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恥は強さのはじまりかもしれない

生きていて怖いのは恥をかくことだった。

それが最近薄らいできている。

恥をかかされるのはまあ多少きつい。
悪意があるかないかで、随分違うと思う。

しかし、少しだけであって、30代までの自分と比べると随分気にしなくなった。

以前はたとえば、「自ら会議での発言」など考えられなかった。

自分がトンチンカンな質問をしてみんなの時間を止めてしまったらどうしよう、バカだと思われたらどうしよう、または質問しないことで「やる気がない」と思われていたらどうしよう。

こんな有様で常に気が気ではなかった。

バカにされたことは一度や二度ではない。

「話聞いてた?」「普通はできるでしょ」「最近太った?」。

中身から外見まで、ふいに大勢の前で投げかけられる言葉というのは時として痛い。
ハイフより全然痛い。

でも本質を振り返ると恥をかかされたことよりも、その時に言い返せずただ傷ついただけの自分のほうが許せない。

いざという時の「傷ついたんですけど申告」はした方がいい。
なぜなら言わないと傷ついていないと、そう思われても仕方ないからだ。

一方で、バカにされるようなことを自らやって安心していたような気もする。

人は自分より下だ、と思える人間と出会うと安心するようにできている、というのが持論だ。

なぜならこの最低な考え、自らも覚えがあるからだ。
我ながら最低。

だから私と同じような人間に対して、敵ではないことを示すために、わざとヘラヘラと自虐していた。

敵を作るくらいなら道化になったほうがマシ、という、今考えると闇深い考えを持っていた気がする。

今もその癖のようなものは完全に無くなったわけではなく、自虐的な話は笑いも取れるので自ら進んですることもある。

以前と今で変わったのは、笑いが取れればいいのであって、それで人の反応を見るつもりもないということだ。

人が考えていることはわからない。

わかると思うほうが傲慢なのかもしれない。先入観で人を決めつけることが一番見下すことにつながると、自分の体験からも肝に銘じるようになった。

こんな仕上がりの大人になってしまったし、恥だらけの人生だが、周囲の人々のおかげで毎日を生きられている。

40代になってもまだ会議の発言に躊躇することはあるし、周りから使えないなと思われることも怖い。

切り替えられなくて傷つく夜もある。
最近で言うと履いていたスカートが、電車のドアに挟まった(乗客たちに静かに見られた)。

相変わらず恥は盛大にかいている。

でも恥をかくたびに、強くなる気がする。

恥を血肉にして生きていれば、いつか笑いにしてやろうという気概が生まれる。だから心の中に私という芸人をすまわせることにした。

おもしろいネタを逃してなるものか。

そう考えれば、恥をかかせるような人間になるくらいなら、恥をかいていた方がいい。

恥はきっと、自らかきにいくものであって、かかせるものではないのだ。

他人にネタを取られている場合ではない。

美味しいご飯を食べながら、「聞いてよ〜」などと話を始める。そんな話を一緒に笑い飛ばしてくれる友人や家族とのご褒美のような時間を、密かに楽しみにすればよい。

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