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私はただ継続をしたいだけなの-弁当編②

何も継続できない、そんな自分も愛しい。
などと死んでも思えないけれど、昨今のセルフラブな風潮はそんな感じで生ぬるい風を与えてくれる。いい時代になった。

奇跡的に弁当持参の日々が続いている。
継続できずに苦節40云年の私が、である。もったいぶる話でも「これが秘訣!」と目次だてる必要もないくらいどうでもいいので早々に書く。

可愛くないタッパーで、毎日同じメニューでいいと気づいたのである。

お子さんや配偶者のために弁当を作らなければならない環境の方からしたら「お弁当作りたいのに続かない~」といった嘆きなど心底どうでもよく、「作らなくて済むなら作らなければいいじゃんカス」くらいの話である。反論もできない。

そう、この内なる批判で気づいてしまったのだが、私は目的を誤っていた。
私はお弁当を作りたいのではなく、「毎日弁当を持参したい」のである。
自分の力で。

持参したいだけなのだから弁当の中身の彩りを考える必要などなく、手前の腹に適度に入って、適度に気に入る味であればそれでいい。他人に見せる必要はないので自尊心も傷つかない。

弁当を持参できなかった日はセブンイレブンに駆け込む

そしてもう一つ。
なぜかこれまで「自分で買った可愛い弁当箱じゃないと気分が上がらない」と思い込んでいた。しかし、これまでの人生を振り返ってみると長く使用したものは大体何かの付録か、誰かからのプレゼント、はたまた無料で手に入れたノベルティグッズなのである。

そうなのだ。美しいものを買うと、使用する自分のセンスが許せなくなり、一気にやる気が失せてしまうのである。

思い出してきた。
以前に働いていた会社では「たわら(自分)は使っている備品がダサい」で有名だった。おしゃれな同僚たちは会社の備品など使わず、美しい筆記具やはさみ、かわいらしい付箋などを自前で用意して使用していた。
ある時私は自分の名前を付箋に書き忘れたまま「回覧」とだけ書いて書類を回してしまったのだが、あくる日にはちゃんと自分のデスクに戻ってきていた。こんな味気ない付箋を使うのはたわらだけ、という共通認識があったと後から聞いた。

話がそれてしまったが、つまり自分に限ってはかわいい弁当箱は不要。私の汚い料理と盛り付けセンスで汚すことを考えるとお金を払って買うのはやめたほうがいい。美しい弁当箱にとらわれ過ぎていた。
小学生のころから大人たちがよく発言していた「できることから一歩ずつ」の意味がやっと分かった気がした。

ということで私が毎日持参している弁当はこちらである。

ランチョンマットが家感すごいっすね、と言われた
鮭フレークを足したらデザートを忘れたので甘めのラテを足してみた

おそろしい無機質感。
ブロッコリー、唐揚げは冷凍食品。ご飯も冷や飯をあたためたもの。たまに鮭フレークを入れる。マグカップには市販の味噌汁。
冷凍食品は朝、そのまま弁当箱に入れて終わりである。

やってみたら毎日同じメニューでもまったく苦ではなく唐揚げは美味しいしブロッコリーは罪悪感を消していく。御の字である。

インスタのストーリーズにアップしてみたところ、「減量中ですか?」とフォロワーさんに質問いただいてしまった。それくらい質素である。ちなみに減量しておらず、この量でも運動せず日夜座りっぱなしの生活を送っているので安定的に肥えている。

見た目は悪いが、誰かの気休めになったら幸いだ。

弁当袋はかつての雑誌マリソルの付録。
雑な扱い方のせいでチャックの取っては失われ、内側のアルミ的なものは剝がれつつある。

ちなみにこの弁当は自虐のつもりは一切ないので憐れまれても困るのだが、同情するなら弁当箱くれ、とだけ書き添えておく。多分もらったら、長く使う。

もし何か物事を続けたいのに続かないと悩んでいる方がいらっしゃったら、「これだけは絶対」と思っていたものをいったん捨ててみることをおススメしたい。捨てるというか、横に置いておくというか。

私とて、美しい弁当への憧れがなくなったわけでは決してない。
でも今はこれでいい。
持久力をつけて、明日へ向かおうではないか。

ふいに送られてきた姉の弁当写真。自分の弁当と内容がダダ被りだった

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