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読了メモ「レヴィ=ストロース入門 」9



1.前回

神話において固有名詞による表現が登場するケース

<推定1>前回の結論
物語が複数の集合を語る時、その複数の集合に共通集合があると固有名詞が割り振られる、のかも。

2.固有名詞について2

さらに思いつきを追加。

11.動物と霊以外、登場人物は基本「家族」だけ。
他の人間は「村人」として一緒くた。「その他大勢」

読了メモ「レヴィ=ストロース入門 」|浅井哲史 (note.com)

「村人」という言葉がある以上、家族以外の「人間」も認知されている。

5.動物が擬人的に登場する。
ただ同じ動物が複数は登場しない。その動物の妻なら出てきたが。そういう意味で動物は固有名詞的。

読了メモ「レヴィ=ストロース入門 」|浅井哲史 (note.com)

他の「人間」が認知されているにも関わらず、普通は人間である「支援者」や「攻撃者」を、なぜ擬人化して動物にするのか?

<推理>
支援者や攻撃者を「人間」にすると、人間であるにも関わらず「家族名」で表現することができない。なので「ある男」と言わざるえなくなる。しかしそうなると主人公の「ある男」と呼称が同一になり区別がつかなくなる。だから動物にする。「動物名」が「家族の外の者」を指す固有名詞になっているということ。
現代のラジオ人生相談に例えれば

「ある男」は「母」に虐待された。すると「Aさん」が支援してくれて助かった。そしたら「Bさん」が母の肩を持って攻撃してきた。」

という相談があったとする。
ここで言う「Aさん」「Bさん」が「アルマジロ」とか「ジャガー」だということだ。つまり動物である必要はない。ABCで良いし、植物でも霊でも構わない。

「ある男」は「母」に虐待された。すると「ある男」が支援してくれて助かった。そしたら「ある男」が母の肩を持って攻撃してきた。」

では何を言ってるかわからない。
つまり動物達は「語るために」必要だったということだ。

『今日のトーテミズム』での有名な言葉を使えば、それらの動植物は「食べるのに適している」からではなく、「考えるのに適している」ことから選ばれているのである。

p221

とレヴィは記したが、さらにその前に「語るのに適している」から選ばれたのでは?そうしなければ神話を語ることができなかったのだ。

つまり動物が登場するのは、主人公とその家族を「家族名」で表現するからである。人間を固有名詞で呼びたくない、あくまで「家族名」つまり家族構造における「位置」で「語りたい」のだ。
なぜなら「神話は人ではなく構造を語る」ものだから。

となると逆に「人間が固有名詞で表現されると、それに反比例して、動物の登場機会は減るだろう」という推測が成り立つ。この推測はこの本の神話だけでなく日本や世界の昔話などでも結構成り立ってる気がする。ただの勘だけど。

3.自分の世界と比較

上記は、われわれが家族問題をラジオで人生相談する時の文法と基本同一のものだ。「類似」ではない、「同一」だ。
家族問題の相談内容は、要は「家族構造の問題点」だ。つまり「父」や「母」や「子供」という位置の機能不全を相談する。それを実名で表現したら相談にならない。「父が浮気してる」から家族問題になるのであって、「海音寺大五郎が浮気してる」では「誰それ?」で終わりだ。
固有名詞では家族構造は語れない。家族構造を語るには家族名で語る必要がある」というトートロジカルに当然のことが、あまりに当然すぎて見えない、ということだ

4.追加の思いつき

4.1 同一律

さらに深堀りするとこれは言語そのものが持つ制約であり、あらゆる言語に同一律がある、ということだろう。例外は存在しない。
つまり「ある男=ある男」である。物理的には左辺と右辺は違うものだが、形式/表現が同一なら意味/指示対象も同一としなければ、言語そのものが成立しない。

4.2 なぜ神話は構造を語るか?

これはこの問い自体がある意味逆転しているのだと思う。神話は構造を語っている、つまりある種の「不変的な事象」を語っているから残存し記録されたのだ。これに対し日常会話や日常の小話はその時その場で語り切るから残存しない。ただそれだけだ。
「未開社会」でも固有名詞で人を呼称し、さまざまな会話、小話、噂話、笑い話が語られているし、そっちの方が圧倒的に大量に決まっているが、ただそうした「物語」は残らないのだ。
なぜなら固有名詞で語られていると、その固有名詞の人を知る人達以外は興味ないから。海音寺大五郎?誰それ?てことだ。

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