当たり前に壊れていて、当たり前だから壊れていない
私は楽しい感覚を持っている。
私は楽しい感覚を持っていた。
私はたぶん日常的感覚を持っている。
私はたぶん日常的感覚を持っていた。
私はきつねうどんとたぬきうどんを区別できない。
私はきつねうどんとたぬきうどんを区別できなかった。
私はタバコを吸っている。
私はタバコを吸っていた。
私はXXXをしている。
私はXXXをしていた。
私がXXXな性癖を持っていると書いたとして、
本当にXXXな性癖を持っているというふうに思われるかどうかは、相手の想像をある程度予想したうえで、相手にその想像をお任せする。
私がXXXをしたとして、(作者本名)がXXXをしたということにはなっていないけど、ときたまに(作者本名)がXXXをしていたことになる。
私は粒あんが好き。
私はカスタードの今川焼きが好き。
それは文章に限らない話。
先日私は、親にこれまでの私が書いた文章の一部を見せた。
それをみた親に「あんた、こんなことをしていたの?」って聞かれた。
ううん、それはしていないよ、でも、あれはしているよ、それはフィクションなんだよ、これは本当なんだよ、って真剣で退屈な表情を作って答えてみることにする。親はそうなのねって顔を作っていたように思う。
私はずっと笑っていた。
本当に笑っていたと(作者本名)が認めている。
その感覚はある。
でも感覚は始まった時には壊れている。
感覚は壊れたものとしてしか始まっていない。
それが記憶としてあるように感じる。
例えば、楽しかったという本当のような感覚は、
あたかも本当で、あたかも過去で、あたかも未来で、
いつも当たり前に壊れていて、当たり前だから壊れていない。
私が言葉を発した時に、特別おどおどしておらず、自信を持った顔をしているとしても、それはすでに割り引かれている。
私たちは初めから割引かれていて、割引かれた私たちは割引かれたまま概ねは割引かれた顔をせずに振る舞っている。
それはいつだって本当なんだけど、それをある程度の本当というように感じているかどうかが人を大きく分けているように感じる。
私はたくさんの人に大事にしてもらって、
たくさん笑って、たくさん言葉を使って、たくさん息をして、特別何と言うこともなく遠くに流れ着いている。
参考
福尾匠 非美学
近藤和敬 ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』を精読する 〈内在〉の哲学試論
金原ひとみ パリの砂漠、東京の蜃気楼 fishy
P.S.
ずっと考えたいテーマ。
人と飲むたびに感じること。
お酒の場は三人称的なまま一人称的な語りにさらされていることを自覚しやすい。
一人称的な言動が一人称として取られた場合、一人称的な言動はジュディス・バトラーのパフォーマティブ?的な考えで、一人称的な本性を遡行的に生み出す。
ただ言葉が一人称以前の領野で不安定なままに統計的に生まれているのであり、さらにその三人称性を自覚している場合、他者や自分から自分へ向けられ措定されている一人称的な主体性はなんらかの形としてあることにはあるが、滑り落ちていくようなものとしてある。