わたしの卑屈さが誰かを撃ってきたのかもしれないと思うこと

かつて、「社会のごみの歌」という歌があった。
正確には今もあるはずである。youtubeに、人の耳の中に、人の心の中に。

その当時わたしが抱いた感想は「これは自虐に見せかけた他虐だ」であった。

「わたしは社会のごみかかすだ 何にもできることがない」というフレーズに共感しながら反発する自分がいて、
最終的にこのフレーズは、強い反語となっていた。
わたしは社会のごみかかすだ。いやそんなはずはない。ほんとうはそうじゃない。ほんとうに間違っているのはわたしじゃない。
そんなふうに。

自分を最弱の立場に置くことで、牙をむいてみせる歌のように思えた。

そんなふうに思ったこともあったのに、いつのまにわたしは、自分を最弱のものであるかのように勘違いしていたのだろうと思う。

日本の、一番かわいそうで一番苦しんでいる人にしか発言権を認めないような風潮(「もっと辛い人がいるだろ、そのくらい我慢しろ」というような、合理性も生産性も全くない比較)を、
わたしは憎んできた。

ある評価軸の中での自分の弱さにしがみついて、他の評価軸での弱者を攻撃する愚かさを憎んできた。
具体的に言えば、異性愛と恋愛結婚を是とする価値観・社会の中での弱者であるモテない男性が、男性中心の社会・経済という別の評価軸の中で弱者である女性を敵視するだとか。
また男性中心の社会の中では弱者であるシス女性が、シスジェンダーを前提とする社会の中で弱者の立場にあるトランス女性を敵視するだとか、だ。

そんな話はどちらも、ある評価軸での力関係を他の評価軸に持ち込んでいる。
フェネックの耳はホッキョクギツネより長い。でも体毛を比べれば、ホッキョクギツネはフェネックよりも長い。
フェネックはホッキョクギツネより長い耳を持っているのだから毛だって長いはずだとか、毛が短いぶん耳が長いからいいだろとか、そんなふうに強弁するのは実に理不尽である。

だいたいどっちの場合も現象の結果(末端にある人)に働きかけたって甲斐はなく、その結果をもたらした社会のシステムの是正をはからないと解決しない話だ。
それなのに、上記のような言動に出てしまう人がいるのはなぜだろう。

想像するに、他者の弱さを認めると自分の弱さの絶対性が揺らいでしまうと感じられるのではないだろうか。
そうなったとき、最弱のものにしか発言権はないという価値観に立っている人は、激しく動揺するのだろう。
自分を守ろうとするあまり、なりふり構わぬ不合理にしがみついてしまうのだろう。

そして同時に、自分がある人々に対しては相対的強者であり、気づけばその人たちを踏みつけて生きていた、ということに耐えられないのだろう。
ヴィーガンを攻撃するメンタリティの中にも、もしかしたらそういうものがあるのかな、と思う。

全部想像だけど。とにかくわたしはそういう人たちに冷ややかな目を向けてきたはずなのだ。
自分が誰かを踏んで生きている、わたしが死んでいれば幸せだった人が必ずいるという自覚を意識的に持ってきた。
わたしは世界で一番苦しい人ではないけれど、他のどんな人の口も塞がないためには、まず自分の口を塞いではならない、辛いことを辛いと言い、理不尽なことを理不尽だと言わなくてはならないと考えてきた。

しかし、わたしだって結局、やってきたことは彼らと変わらないだろう。

わたしはずっと思い込んでいた。
こんなにも弱い、ごみかかすのような生き物の言葉が、誰かに影響力を及ぼせるはずがない。誰かを傷つけることができるはずがない。
わたしに嫌われたって嬉しいくらいだろう、と。

さらには、わたしみたいに醜くみじめな生き物がほかにいるはずがない。
したがってわたしがわたしを攻撃する言葉が、他の誰かにあてはまってしまうおそれはない。
という思い込み。

ほんとうはそんなことないと知っている。わたしの言葉をずっと覚えてくれている人がいる。
知っていたのにこうやって、noteでも見るに耐えない言葉を吐き散らかしてきた。それが、もしかして思いがけない人に刺さってしまっていたかもしれない。

自分の価値を認めるということがすごく難しく感じられるのは、たぶん一つには、それが罪の自覚と一具のものだからだ。

自分を罪あるものだと思うこともまた罪だった。
とかいうと悪い意味で宗教くさいが、罪の判定の基準を超越者、神に任せてしまうというのはなるほど、賢い。なんか妙に感心したりもする。そんな自分が面白かったりもする。

そんなこんなでちょっとずつ、静かな勇気がわたしを訪れつつあるのだろう。
今日の帰途のBGMは、moumoon「IROIRO」だった。

#エッセイ #随筆 #日記 #自己肯定感

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