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虫と死(variation 1)

以下は2017年の夏に書いていたものです。虫についてはいくつか書いていたものがあって、どれもよく似てるけど少しずつ違った。
これはその中の1つ。


小さい頃はなかなかの虫愛づる姫君であった。
図鑑を読むのも本物を見るのも好き。男兄弟がいたわけではないが、かぶと虫だの捕まえて育てて、あのゼリーたべてみたいとか思っていた口だ。

二十歳をこえても蜻蛉やちょうちょが飛んでいればとりあえず追いかけるし、旅先でごきぶりが出たら説得して袋に入ってもらい、外に出してたりした。(虫ってのは案外話を聞いてくれる。)


それが近年、めっきり苦手になった。虫を見ると、一瞬体がすくんでしまう。別に見た目が怖いわけではない。静止画のタランチュラとかならあい変わらずかわいい~と思って見ている(ナショジオとかカラパイアの生物特集好き)。ではどうして対面すると身がすくむのか。

たぶんそれは、虫というものがあまりにも死に近いからだと思う。あるいは命そのものが形をとっているような感じがあるからか。


学部生の頃、マンションの中庭を小さなかまきりが歩いていたことがあった。炎天下こんなところを歩いていてはゆだるか踏まれるかしてしまう。私はかまきりを指のさきに乗せて連れ帰った。いとおしくて仕方なかった。この時ほど古語「うつくし」という言葉がわが身に感じられたことはない。

もちろんどこかの繁みに放してやるつもりだったが、こんなにも淡く澄んだみどりを見たことがなかったので、その前に写真をとりたかった。わたしは自宅まで階段をのぼっていった。

しかしドアを開けると、あのみどり色はすでに存在しなかった。発光していた腹はぼやけてくすみ、潔く直線を示していたはずの背中も不自然に反っていた。
間もなく、かまきりは私の手の上で死んだ。もしかして、人肌すらその子には熱すぎたのだろうか。車にも立ち向かう生き物が、もがくどころか、私の手を逃れようともしなかった。


そのときはカーアン・ブリクセン/イサク・ディーネセンの『アフリカの日々』を思い出していた。土地の娘の腕環が、語り手の腕に移ったとたん輝きを失うくだり。でもそれを思い出していたのも一つの逃避であった。

後々のしかかってきた事実はそんなことではなく、わたしの手の上で、一つの生き物が死んだということである。
わたしが虫に対する無邪気さ(無神経ともいう)を失うにあたり、決定的だったのはやはりそのかまきりだった気がする。こんなにも表裏一体の生死。


虫というのは、人の目からみてあまりにも死にすぎる。そうしてその骸をいつまでも晒している。あまり見る機会はないが、獣が死んでしまったら、早晩鳥や虫が持っていくか人が埋葬するかして、すぐ見えなくなるだろう。でも虫の硬い屍は、生前とさほど変らない、しかし決定的に違う姿をずっと留めていたりする。ある意味では九相図のように。

先ほど虫を見ると身がすくむといったが、正確ではない。実際は、虫の死骸を見て、そうなるのだ。生きた虫を見て体がすくむとき、わたしはその姿に死骸を認めている。虫はいつも、薄皮の下に己の骸を抱えている。


うちのマンションは植え込みのせいか虫が多い。この季節は蛾やかたつむり、なめくじもいっぱいいる。(蝸牛、蛞蝓、漢字にするとこれらも「虫」偏だ。その感覚はなんとなくわかる。これらの背負った季節の感覚やその蠢くさま、そしてそれらを避けて歩く時の感覚は昆虫の場合と大差ない。)
これらが冬になるとどこかへ行って、春夏いっせいにわいてくる様子も、あまり即物的に命めいていて、切ない。


でもやっぱり虫は面白くてかわいいので、YouTubeで動画をみていたりする。ヒメスズメバチがアシナガバチの巣を襲う一部始終とか夢中で見てしまい、やりきれなくなったりする。幼稚園の頃は他の子が嫌がるなか、1人スズメバチの死骸に見入っていた(当時の先生談)というが、今はもう、蜂の姿を見ると引き返してしまう。蜂がどれだけ必死(あるいは必生)に日々戦っているかを見てしまうと、もう近寄れない。


結局わたしはまだ、虫の無残なまでに命そのものであるその感じにどう接してよいのかわからない。わからないままに夏が来た。今年も土中から出てきた蝉の子が、大学の図書館前の道で人に踏まれる。

そうして私は今年も、蝉の子が無事横断するまでそばで見張りをするだろう。足中蚊に刺され、道行く人々に不審がられつつ、ほかの蝉の子が踏み殺された後のコンクリの染みを見つつ。 自分の視界に入るだけの蝉をつかのま助け、視界に入らないだけの蝉を文字通りに見捨てて、家路につく。

わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?