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「風邪知らず」は怖いよ

 ラジオから聴こえてきました。

 要約するとこんな風でした。鼻声のようです。
「本日は、声がお聞き辛いことをお詫びします。
 昨日はお休みをいただきましたが、喉の痛みや鼻水などの症状がありましたが、PCR検査では陰性でありましたので、本日は復帰しております。」
と、ラジオパーソナリティの声でした。

 ん?

 陰性だとそうなんですね。
 陽性だと療養機関が必要になるんですね。

 症状は「同じ」なのに、と考えるととても不思議なのですが、前提が違えば「それは当然」と考える人もいるのでしょうね。

 ところで。
 こんなことがよく言われていました。


「それくらいで」


それくらいの熱程度で
それくらいで、具合が悪いだな
それくらいで休むの?


 …そんな感じでしたよね。
 体温管理体制が進むなか、(現在では症状は多様で無症状も含むので、もはや実質的な意味もないものですけれども)【37.5度以上】は出勤や入店はアウトになっています。
 
 働き過ぎの(ワーカーホリックな)日本人の特徴に「健康をないがしろにして働く」というのがあるそうですが、制限をかけることで、まさにそんなところを見直すよい機会になるのでは?と思っていました。

 が。

 実際にはどうだったのでしょう。

 職場に入る前に必ず行われる体温検査。
 「体温計の設定温度は極めてアヤシイのでは?」とささやかれ始めました。次々と打ち出す、ゾンビ体温(35度台)は、そもそも設定がおかしいのではないか?と誰もが思ってました。
 でも、もしかしたら「表面温度」の検知と、「体温」の検知は異なるものなのでしょうか?

 そう。
 わたしたちは、あれは「体温計」だと思っていたのです。
 「37.5度以上」だとエラー音が鳴り響きます。そうしますと、別の体温計が差し出され、再度、検温します。これも非接触式の温度計です。

 非接触式の温度計ってなに?というギモンが起こりましたよ。

その1 医療機器の認証を受けた非接触式「体温計」
その2 医療機器の認証を受けていない非接触式検温器

 どうやら、”医療機器”である場合は医療機関でないと使用できない代物らしいですね?

 そうだったのかー!

 自分の顔がモニターされて「表面温度」が表示されるカメラで、検知する対象は「異常体温かどうか」なんですね。異常体温であれば、あらためて「体温を測る」という手順が重要なわけです。
 でも、実際は…?
 体温は測定されていません。非接触式検温器で「ピッ」ってされているだけなんだと思うの。体温測定であれば、同じ「ピッ」でも耳や脇で測るタイプになりますから。そういうことですよね…?
 
 「そうだったのかー。あれって、そういうことをされてただけなんだぁ」って話なだけです。つまり感覚的に「熱を測ってるわけではないよ」と。

感覚的な話ってだいじ

 ”感覚的”な解釈をしているのか、”事実”を理解しているのかってとても大事なことですね。

 カメラの前に立つとき、だいたい思ってたと思います。

 「カメラで体温を測ってる」
 「熱を測ってる」
 「発熱しているかどうかがわかる」

 ”感覚的”な理解ではそれが実態でした。
 でも”事実”は違ったんですね。

 じゃあ、どう考える?
 それが、とっても大事だよね。それが、ものごく重要なことなんだよね。

 【人権を護る】ためにはね。


風邪をひかない?ひけない?

 「風邪をひけない人が多いよね」。

 我が家のこどもたちがまだ幼い当時、近所の友人とこう話していたことがありました。ふたりとも同じことを感じていました。
 そんなわたしたちは、こどもたちが風邪をひくなどすると、それは「成長して身体が強くなっていく証拠だ」と考え、不安なく、必要な看病をしていたものでした。熱を下げる解熱剤に安易に頼るのではなくて、身体が発熱することで体内のウィルスをやっつけているのを”助ける”ことです。しんどいこどもの気持ちをやわらげることです。
 「大丈夫だよ」
 「〇〇ちゃんの身体、とてもがんばってるね!」
 「熱がひいたら、もっと元気になるんだね」
 感覚的な理解で、こどもたちは体感的にをれを肌で感じていました。安心して発熱する状態を受け容れることができているのでした。
 だからこそ「これは違うぞ」という状態の違和感もすぐに察します。
 「不自然さに敏感」です。

 ”薬に頼らない生活”とは、よく目にしますが、”事実”は理解されているでしょうか。それは「治療が必要なとき」と「自然治癒が働いているとき」の区別がきちんとついていることです。なんでもかんでも「現代医療を拒否する」ことではありません。

 

毒は薬

 どう考えても、現代社会の環境ってなかなかどうして汚染だらけなのは事実です。人工物に囲まれて生活していますし、それに頼ざるを得ません。とても便利であると同時に、使い方が適切でなければ心身に支障をきたします。
 ”毒”をうまく使って”薬”にします。
 「健康に良い」とされているものでも、過剰摂取は体に毒ですよね。そういうことです。「薬の使い方を間違えると毒になる」というよりも、「毒を上手に使うと薬になる」という理解のほうがより正確な気がします。同じなようで違うのは、心構えかもしれません。「正解」を求め「間違い」を忌避すると、「不正解」を知らないままでいたり、「間違い」の理由を受け容れられないことがあるでしょう?その姿勢と、「そもそも毒である」とわきまえながら使うのとでは、柔軟性が違ってくるのですよ。

バランス調整力があるから起きる

 恒常性(ホメオスタシス)っていいますね。
 【常に一定を保つ】ために起こる状態ですが、これは”感覚的”な解釈になると、なにか「常に一定である」ように感じます。あたかも「常に一定である」ことが正常で、「常に一定である」状態を保持しているように感じているかもしれません。

 でも”事実”は違いますよね。

 「常に一定ではない」から「一定を目指す方向に動いている」んですね。

 うん。これって、ホント、だいじだなぁって思うんですよ。
 あっちに偏ってるから、バランスをとって、今度はこっちに傾くよ~って感じ。どっちもあるよ~。
 それがバランスが取れてるってことだなぁって思います。

そもそも毒の中に居るのだから

 私は末っ子を自宅出産していまして、ふたりの助産師さんによくしてもらいました。二人必要なんですよ。私のためにいざ何時でもどちらかが必ずかけつけることができるように、メインと補佐の役割です。他にも病院での施術が必要になったときは速やかに搬送できるように引き受ける病院を探して約束を取り付けるまでが自宅出産には必要なことなんです。
 助産師さんとの信頼関係は絶対に必要で、自分(私)の信念を曲げて助産師さんの指示に従う覚悟があることも確認されました。過去に自然志向の妊婦さんやご家族に対応してきたそのかたは、当人の信念が健康なお産を邪魔してしまう状況が多々起こっていたんですね。その経験ゆえのことでした。


 「例えば鉄分を補うために肉を食べなさいって言ったら食べられます?」って聞かれたんですよ(笑)。「必要なら食べます。大丈夫です。」って即答しました。
 どういうことかというと、当時私はマクロビオティックを参考にして食生活で体質改善をしていたところでしたから、比較的、肉や油が少なめな食生活だったんですね。それまでが私の体質には「油や肉が過多で負担がかかっている」食生活でしたので、それでバランスが取れてちょうどよかったんです。小さいころから胃腸虚弱なんですね、いろいろと弱い。
 が、なかには「マクロビオティックではしてはいけないこと」というような”感覚的”な解釈をお持ちの方もいて、まるで戒律かなにかのように感じて肉を絶対に拒否する…というようなこともあったようです。
 
 ”事実”を理解するというのは、”感覚的理解”も含めて【本質的を知る】ことにつながります。「学習する」というのはまさに”事実を理解する”には極めて重要だし、必要なことですね。だけど、そのまえに”感覚的”に分かることも重要で、それ抜きにはどれだけ「知識の学習」を積み重ねても深い理解は得られないものと思っています。
 (ただ教育的観点から言えば難しいのは、”感覚的”に分かる段階から、”事実を理解する”段階に自発的に進むにはなにが必要か、というテーマですね…。)


 そういうわけで、「自然志向」が高じて、むしろ「不自然」になるかたは時々いらっしゃるようで、助産のお仕事をお断りするらしいです。
 そんな助産師さんとのお話のなかで、私の言葉にいたく感激されたことがありました。それこそ出産を終え、産後のお世話も終えて、いよいよこれでお会いするのも最後という日の事でした。


 ”自然なお産”といわれますけど、”自然”の意味を「なにもしない」と考えているかたも多い気がします。
 本当に「自然な状態」から見れば、そもそも現代社会は毒だらけで、わたしたちは生まれる前からすでにいろんなものに汚染されてもいるし不自然な存在です。
 その不自然さを調整して、自然なお産に近づけようと、適切な手助けをしてくれるのが助産師さんの仕事だと思っています。全面的に信頼します。 


 そんな風に言ったと思います。
 その時、スタッフのかたももうひとりいたと記憶してるんですけど「今の聞いた!?」って。「みんなに聞かせたい…」っておっしゃってました(笑)。「そうなのよ!」って。「自然に、って放置するってことじゃないのよ」って話をされてたと思います。

思い出話

 「いよいよ出産ってときに、私が宿を探そうとすると、”うちで泊まれるのはダメですか?”って言ってましたよね。あれで本当に驚いて…本当に信頼してくれるんだなってあのとき思ったんですよ」って…。
 そうそう。そんなことも仰ってました。
 えっと…なんか、たいていのお宅では「他所で泊まってほしい」意向らしいです。え、なんでですかね…?わかんないですけど。

 あ、なんか思い出しちゃった。
 それまで個人病院での主産予定だったのに、いろいろあって急な変更をせまられていて、さっき出てきた友人がお世話になったというので連絡した助産院だったんですね。
 「いざというときに搬送できる病院を探しておいてください」って言われていたものの大きなところから断られていました。「引き受けるところなんてありませんよ。最近、自宅出産で緊急入院を余儀なくされた妊婦さんがたらい回しで亡くなられたことを受けて、総合病院では”引き受けるな”って通達がまわっているんです」って病院の先生に言われたんです。
 「そんなことはありえない!」と、助産師さんが即座にその病院に確認をとり、そんな通達は無いことを明らかにしました。それで別の病院に引き受けさせたのです。なんという強者(つわもの)。
 「別の引き受けの病院を探そうとなった時、電話口で、”いい結果になるように祈ってます”って言ってたじゃないですか。あの時ですよ。このお産を引き受けようと決断したのは。
 本来なら、妊娠初期から引き受けるんです。そうじゃないと信頼関係が築けないから。
 でも「祈ってます」って言われた時、これはぜひにでもよい結果を出さなくてはって思ったんです」。

 思い出すと、今でも感激してしまいます。
 人と信頼と愛で結ばれた瞬間を確かに感じました。その関係が長く続いているわけではないんですけども…確かにその瞬間が在ったことは忘れてはいけないですね。

 私は人とのつきあいが長くつづきません。ずっと連絡をとりあっているとか、つきあいがあるとか…そういうことが滅多にありません。むしろ、どちらかといえば、必要な時に出会いがあればそれで充分だと考えていて、”その時”が過ぎればつきあいもおのずと消えていくことに安心を覚えてしまいます。めんどうくさいってすぐに思ってしまうのかも。
 それでよいのかどうかは、実は最近はちょっと考えなおしているところです。それはもしかしたら親から受けた言葉の呪いだったかもしれないから。でも長い一定のつきあいがあるって苦手なのもの正直なところで…。ずっとべったり、ずっと一緒、なにをするにもいつも同じ人と新しいことをって感覚は難しいなぁと感じるのは本音。


自然ってなぁに


 思い出話のその当時、プライベート出産といって、助産師も頼まず、夫婦だけで、海で出産するなどの出産方法が流行り始めていました。
 それが「可能な」人なら大丈夫です。その選択も自由意思で尊重されて当然です。「可能だ」と自分たちの状態を充分に理解して、対応もできるのなら大丈夫だと思います。でも「可能かどうか」を判断できないのにそれをしようとするから問題になるのです。
 自然志向ってなるとちょっと厄介だったりします。

 それはなにごとも「決まり」からはいったり、「正解」を忠実に守ろうという姿勢からくるのかなって思います。
 そういうことではないんだけどな…。

 ありのままで…っていうのも、そう。
 自然のまま…っていうのも、そう。

 なぁんか、違うんだよねぇって思うことがしばしばあります。
 なあんでしょうね。

 「風邪をひく」というのは、自然の営みです。
 どうしても毒は蓄積していきますし、いつかどこかのタイミングでそれを排出しておかなければ、どかんと大きな病気になりかねません。身体に無理なく少しずつ体内に蓄積した毒を排出する自然の作用が「風邪」だと思いますから、うちでは風邪をひくと「よかったね」って安心します。

 風邪をひけてよかった。
 
 そういうものです。

 逆に言えば、風邪をひかないことや、予防するという考えは、そんな自然の営みを不自然に抑制することですから、率直に「怖いこと」です。心身の調整をおこなわずに、人工的に「一定を保つ」努力をする様子はきわめて不自然に見えてしまいます。結局、無理をしているわけですから。それは美しいとは言わない…。そう感じます。

 風邪、ひいてますか。
 身体の機能、動いてますか。

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