アイソスタシー

本当にうれしいことがときどきある。
今日で言えば、それは和歌を読めたことだ。
今のわたしの普段の電車はたった三駅で目的地に着く。

その間に鏡を見て、薬を飲んでしてたら、本を読める時間はもうわずかしか残らない。
でも和歌なら、ささっと見れる。
記憶にとどめれば、その後の歩きの間も反芻してられる。

だから今朝は古今集が読めた。
恋一。
今日はこの歌を覚えた。

駿河なる田子の浦波立たぬ日はあれども君を恋ひぬ日ぞなき

駿河の国の田子の浦の浦波が立たない日はあるのに、私があなたを恋乞わぬ日はないのです。

普通に解釈するなら、駿河の田子の浦によせる波は、この歌の主体の恋心がしきりであること、いつもいつもあなたのことを思っているんだということを、少し誇張して示すための比喩である。

しかしわたしはこの歌に理不尽の響きを感じる。
田子の浦波だって立たない日はある、それが自然の摂理だというのに、自分の心はけして止まらない理不尽。
心あるものでならねばならないことの、終わりのない苦しさと、
でもその苦しみをもたらすものが自分にとって何より大切な気持ちであるという理不尽。
そういうものを、「日ぞなき」の係り結びによる強調に読む。

「そんな日はない」という、事実ベースの言葉にじぶんをゆだねてみせる叙述には、静かなあきらめも感じられる。
恋をしなくてはならないことの理不尽、生きていなくてはならないことの理不尽を、淡々と歌い上げる透徹したあきらめ。
どんなに理不尽でもこの心は止まらない、というあきらめ。

そういうものを全部飲み込んだ上での、この平易な表現なんだ、と思う。

だからなんだか、より独り言っぽく読みたくなって、つい四句を「あれども人を」って読みたくなるからわたしは危うい。
実際のところわたしだってまず、最初の穏当な解釈に従っている。
わたしはただ、その穏当さ、あえて芸を排したような至純の中に、かすかに滲んでくるものを愛しているのであり、そのかすかさを見失っては、わたしもわたしでいられなくなる。

これは一般論じゃないぞ。二人称だぞ。たった1人のその人と、その人に恋するもう1人の人のためだけにある歌なんだぞ。
君を恋ひぬ日ぞなき。君を。君を。君を。自戒して反芻した。

この歌を含む古今集の恋一というセクションは名歌がひしめいているところで、

夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふ
天つ空なる人を恋ふとて

わが恋はむなしき空に満ちぬらし
思ひやれども行く方もなし

こんなのが、「駿河なる」の歌の周囲にある。
こういう心にしっかりフォーカスをあててゆく歌は、現代人の心も一撃で打つ力を持っている。

一方、「心」を直接のテーマにすえない歌は、現代人に対しては少しつかみの弱さがあるのかなと思う。
ましてこの歌は古今集の心を直接述べない歌の中でも、そう目立たないものである。
和歌を好きな人にだって、なぜこんな歌をわざわざ取り上げるのか?これを読めるのがそんなに嬉しいことか?と思われても仕方はない。

しかし、一見凡庸な、なんでもない歌こそ、「どうしてこんな当たり前のことを和歌に詠まなくてはならなかったのか」という問いは強く付きまとう。
そしてわたしは、古今集に入るレベルの歌なら、たいがいは、その問いに答えられるだけの地力を持っている、と思う。
だから、その問いの先には、思いがけない喜びが待っている。めずらしい/めずらしくないの地平の先ににあるものが見える。

そんなこんなで、今朝のわたしは、とてもいい歌と仲良くした。
それがほんの数分のことだったから、よけいに嬉しかった。わたしは、時間に対して無力じゃなかった。ひさびさにこの種類の喜びを味わった、と思った。なつかしかった。

この喜びを味わった後に、すべてを台無しにする一撃が待っているのも、前の通りだった。

アイソスタシーという概念を愛しているけれも、アイソスタシーさんはどんなときでもきっちり仕事をする。喜びには必ず鉄槌を下す。
伯父が亡くなった。

今日、折しも父が3ヶ月間の入院を終えたところで、わたしもいろいろ頑張ろうと思っていた矢先だった。

駿河なる田子の浦波たたぬ日はあれども君を恋ひぬ日ぞなき

彼の妻(つまりわたしの伯母だが)や、彼の娘や、息子や、まだいとけない孫たちは、今どんな夜を過ごしているだろう。
どうして彼女はその人と恋をして、子どもを産んでしまっただろう。その子供も恋をして、子どもを産んでしまっただろう。どうして別れてしまっただろう。
あの伯父がもういない。

今日は雨だから、頭が痛くて止まらない。どうして、どうして、その問いが止まらない。 嫌な予感って、ほんとうに嫌だ。

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