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浅いテツガクの収集


昔のカキコ

2000年代頃、中二病的な自己流テツガクを2ちゃんに書いていた

仕事や職場のことから逃避したかったのもあるし、もともとそういうのが好きだったのにいつのまにかビジネス書とか投資本とかばかり読んでいる自分への嫌悪もあったと思う

「浅いテツガク」としてあれをまたやりたくて、5ちゃんの過去ログを探したけどさすがに見つけられなかった
で、クローゼットに放置してた過去のPCを漁ったら、ちょっとだけ残滓があったので、記録しとこうと思う

何故産業革命をアジアが先に達成できなかったのか?

イギリスについての記載らしい

石炭掘削の排水を、掘った石炭を燃料にして、蒸気機関でやったのが画期的だったんじゃないか。
なんつーか、エネルギー生産と機械化のPDCAサイクルとでもいうか。
機械化でエネルギー生産量が増える、増えたエネルギーでより大量の機械を動かす、するとまたエネルギー生産量が増えて・・・みたいな、拡大再生産するサイクル。
で、増産してくエネルギーを汽車や汽船で分配して、他の生産、労働をどんどん機械化した。
そしたら石油や電気も使えそうだとなって、今に至る、みたいな。
サイクル説が我ながら気に入ったので、ちょっとggてみた。

1712年、ニューコメンが鉱山の排水用の蒸気機関ポンプ製作
1785年、ワットが蒸気機関のエネルギーをピストン運動から
    円運動へ転換させることに成功
    「燃料である石炭を時代の主役に押し上げた。」
1825年、蒸気鉄道が初めてイギリスで実用化
    ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道。
    「世界で最初の蒸気鉄道は、イギリスの炭鉱で産出した
     石炭を運搬する目的」

この史実をサイクル説に当てはめてみる。
産業革命は1760年代から1830年代だから、産業革命前夜、イギリスが、エネルギー生産の機械化を開始。
産業革命初期、その機械を改良。エネルギー生産と機械化が、相乗効果で拡大再生産していくサイクルが本格稼働。
産業革命後期、増産されたエネルギーの分配を、機械化したネットワークで拡大。

2011年のカキコだった。30代でもまだこんなこと書いてたか

近親相姦って何故ダメなの?

て、タイトルのスレをバックアップしてた。確か哲学版のスレだったと思う

インセストタブーは言葉に関係しているという持論を展開してる

「父」とか「母」とか「子」って言葉を使うためにはインセストタブーを設けるしかなかった

なぜなら、

かなり思いつきなんで、だらだらイメージで書くことになるけど・・こんな感じ。
「母」って言葉はそれを語った話者と母子「関係」にある人を意味している。現実に産んだかどうか、育てたかどうか、は副次的なことだと思う。
つまり「母」は「人」を指す言葉でなく「関係」を指す言葉だと。
「父」とか「子」も同様。
で、例えば「母」という言葉は「親」であり、必ず「子」に先行するという関係性(シーケンシャルな秩序=順序)を保有してると思う。
なんて云うか「母」とか「子」って言葉は数字みたいなもんだと思うわけ。「1の次は2」なのと同様に、「母の次が子」なんだと。
現実には「1の次が3だ」とか「2の次が1だ」とか、口さえあればいくらでも強弁できる。つまり現実には数順規則を破ることはいくらでも可能。
この規則自身に特に必然性はないから。
でも、この規則を破れば数字は数字として用を為さなくなる。それと同じだと思うわけ。
インセストタブーにも必然性は無いけど、「母」とか「子」とかの言葉自体がインセストタブーという規則の中で一義的に定まってんじゃないかと。
この規則を守らなければ、その社会(というか言語使用空間というか)においてこれらの言葉はいくらでも多義的になり、つまりは無意味になると。
家族関係言語の秩序(構造)を維持するには、現実もそれに合わせるしかない。
おれの娘がおれの父と結婚することはできる。だけどその場合、おれの娘は「子」なのか「母」なのか一義に定まらなくなる。こうなると、「母」と「子」という言葉の持つ関係=順序が狂う、それはまずいってこと。
「1」という数字自体に何の意味もなく他の数字(例えば「2」)との関係と規則(数順規則)によって数字として意味を持つ、
それと同様に、
「母」という言葉自体に何の意味も無く他の言葉(例えば「子」)との関係と規則(近婚忌避)によって言葉として意味を持つ。
つまり「母」とか「子」って言葉は生物学的な母とか子とは違うし、インセストタブーと独立に存在するのではなく、インセストタブーがあるから意味があり、存在しえるものだと思う。
んで、他の家族言語も同様なんじゃないのか、って仮説。
で、これらの言葉によって人間は世界を総体として秩序立てて説明可能になり(現実が秩序立っているかは関係無く)「神話/世界観(共同体の統一価値)」が口述可能となったんじゃないかと。
逆に云うと「父」「母」「子」とかの言葉を使わずに神話や物語は作れないだろうてこと。つまり血縁関係を説明原理に使わず神話は作れない(例えば「月は太陽の子」みたいな神話は血縁関係を説明原理に使ってる)。
数字を使わず現代宇宙論を作れないのと似てる。
想像だけど、数字が創造されるまでは、「祖父の時代にこんな事件があった」「父の時代にこんな事件があった」って感じで神話は口述されたんじゃないか。つまり親子関係が事件の順序性=歴史を保証してたんじゃないかな。固有名詞には、こういう関係性(順序)が内在してないから。
逆に云うと、親子関係の順序性が保証されていたから(つまりインセストタブーが守られていたから)「歴史」は誕生しえたんじゃないかな。
神話にインセストタブーが多いのもそのせいじゃないかとも邪推するよ。
インセストタブーが家族関係言語の一義性を守り、その家族関係が説明原理になって神話世界を支えてるわけだから。
以上から、結論としては
「その社会が神話を持つ以上、インセストタブーは存在するだろう」てことになる。
実際の起源とかはとりあえず度外視して、言語上というか理屈上、そうなるんじゃないかってこと。
「父娘の相姦が行われているのはインディオかインディアンのある部族」というのをおれは知らんけど、そうした部族がいるとすると、上記のトンデモ理論wから以下のように推理する。
(1)例え父娘の相姦が行われていようと、この部族が神話を持つなら、
   おれたちとは違った形のインセストタブーを持つ。
   なぜなら神話は必ず血縁関係を説明原理として使用してる筈で、
   その為には家族関係言語の一義性が守られてる筈だから。
(2)父娘が相姦して子供が生まれた場合(もっともこれを相姦と呼ぶ
   のは日本人から見たらってことだけど)、娘からすればその子は、
   「子」なのか「兄弟」なのか判らなくなる、
   つまり言葉の一義性が崩れる。
   それでもそういう相姦が為されているということは、
   A:「姉弟/姉妹」という言語を持たないか
     (つまりそういう概念を持ってないか)
   B:娘からみた言葉の一義性が意味を持たない社会、
     逆に言うと「父/男」側からのみ言葉の一義性を確保
     している社会だろうと推測する。
     なぜなら父から見れば、娘の子供であろうと自分の「子」
     に違いないので言葉の一義性は確保されてるから。
(3)Bだとすると、その社会は、父娘の相姦は認めていても、
   母-息子相姦は認めないだろうと推測する。
   なぜなら「息子/男」の視点から見た場合、母の子供は、
   自分の「子」なのか「兄弟/兄妹」なのかごっちゃになるし、
   「父/男」から見ても、自分の「子」なのか「子の子」なのか
   ごっちゃになるから。

なんと2003年のカキコ

今読むと理解できない点もあるが、言わんとしたいことは思い出せる
20年近く経っても思想ってあんまり進化しないんだなあ、ただ興味を無くすだけで

人や社会に対する感覚や感情は歳とともにだいぶ変わったのに

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