言葉と恋の話

長年好きだった人がいたけれど、突然ふっきれた。

付き合ったのは期間にしておよそ1年弱。その後、2年ほど片思いをした。

相性が悪いのは重々わかっていた。しかしそれは一番上のぼたんをかけ違えたシャツはその下をどう頑張ってもうまく着られないというような話であって、その一番上のぼたんを最初にかけ違えたというそれだけのために、諦めないといけないなんてのはあんまりひどい。

だってかの人は、わたしが知っている範囲のあらゆる差別に敏感だった。かの人のものの考え方の冷静かつあたたかなことときたら、世界中の人がこの人のクローンだったらきっと最高にやさしい世界になるのにと思ったくらいだ。わたしはその人がわたしのことをどう思っているのかということについては一切信じることができなかったが、その人のものの見方のことは心から信頼していた。
どうしてそんな人とぼたんがかけ違うのか、得心できない。

だからよりを戻したいのではなかった。片思いというのとは違うかもしれない。ただ、ぼたんかけ違ってたんだねえ、それはこういうわけだったんだねえ、腑に落ちた。それなら仕方ないねえ。
ハチ。さようなら。ってしたかった。それで3年間ずるずるとひきずった。

(そんな感じの台詞なかったでしょうかね「ハチ公物語」に)

しかし待てよ。
わたしが一番言われて嬉しい言葉は「面白い」なのだ。言われるだけでない。自分以外の誰かや何かのことを、面白いと言っているのを聞くのも好きだ。
さてかの人は、わたしに何回「面白い」と言ってくれただろうか。

その人が、面白がる心を持っていなかったとは思えない。
むしろ面白いものを見つけてくるのが上手な人だった。本だの絵だのすぐ心にはりつけては、別れがたさに美術館で泣いていたりするような重いわたくし、その人のなんとなくエモくてなんとなく楽しそうな軽みが好きだった。
でもそんなとき、その人の口から出る言葉は「いいね」とかだったのだ。
「おもしろい」ではなかった。

わたしが、かの人にとって面白かったかもしれないことを言ったときだって、言ってくれたのは「慧眼」だった。
そのときは嬉しかった。でも、「慧眼」ってなんだ。やわらげるならば「あなたはさとい目を持っていますね、驚いた、こちらも目のさめる思いですよ」といった内容の言葉だろうか?

なんてきちんとした評価の言葉。

そんなこと言わなくていいじゃないか。面白いなら面白いでいいじゃないか。いいわるいとか目の良し悪しとか、そんな評価軸にのっける必要があるのか。なぜその前にある、心の動き(面白い)が、声になってでてこないんだ。

それはもしかして、かの人の「いいね」が、現代社会を席巻する「いいね」と近いものだったからかもしれない。しかしわたしは今の「いいね」がどれだけのふくらみを持つようになっても、共感の表現としてあまりよくない翻訳なのではないかという気持ちを捨てることができない。

だって、「いい」は反対語「悪い」を持っている。評価の軸の上に対象を置く言葉だ。対象を別の「悪い」ものと同じ直線上に並べた上で、すこし引いた目から見比べないと、本来「いい」とはいえないはずだろう。
「いい」というとき、対象とは一定の距離ができる。それは「共感」というにはあまりにも遠い距離である。

「いいね」は「いい」とは別の言葉つづきである上、今や一つの成句となっている感もある。しかし「いい」という言葉が全く現役である以上、「いいね」にも、「いい」の距離感は時に流れこんできてしまうように思う。ツイッターが「お気に入り」(favorite)を「いいね」(like)に変えたときも、一定の嘆く声があったように記憶している。

また「いい」は対象だけでなく、「いい」といった本人の心の動きからもある程度隔たっている。「いい」はそこに至るまでの知覚・思考をふまえた最終判断のようなもので、最初に感じた感想からは距離のある言葉だ(洗練されているともいう)。一方「面白い」は心に感じていること、心の動きがそのまま出てくる言葉である。少なくともわたしの場合はそうだ。

だから、わたしが面白いなと思ったことを「いいね」と言われても、あるいはあなたが面白いと思ったことを「いいね」と表現されてしまっても、わたしは「面白い」という心の動き、体験をあなたと共有できないと感じてしまう。
それがとてもさびしかった。
あるいは「面白い」と言葉にされないと共有した気になれない頑固なわたしのそばで、あなたは、どんなにかさびしかっただろうと思う。

たぶん中身としては、お互い同じようなことを言っていた。
反対語の有無なんてことをとらまえて、「いいね」は評価する言葉、「面白い」は心の動きの言葉だなんていうのは、わたしの言いがかりみたいなもんだ。「面白い」から評価の眼ざしを受け取ることも、「いいね」から心の動きを受け取ることも、当然ある。
もちろんわたしが「いいね」と言ったこともあったし、かの人が「面白い」と言っていたときだってあったはず。また「慧眼」といってくれたときだって、それがその人の素直な感想だったのかもしれない。いずれにせよ、わたしは、それを上手に受け取ることができなかった。それだけのことだ。

要するにぼたんホールとぼたんの位置が合ってなかったんだからいたし方ないよなぁ。大変さわやかに納得した。ので、ハチ。さようなら。


これが2016~7年頃の文章。今のわたしは、もう「面白い」という言葉にも「いいね」にも拘泥しなくなっている。
もう「いいね」という言葉には手垢がつきすぎて、触りたくないという感じが強い。汚いものには触りたくないし、触らないでいるうちにもう目にも止まらなくなった。

でも、読み返してみるとまぁ色々こちゃこちゃと考えたものだね、と思う。なにならほほえましい気持ちだ。

わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?