「”ホームスクール”に対する先入観」と「”虐待”に対する偏見と差別」
以前から書きたかったことです。
その動機は怒りです。
ホームスクールに対する先入観 と 虐待に対する偏見と差別
これを目の当たりにしました。
いかに怒りを鎮めて、読んでもらえる冷静な文を書けるのか。自分の感情を抑えて書くことに努めました。
ホームスクールと虐待を並べて語られると、無性に腹が立ちます。
なにかの正当性を証明する手段に「虐待」の文字を利用しているだけであり、聞きかじりのイメージでしか語っていない、と感じるからです。
「○○でない」を語ることで、「だから良いのだ」を導こうとしているのが見えるからです。
それって弱いものいじめと同じです。
自分と同列に思われたくないものを排除しようとしているんです。
そんな方法をとる人は、私から疑問の目を向けられることになるのは間違いないです。
どこまで知っているのか、理解しているのか、
理解しようとしているのか、
「虐待とは何か」のポリシーを持っているのか
疑いの目で私はその人を眺めることになります。
「自分は虐待を絶対にしない」と考えてるな、とか
「ホームスクールで虐待をする人はいない」と口にしたりとか、
「虐待する人間なんて人間じゃない」みたいな発言がみえれば
(あぁ、この人は理解していないな…)
そんな判定が私の中でくだりますね( ̄ー ̄)
まずそういう人物を信用はしないでしょうね。
「しょせん他人事なんだな」というのがわかってしまうからです。
どんなに支援マークをつけていてもです。
ましてや、その発言者がホームスクール当事者であるならなおさら哀しい気持ちになります。
ホームスクールの実践者ではない人からの、先入観だらけの発言に覚える怒りを、知っているでしょうに。
不登校の当事者ではない人からの、心無い発言や、善意からだとしても無理解であることへの悲しみを、知っているでしょうに。
どうして…。
そう感じます。
哀しみが、あまりに通じていないと感じると、それは怒りに代わります。
でも、このテーマ、実は次に続きます。
偏見と差別、先入観を持っている表れなのだと、自分自身を疑わない愚かさだから。それは傲慢というものだから。
いつかは、その傲慢さを手放さなければならない日が訪れるはずです。
その前に、その傲慢さを持っていると突きつけられる日は必ず来るでしょう。その時、どう向き合えるでしょうか。どれだけ誠実に、自分を受け止められているでしょうか。
私の怒りは私のもので、それをどう表現するかは私の自由です。
私の怒りの感情に対して、誰かになんとかしてほしいとも思いません。むしろこの場合はスルーしてほしいと思っています。
受け止めてほしいのは怒りではありません。
「そんな考えもあるのか。」と気づいてほしいのです。
そこから思慮を深める機会になればうれしく思います。
ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。