないか、そう思う。状態としての「生きる」から行為としての「生きる」にうつる、その繰り返し。

今日から、また新しい「かしら」との日々が始まる。一緒に生きていこう。

わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?