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普通って言われても

 「普通」の言葉が持つ意味ってなんだろう?

・通常、平常
・一般的、標準
・ごくあたりまえな、いつもの、習慣
・常識的、平均

 気持ちとして「普通は~」と使うとき、こんな感じの意味を含んでいるでしょうか。

 「普通」って、あなたが思っている日常ってことなんでしょうね。
 とても主観的な判断でしかないんだな。「一般的」「標準」「平均」「常識」のように客観的で普遍的なようでいて、実は、人ひとりの頭の中だけの基準であって、それは自分にしかあてはまらない基準です。どこか遠くにいる誰かはもしかしたら違うかもしれないなんていうほど大層なものでもなく、目の前にいる親しい誰かともはっきりと異なっている自分だけの「普通」。


 こどものころから私は「普通になりたい」と、とても思っていました。どうしてそんな風に考えるようになったのか、思い当たることがふたつあります。

「めずらしい子だねぇ」:父親の予測する通りに行動していないと必ずこう言われていました。

「ほかの子はなんでも苦も無くできているように見える。自分にはできないと感じる」:自他共に認める努力家に成長してました。

 幼い私にとって「特別であること」や「変わっていること」「違っていること」は避けなければならないことでした。なによりも「できていないこと」はあってはいけませんでした。客観的に見て、他の子より上手にできていることがあっても、それを喜ぶことは「してはいけないこと」でした。なぜなら、それは「できてあたりまえ」でなくてはいけませんでしたし、できなかったら「めずらしいダメな子」になるからです。
 「めずらしい子だね」とは褒め言葉だとあとから言い訳することもできるでしょう?「受け止めるほうの問題だ」とすりかえることができる言葉は世の中にはかなりあるかもしれません。「そんなつもりじゃなかった」「悪気は無かった」というだけで、社会的信用を持つ人は許されることがたびたびあります。大人と子供という関係のなかではよく起こってしまう出来事です。本当にたいせつなのは、そのとき「どう受け止めたか」のほうです。どちらが事実で、どちらが真実なのか、考えるとわからなくなってしまいそうですが、真摯に受け止めるべきはどちらなのかは、誠実である人には言われるまでもなくわかるはずのことではと思いますが、それも「普通は」とつけなくてはいけないのかもしれません。

 「誰かを罰するために物事をあきらかにしなければならない」作用が働けば「事実を明確にする」必要が生じます。証拠、心象、精神状態、立場、根拠…そんなものを次々と並べていく作業になります。冷たく、硬く、石版に彫られた文字のように規則正しいルールと正義であると訴えるようなものです。正義を証明したいのです。一方的に強者の理論が通る観念です。

 「共に生きていこう」と思えばどう変わるでしょうか。答えはとてもシンプルです。「心を解きほぐそう」とします。相手の言葉や態度にどのように感じたか、どのように思ったかと、訊ねなければならないと思わずにいられないからです。誤解があれば解きたいと願い、解けるのであれば赦してもらいたいと願い、これまでと変わらず共に生きていけるようにと願いが叶うのであれば、棘のような苦しみから解放されるのにと切ない思いを募らせるでしょう。思いと願いが互いに交差していくことで初めて互いの気持ちに触れた心地を味わうかもしれません。その結果、分断することがあっても、できないことがあるのだと分かったという納得の上で次のステップと踏み出せるものなのでしょう。これは相互作用であって、一方通行では成立しない関係です。

 さて、「誰かを罰するために」と考えるか、「共に生きていこう」と考えるのかも、どちらが普通であるのかという問いかけになるのかもしれません。「普通」というのは個人的な価値観の最たるものなのですね。なにを「善いこと」と判断し、なにを「悪いこと」と判断するのも同様です。特にそれらは立場によって逆転するものですから、普遍性など一片も持ち合わせていません。私たちが知っていけるのは「そういう場合もある」というケースのひとつひとつにしかすぎません。どれだけ多様なケースを経験しているかは確かに有効な判断材料になりえます。けれどもそれを観察する主眼が常に定点であれば、なにを見ても、聞いても、知っても、いつも同じ判断しかくださないことになります。普通というものの善悪の基準を固定してしまっているからです。

 基準を持っているということは、判断(ジャッジ)する天秤を持っているということです。その基準を疑うことすら無いのであれば、基準から判断する作業を疑うことも無いでしょう。そして、それは多くの人にとって常に一定であるという安心感の根拠でもあるのですから相当に厄介なことです。

 では、なぜ安心感からはずれることから避けようとするのでしょうか。まるで本能でそうしているかのようです。本能なのでしょうか。そうかもしれません。本能にはあらがえないとあきらめますか。どうでしょう。

 本能にあらがってきたのが人間の歴史なのかなとふと思います。人がより人間らしく、より理性的な存在であろうとし、より高度な意識を持った紳士淑女であろうと生き続けてきたことは、どんな文化を生んできたでしょうか。内面を深く掘り下げ、情のあらぶりを表現してきたのかもしれません。思いと姿を一致するための格好を表現してきたかもしれません。彼らの多くはインテリという一部の層にしかなかったものでしょうか。そうでしょうか。そうではないと思います。
 古くは洞窟のなかに描かれたように、口承文化が受け継がれてきたように、本能と人間であろうとする抗いは個人に生まれる衝動なのだと思うからです。そして、本能と切り離そうとしても切り離せないことを受け容れた時代は訪れたでしょうか。無いのではと考えています。
 感情を無下にし、感性を軽く扱う現代の風潮にもそれはあらわれているように見えるのです。「普通」のなかにとりこまれようとすることで安心を覚え、本能から生まれる感情を見ないようにすることで理性のある人間だと思いこもうとし、本能から生まれる感性を味わおうとはしないことで原始的な存在からは遠く離れたのだと証明しようとしているのではないかと思えるのです。どうしてそこまで厳しくならなくてはいけなかったのでしょう。

 ただ、共に生きようとすれば、よかったのではないでしょうか。
 人の間でも、植物との間でも、動物との間でも、鉱物との間も。そのことなくして宇宙(そら)は遠いなぁと感じてしまいました。  


 ある時、社員旅行のオリエンテーションの時間に「集合時間は〇時です。」と説明する担当者に質問があがりました。
 「何時までに着けばいいですか?」。

 自分で判断すればいいことじゃないのか?と思いましたし、こどものような質問だとも感じます。けれど「迷惑をかけないように集合時間の何分前までに到着していればよいのか」を聞きたかったようです。担当者の回答はこのようなものでした。
「常識の範囲内でお願いします」。
 質問者はぐっと声を詰まらせてしまいました。そこで助け舟ですが、やや押し問答のシーンになりました。
「常識の範囲内とは?」。
「常識の範囲内は、常識の範囲内です」。
「それは10分前にということ?それとも5分前にということ?1分前でもよいと考える人だっていてもいいだろう。常識だなんていっても決まってはいないんだよ」。

 確かにそうです。
 ルーズというのは5分早くても遅れてもルーズなんだと聞いたことがありました。そして私がそれまで住んでいた沖縄では待ち合わせ時間から30分は遅れてやってくるのが常識です。むしろ時間ぴったりに来ると「どうしたの?なんで?」と驚かれることになるでしょう。相手を慌てさせてしまいますね。みんなゆっくり来るはずだという共通認識は「慌てなくても大丈夫」「待っているから大丈夫」「おいていかないから大丈夫」。そんなメッセージでもあるのです。

 苦虫を噛み潰したような顔で担当者は言いました。
「…じゃあ、10分前には全員そろっているということで。」
 内心(早っ)って思ったことを覚えています。私の感覚では集合時間は集合時間なのですから、その時間ぴったりに全員が集合していたらいいわけです。何分前にその場所に到着していることを目指すかは個人の判断かなと考えていたので、10分前に全員集合ということは集合時間が10分早まったというだけのことでしたが。結局その10分前までに、どの時点で自分がどこに居るべきかを決定するのはそれぞれってことではないかな。珍妙な話でしたね。


 自分にとっての普通は、他人にとっては普通でもなんでもないのです。その「普通」は誰にとっての普通なのか。誰にとって都合がいいのか。定点から外れてみると、客観視ができるようになるのでしょう。が、定点からはずれることが不可能な脳の構造をしている人もいるのだそうです。定点からはずれることができない人の思考は、定点からはずれることができる人からはシミュレーション可能でしょうが、その逆は難しそうです。どうしましょう。

 それなら軸にあるのはまたシンプルです。
 「その人の理屈なのだ」「その人にとっては筋が通っているストーリーなのだ」と受け止めるだけでいいんですね。受け容れる必要もなく、ただ「あなたはそうなんだね」と、それだけです。
 互いに「できること・できないこと」があって、そのどちらもありのままそこにあるのだと互いに感じあっていればそれだけで、かなり平和です。

 平和のなかに住んでいる人は、心が平和なはずです。
 心が平和でないなら、平和のなかに住んでいないってことです。

 心が平和に凪いでいるのなら、今その瞬間、あなたは平和な世界にいるという事実です。その瞬間を、長く長くもっと長く居続ければいいんじゃないかな。そういう人が、ひとりまたひとりと増えていけばいいんだけじゃないかな。そう思っているんですよ。

 深呼吸ひとつで実現可能なことですから。


 


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